この国の民主主義を国民目線で作り直す ― 解散は「強い政治」を作るための第一歩
前回の記事で私は、政治は一刻も早く国民の「信」を問うべきだと主張した。
私が言いたかったことは、この国の政治に新しい変化を起こすのは有権者しかなく、有権者が覚悟を固める局面だということである。
その後も政府の統治の力は弱まり、首相退陣を巡る攻防だけが政局の焦点となっている。
呆れた話だが、被災地の知事に、「お客を待たせるのか、助けないぞ」とすごむ復興担当大臣は辞任に追い込まれ、原発の再開で首相に梯子を外された経済産業大臣も辞意を漏らす騒ぎとなった。原発の再稼働を巡る方針で政府の腰が定まらないまま、来年には電力危機が想定される事態になっている。
胸に響いたある主婦からの発言
震災復興やこの国自体の復興という、国民が直面する現実的な課題と、政局の動きの間には目に見えるほど大きな距離が広がっている。これは統治の危機のみならず、国民が代表を選び、その代表が国民の代わりに直面する課題に取り組むという、民主主義の機能不全だと、私は考えたのである。
こうした私の問題提起に、数多くの人が反応し、意見をいただいた。その大部分は、有権者は政治に解散を求めるべきという私の提案に賛同し、その幾つかは言論NPOへの厳しい注文となった。胸を締め付けられるほど、共感を覚えた意見もある。
その一部を紹介しよう。ある主婦の発言である。
「国民として、被災地と何のつながりもないひとりの主婦として今、どう行動すればいいのか、見出せずにいます。選挙があるまで、何もできないのでしょうか。プラカードを掲げて歩けばいいのでしょうか。
前回の総選挙以来、政治の混迷も苛立つばかりで、実際には、どうすることもできずにいます。次の一票を投じる機会を得るまでに、いったいどれだけの産業がダメになり、商店がつぶれていくのでしょう。10年後の市は、町は、国は、どうなるのでしょう。誰がそのビジョンを描いているのでしょう。
物知り顔で世相を説いてみせても、何も変わりません。大阪の大きな商店街で3代目の個人商店を営む両親は自分たちが過去50年やってきてこんな酷い不況はない、商店街の店もどんどんつぶれていく、そして皆、老人向けの接骨院になってしまう、と悲鳴を上げています。
個人でできる努力には限界があると思います。むしろ個人レベルでは、誰も必死でやっています。それらを力強くまとめ、未来を指し示す政治の力が必要です。今は個人が力尽き、町が弱り、国が死のうとしています。
政治の努力はどこにあるのでしょうか。政治の復活再生のために、個人は何ができるのでしょうか。どうか教えてください。」
この国の政治の崩壊を前に、私たち個人は何ができるのか。それは今、国民全員に問われた問いである。
前回の記事で、私は、やる気になれば数か月でその準備はできる、と書いた。
政治に新しい変化を起こすためには、まず解散を迫り、最終的に選挙で有権者の意思を示すしかない。
ただ、今すぐ選挙を行えと私は主張したわけではない。選挙のなるべく早い実施を国民に約束し、それまでに政治が一体となって被災地の問題に取り組み、多くの有権者が参加できるための選挙の準備を進める。
と、同時に私たちは政策を軸とした政党の再編や、選挙制度も含めたデモクラシーの仕組みの建て直しのために議論を開始する必要がある。
こうした政治の建て直しには何回もの選挙と時間が必要になるだろう。しかし、今始めなくては、その機会を私たち自身が見失ってしまう、と考えたのである。
選挙をやっても棚に並ぶ商品は一緒
この点で、私に寄せられた多くの意見の中で最も私が関心を持ったのは、むしろ解散に反対する意見だった。今、考えるべきいくつかの論点が示されていたからだ。
この論点は大きく言えば2つに分けられる。
1つは、解散は行ってもいいが、候補者として示される政治家の顔ぶれが同じでは選挙を行っても同じではないか、というもの。
もう1つは、今の政治家を選んだのも今の有権者であり、有権者はその時々の雰囲気や自分の利害を優先するために、それに見合った政治家しか生み出せない、しかも今の選挙の在り方では、代議制民主主義が機能しているのか疑わしい、というものだ。
私はそのあと、この解散を巡って民主党の若い政治家と議論する機会があった。最初の論点に関しては、その時に政治家から同じ意見が出たので、そのやり取りをここで紹介する。被災地の支援の際に出会ったことがある、36歳の内科医出身の梅村聡参議院議員である。
梅村: 私は今、36歳なのですが、今の党の幹部というのは運動の世代なのです。統治という概念が非常に薄い。首相が辞めるのか、辞めないのか、こういうことで議論する際に、誰が最終的にまとめるのか。結局、そういう意味で言えば、統治でしょうね。統治機能が無くなっている。
工藤: 僕も、今の日本は統治の危機にあると思います。ただ世界の中で、また時代の中で日本の課題もあって、それを早く直して、その課題に挑んでいくという流れを作っていかないと、大変なことになる。必要なのは選挙による、政治家の仕分けではないか。
