民主主義の「危うさ」の中で、「健全な輿論」を誰が担うのか
言論NPOの『次の10年』に向けた覚悟
「議論の力」で閉塞感を変えたかった
私が代表を務める言論NPO(認定NPO法人)は、先月末で設立10年を迎えた。
それを記念して今月5日、多くの仲間が「祝う会」を開催してくれた。
ただ、これは単なるパーティではなく、この国の民主主義と言論の役割を考え直す、そういう日にしたい、ということで、「日本の未来と日本の言論」と題した討議が行われ、そして、私も一言、話をさせていただいた。
いさかか無責任に聞こえるかもしれないが、非営利で言論の役割を担うというある意味で無謀な試みを10年続けられることに、私自身、初めから自信があったわけではない。
仲間からは、これまでの10年はむしろ準備期間、これからが本当のスタートという、力強い激励もいただいたが、本当のところは、目の前に現れ続ける問題に全力で向かっていったら、あっという間に10年が経ってしまった、というのが実情である。
設立された頃は、国内では小泉政権が誕生し、そして、アメリカを襲った未曽有のテロ、「9.11」直後で、まだ世界も国内も騒然としていた時だった。
言論NPOを知らない人には少し説明が必要になるが、10年前、私たちは強い民主主義のインフラには、当事者意識を持った「議論の力」が必要と考えた。当時から、この国の政治は課題を先送りし、未来が全く見えない状況であった。この閉塞感を「議論の力」で変えたかった。
極めて簡単に言えば、そのための議論の舞台が言論NPO、ということになる。そして国内を代表する数多くの有識者がボランティアでこの試みに力を貸してくれた。
有権者に判断材料や議論の場を提供
ただ、この10年を振り返れば、別に私たちは、特別のことを行ってきたのではなく、当たり前のことに取り組んだだけに過ぎない。ここで言う、当たり前のこととは、本来、民主政治とは有権者が政策を判断して自らの代表を選ぶもので、政治家にただお任せするものではない、ということである。
そうした有権者に、自ら考えるための判断材料や議論の場を、提供しようとしたのが、私たちの主な仕事だった。
7年前、他に先駆けて政党のマニフェストや政府の政策の実行に関する評価や議論を公開した。それ以来、定期的にこれらの評価を続けているのも、そのためである。
そして6年前からは、中国との対話に取り組み、民間の新しい本気の対話のチャネルをつくりあげた。私たちの議論づくりが国境を越えたのは、両国民間の相互理解を進めるには、「対話の力」しかない、と考えたからだ。
当時、日本と中国という2つの大国は政府間の対立が深刻化し、中国ではデモが多発し、国民間の感情悪化が加速した。誰かがこの状況を変えないと、大変な状況になりかねなかった。
もちろん、こうした事業がこの10年で成功したのか、といえば十分だとは思っていない。ただ、この10年で私にもはっきりと分かったことがある。
それはこの国の民主主義の不安定さであり、「危うさ」である。
野田首相の気になる発言
野田政権は12月10日で、政権の運営を始めてから100日が経過した。ハネムーン期間の100日後から、私たちは毎回、政権の評価を始めるが、この間の発言で特に気になったのが、野田首相がある経営者の集まりの講演で使った、「捨て石になる」という言葉である。
一国の首相が、「捨て石になる」と言うのは尋常なことではない。
多分、野田氏は消費税の増税に対する不退転の決意を仲間内の雰囲気の中でそう表したかったのだろう。しかし、この言葉ほど今のこの国の政治の不安定さを説明している言葉はない。
私は、この言葉の背景をこのように理解している。
もともと民主党という政党は、政策を軸に集まったわけではなく、権力をとるためだけの集団であり、現時点では党内融和を掲げる野田政権下でかろうじてまとまっているだけの状態にある。まとまっているのはまとまった方が都合がいいからで、党内のほとんどの政治家が、政策の実現より次の選挙に向けて、どのように振る舞ったら有利か、ということだけで行動している。
いわば、野田政権は党内の分解をかろうじてつないでいるだけの党首であり、一方で直面する課題をこれ以上、先送りすることが許されないことを前の2人の首相よりも覚悟している、政治家だということである。
こうした野田氏への期待とその限界は、私たちが、この100日時点で有識者を対象に行った緊急のアンケートでも浮き彫りになっている。
首相の資質を問う項目では鳩山、菅の先輩首相を上回る期待が、この100日時点の野田氏に集まっている。しかし、100日後も期待できるか、という問いには6割近い有識者が期待できない、と答えている。
私が問題だ、とここで提起したいのは、それ以前のことである。
課題のこれ以上の先送りは、この国の破局そのものに直結する可能性がある。にもかかわらず、政治家はその現実を視野の外に置くかのように、自分の利害のために行動し、国民との距離が広がっている。
その解決で党内をまとめ、国民にそれを説明し、説得する政治家の姿は見あたらず、当座をしのぐことだけが、政治家の行動となっている。
民主主義の「危うさ」を助長するメディア
多くの人がこうした政治に呆れながらも、それを遠くから見ているしかない。むしろ真面目な議論を敵視するような雰囲気がこの社会を覆っている。そして、その雰囲気づくりに多くのメディアが手を貸している。
私が、民主主義の「危うさ」、と指摘したのは、こうした雰囲気そのもののことである。
この12月は、社会保障と税の一体改革の素案づくりで、野田首相の決意が問われている。党内の反発も強い。その焦点は消費税の5%の増税である。
が、これは社会保障の改革ではなく、2015年までの社会保障の財源の穴埋めに過ぎない。5%の消費税を実現できたとしても、2015年には約18兆円の国のプライマリー赤字(国債等借入に伴う支出と収入を除いた生の赤字)が想定される。
しかも、日本の高齢化はこれからも、急な坂を上がるように急速に深刻化するのだ。
私の簡単な試算でも、大幅な給付カットや驚くほどの成長ができない限り、当面の5%では済まされず、2020年までには消費税は20%を超えることになる。
ただ、これで嵐が過ぎ去るわけではない。
消費税が仮に20%になっても、今年で1000兆円を超えた国の債務はさらに増加を続け、現役世代が高齢者を支えるだけの社会保障の仕組みも困難になる。この高齢化社会をまかなう新しい仕組みを完成させない限り、国の未来に関して答えを出すことにはならないだろう。
ほとんどの政治家はそれを知っているはずだが、問題はあまりにも大きく、本当のことを語らず、取り組むことに腰が引けている。
では、この日本の政治を誰が立て直すのか、それが、私の問題意識である。はっきりしているのは、永田町にはその答えを期待できない、ということだ。
世論ではない「輿論」の重要性
民主主義が不安定なのは、古代のギリシャの時代から指摘されていたことである。
この不安定さは、大衆の空気に支配され、それに迎合する政治や扇動する政治に陥りやすいことにある。独裁や、戦争という破局を招いたのも歴史の事実である。それが、代表制や大統領制を生み出し、権限を相互チェックする仕組みをつくり出した。
個人の人権や平等に最も適合した民主制は民衆の衆愚によって否定される。この皮肉は、私たちにある試練を迫っている。
代表制の仕組みをまず健全に運営させることである。今の日本の「危うさ」は、それが機能しないまま、日本が未来に向けた決定を迫られていることにある。
その中で、もっとも大事なのは、輿論(よろん)の役割だと、私は考えている。世間の空気の流れに逆らっても、責任ある意見を主張する覚悟と、それを尊重する姿勢である。
京都大学の佐藤卓己准教授は著書「輿論と世論」の中で、世論と輿論は異なること、そして「世間の雰囲気(世論)に流されず、責任ある意見を担う主体の自覚が民主主義に不可欠」と主張している。
私も、その覚悟のために、非営利の世界に飛び込んだが、そうした輿論を担う主体は、論壇の機能が衰退したのと同様、今ではほとんどが形骸化している。既存のメディアも含めて大衆の雰囲気に迎合する、ポピュリズムの傾向がはっきりと目に見え始めている。
言論は「何が問題か」を提供できているか
こうした言論の状況をどう考えるかが、10年目を迎えた、言論NPOでも最大のテーマになっている。
先の「祝う会」のパネル討議は、打ち合わせなしの、ぶっつけ本番だったが、それぞれのパネラーが民主主義の危うさと、言論の問題を指摘している。
この討議には、言論NPOのアドバイザリーボードと理事から3人の論者が出席した。前駐中国大使の宮本雄二氏、オリックス会長の宮内義彦氏、そして日本総研理事長の高橋進氏、の3氏である。そして、司会は前NHK副会長の今井義典氏が務めた。少し紹介してみよう。
宮本:民主主義の根本は、私は議論だと思います。健全な議論があって、その健全な議論が国民・輿論を醸成していく。この議論というプロセスがない限り、いかなる国の民主主義というものも、きちんとした健全な地に足のついたものにならなのではないか。振り返って、日本の言論空間というものを眺めてみたときに、どれぐらい物事を掘り下げて、深く研究をして、それに基づいて議論をしているのか。
すなわち、主権者である国民にこの問題はどういうことであって、我々は何を考えなければいけないか、ということを提供できているだろうか、ということを深く感じるわけです。
今井:宮本さんは、大使時代、言論統制の厳しい社会と政治と民衆をご覧になってきた。今、日本を含む自由主義、民主主義の国の言論の世界というのは、メディアのパフォーマンスといいますか、ポピュリズムに迎合するような部分がある。逆に言うと、独裁とか、独断とか色々な言葉が飛び出してきていますが、そういう政治を期待する向きも世の中にあるような感じもします。その辺りはどのようにお考えでしょうか。