梅村:工藤さんのお立場から言えば、国民に「信」を問うということですけど、私から言わせれば、国民に「信」を問うても、棚に並んでいる商品は一緒なのですよ。もっと言えば、政治家の棚卸し。これにつきるのではないかと思います。
工藤:では、政治家を棚卸しする力が、今の日本の政党にあるのでしょうか。
ここでの議論は、政党がこの国が直面する課題を解決ができる候補者を、選挙時に提示できるのか、という問題である。
梅村議員は、私と同じ問題意識を持ちながら、それが今の政党の中ではできないことをあっさりと認めている。さらに対話を続けてみる。
梅村:本来、二大政党になり、小選挙区制を導入した時に、その裏打ちとして政党の人材育成機能ということが実は必要だったのです。日本はその肝を抜いたまま、細川政権の時の政治改革の議論の中で、形だけを真似た、と。だから、その育成機能を今の政党につくっていかなければいけない。そこをやらない限りは、国民に信を問うても、国民が迷惑なだけです。
工藤:政党助成金で国民から税金が党に流れている。その使い方を見直して、人材育成に充てればいいのに、結局、みんなに分配して選挙資金のために使ってしまう。そういう動きというのは、梅村さんが党内で提案しても修正は無理ですか。
梅村:それは、国民の側が、そういう選択肢で政権を選ぶという大きなムーブメントが起これば。
工藤:起こらないとダメだということですね。
梅村:起これば、いけると思います。
同じ疑問を私は以前、自民党の石破茂政調会長にもぶつけたことがある。
政党はすでに政策を軸にまとまっておらず、政党というものが機能するためには政界再編は避けられない、とする石破氏に、その動きを政治の世界で自発的に行うことは可能か、と尋ねたのだ。
その際の答えも同じだった。
「国民の側からそれを提起する動きがないと、難しい」と。
本来、国民の代表にふさわしい候補者を有権者に提示するのは政党の仕事である。だが、その政党自体が、同床異夢の状態で、適切な候補者を発掘できず、育てられない。
むしろ、国民側に政治の建て直しを政党に迫ってほしい、というのである。
私は解散を行うべき、と主張しているが、選挙が行われ、政権が変われば、自動的にこの国に、課題に取り組む新しい政治が生まれると楽観視しているのではない。
選挙は、この間、政治をただ見ているだけしかできなかった有権者にとって、意思を表明できる第一歩だが、新しい確かな変化を起こすためにはそれだけでは足りない。
前回も説明したように、主要な政策の選択肢を提起し、どれを選ぶのかを政党や政治家自身に問い、政治家ごとにその実行を評価し、公表する。
さらに言えば、課題解決に取り組む新しいリーダーの発掘や、梅村氏が言うように、政党に関しては政党助成金の使い方や、政策の立案の党内ガバナンスも、当然問うべきだろう。そうしたプレッシャーをかけ続けないと、日本の政党は変わらないし、候補者の棚卸しも実現できまい。
私たちのNPOも当然、議論の舞台でそれを行うつもりだが、そうした準備を今回の解散から始めようというのが、私の提案なのである。
代議制民主主義の基本を再吟味する必要があるという意見
解散に反対する2つ目の意見は、現状のままで選挙を行っても同じ繰り返しを招いてしまうのでは、という危惧から出ている。
1つは有権者自身が誤った選択を再びするのではないかという危惧、そしてもう1つは、選挙で代表を選ぶという民主主義の仕組み自体が機能しているのかという疑問である。
私に対しては次のような意見があった。
「そもそも今の選挙制度と現状の代議制民主主義で、国民の広い信頼・負託を得た議員を選ぶ事が実質的にできていない。今のシステムでは誰が選ばれようと、政治は混乱し、リーダーシップの取れる総理や政権は生まれない。今の混乱は政治家の個人的資質の問題や個別政党の至らなさの問題だけではない。むしろ、国民の熟成度の低さと選挙制度のまずさ、代議制民主主義の限界の問題が大きい」
この問題は、有権者の選択のまずさと同時に、代議制民主主義の基本の再吟味が必要ではないか、という問題を突き付けている。
私は、ここで代議制民主主義の是非まで論じるつもりはないが、私なりに単純化すれば、今の政治家は国民の代表と言えるのか、そこには選挙制度上のまずさはないのか、という問題がある。
第1の有権者の選択のまずさの問題は、率直に言えば、有権者自身が学習するしかない。多くの有権者はこの政治の機能不全の状況を見て、安易な投票行動がどのような政治を生み出してしまうのか、その怖さを痛感したはずだ。
被災地では、震災から4カ月も経つのに瓦礫などの処理が進まず、生活不安は解消されるどころか、地域の復興の姿さえ見えない絶望的な状態にある。
にもかかわらず、国会では政治の閉じられた世界だけで、党の分裂と権力争いだけを繰り返し、国民との距離を広げている。
民主党の政治家が、この局面においても解散を、被災地を理由にタブー視するのは、水ぶくれのように膨らんだ議席数を任期中は維持したい、というためだけである
非常に甘い「最低投票」の基準
第2の疑問は、これからの民主主義と有権者の在り方を考える点で重要な問題を提起している。
私は、この点で「最低投票」の問題を、ここで皆さんに提起してみたい。
選挙では、相対的に多くの票を獲得した人が当選する。そこではいくら投票率が低くても、「有権者の代表」は選ばれる。
公職選挙法では、このほかに、あまりにも得票が低ければ当選できない、という「最低投票」の問題があり、衆議院の小選挙区制度では、有効投票総数の6分の1は最低でも獲得しなくては、相対的に1位になっても当選できない。
こうした選挙制度についての解説本はいろいろ出回っているが、なぜ「最低投票」がここまで甘いのかを説明するものは、現段階で見たことはない。
仮にある選挙区で投票率が50%の場合、有権者全体の9%程度の得票で当選できることになる。小選挙区制は二大政党化を進め、1人の当選者を選ぶ制度である。
それが、10人に1人の支持も得ないで「有権者の代表」と言えるのかということである。
こうした大甘の理由は、6分の1という設定やその計算式の分母に有権者総数ではなく、有効投票総数を置いていることが背景にある。
ある政治部記者出身の政治評論家が書いた子供向けの解説書によると、選挙による棄権者とは「白紙委任」とある。これはあまりにも政治家目線の解説だろう。棄権は、有権者としての権利の放棄であるが、今の政治では、政党が政策を国民に提起できず、曖昧な公約しか出さないため、選べないから投票もできない、という理由も十分理解できる。
そこで、私は選挙で「有権者の代表」を選ぶためにあえて、以下のような提案をしてみたい。
つまり、①現行の有効投票数を分母にする場合は2分の1以上、②有権者総数を分母にする場合は4分の1以上、を「最低投票」と算定して、この水準を上回らない場合は、再選挙を行うか、その再選挙コストを節約するため、当選者を選べない、つまり「政治家空白」としたらどうか、ということだ。
有権者は選挙を棄権する以上、政治家を選ぶという権利を放棄したことになり、「政治家空白」となっても文句は言えないはずである。有権者は政治空白を避けるためには、政治家をしっかりと評価することになり、政党は適切な候補者を選ぶことに必死になるだろう。
有権者の代表を選ぶという民主主義の在り方が俄然、緊張感を伴うものとなる。
私たちがこの間の選挙をもとに簡単な推計をしたところ、03年の総選挙(平均投票率は59.86%)では ①の場合は162、②の場合は55の選挙区で空白が生じ、有権者の支持を確保できた政治家の数は大きく削減されることになる。
世界では最低得票率を50%としたり、投票を義務化する国もある。その国の民主主義の程度にもよるが、今の日本の政治の状況を考えれば、こうした提案も荒唐無稽とは言えないだろう。
政治家の目線で設計された今の代議制民主主義
代議制民主主義の立てつけには、政治家の目線で設計されたものが並んでいる。
政党助成金や小選挙区制と比例区の重複立候補、そして最低投票の問題、さらには小選挙区制度の問題など、有権者が代表を選ぶ仕組みに様々な疑問が出ている。
例えば、小選挙区で落選した候補が政党の比例区で当選し、その後、その政党を辞めても政治家を続けている衆議院議員も2人いる。政党助成金ではその使い方が明確でないだけでなく、受け取りを拒否している共産党分をほかの政党が山分けしている。
こうした不可解な事例はいくつもあるが、もそれを話題にし、改善する動きが政治家や主要メディアから具体的に提起されたことはない。
一票の格差も、最高裁で違憲判決が出ても、政党は本気で取り組んでおらず、民主党では その決定を次の執行部に先送りしている。
この構図は、原発の推進を進める経済産業省所管の原子力安全・保安院がその安全性のチェックを行っているのと同じである。いわば原子力村ならぬ政治村の存在が、政治がここまで混乱し、政府の統治が崩れても、国民の信を問うという、有権者の立場に立った発想自体を阻んでいる。
私へのメールで、有権者が今の政治を変えるためには、こうした代議制民主主義の構造 そのものを問うべき、という意見がある。その通りだと、私も思う。
そのための議論を私のNPOも始めるつもりだが、しかし、こうした構造を国民の立ち位置で全面的に変えることも、最終的には有権者が選挙で判断するしかないのである。
民主主義を機能させるということは、選挙における「競争」と「成果」を政治家に問うサイクルが実現することである。「成果」を判断するために、政治家や政党が有権者に取り組む課題と達成目標を説明し、その業績評価を有権者が選挙で行う。
そうした緊張感から、新しい強い政治が生まれ、政治のリーダーを必ず生み出せると、私は信じている。
政治に、国民に対する「信」を問うことを迫るのは、そうした国民目線の政治を作り出すその第一歩だからである。
2011年7月18日 17:50
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