宮本:やはり、誰かが1つの意見を決めて、それを宣伝で社会に浸透させて、それで社会を進めて行くという手法には、大きな限界があると思います。すなわち、必ずしもいい結果を生まない。他方、我々の言論空間で、一番弱いところは、自分達の意見をうまくまとめて、それを社会が受け取る。すなわち、上からではなくて下からの意見の形成というものがどれぐらいできているだろうか、という感じが強くします。
今の日本に欠けているのは、物事の論点とそれに対する考え方と、その結果として出てくる複数の選択肢というものを、日本の言論界が国民に伝えているかどうか。すなわち、日本には言論の自由もありますし、表現の自由もありますし、そういう色々と与えられている権利は、基本的には民主主義を強化するという観点で与えられているもの。日本のマスコミの方にお聞きしたいのは、自分達の判断や行動は、それが民主主義を強化するものにあるのかどうか、という、ことです。
政治も言論も迎合的
支持を求めすぎている
――そして宮内氏が言論の本質に切り込んだ。
宮内:言うなれば、民主主義というのは、元々そこにいる人々1人ひとりが自立した人間として、自分で考え、自分で行動できるという人々が集まって、民主主義というものがつくられていくというのが、基本ではないかと思います。日本の場合、与えられたということもあるでしょうし、日本の社会が優しいという意味もあって、だんだん社会の中で、弱者と称する人を増えていく。そういう人は、政府依存の意識を非常に高めていく。自立とか自主とうい人間の一番基本的なところから少し外れたような人も含めて、日本の民主主義というものがつくられてしまったのが現状ではないかと思います。
そういう意味で、今、日本は本当に民主主義なのだろうか。1人ひとり自立した人間で構成しているのだろうか。あるいは、1人ひとりが同じ権利を持っているのだろうか。1票の格差などの問題も含めまして、そういう意味では、社会の基盤である民主主義というものの危うさというものを、今度はそれを正すという方向で言論が存在するということであればいいのですが、どちらかと言えば、その言論というものは、日本的なこの社会に対する若干の媚びというものを持って、言論活動が行われているのではないか。社会に迎合する、あるいは、内閣の支持率みたいなものに迎合するとか、そういう部分があります。
社会の木鐸であるとか、リーダーシップというものをとるのだ、という意識が徐々に薄れていって、多くの支持をほしいということを言論が思い出したとしたら、私は、社会が日本の危うい民主主義と、その民主主義のサポートをほしい言論というものが一体化していくとすると、非常に弱い社会をつくっていくのではないでしょうか。ひょっとしたら、今、そういう兆候が出てきているのではないか、と思います。
高橋:議論は大事だが、それ自体が事態を変える力になっていない。結果的に、議論は行われるけれども、見解が違うね、で終わってしまう。そうして、何事もなかったかのように、既定路線のままに色々なことが進んで行ってしまう。議論しても余計に閉塞感が強まってしまう状況がある。
例えば、増税ということをいうのであれば、社会保障の水準をどうするのか、というようなことについて本当はもっと議論しなければいけない。だけれども、それはある意味で既得権に切り込むことになる、あるいは票を失うことになる。したがって、与野党共に、社会保障の水準の切り下げの議論というものは、ほとんどできないままに動いている。本当にそれでいいのだろうか、という気がします。
今回、原発事故がありましたが、原発事故が起きるまでの原子力に関する議論というものは、原子力村の方達に牛耳られてきて、村でない方の意見は通らないし、悲惨な目にあう、ということが今になってわかったわけです。そこには発言の自由もなかったのだという風に思う。
有識者の議論と市民の声をつなげたい
私たちは民主主義を当たり前のものと考えてきた。しかし、それを機能させるためにも、私たち、有権者側の努力が不可欠になっている。しかし、そのための課題はあまりにも大きい。
もっとも大事なのは、有権者が自ら代表を選ぶ、という代表制の民主統治をまず機能させることだ。
この間、首相は2人代わったが、2回とも私たちが選んだわけではない。
権力のたらい回しが行われ、2年前に有権者に提起したマニフェストという約束はほとんどが修正や断念に追い込まれ、消費税やTPPも、直接、国民に問うて約束したものではない。
一体、どこの政党を、誰を選べばいいのか、それ自体、分かりにくくなっている。民主党だけではなく自民党もそうだが、政党自体が、この国が直面する課題への対応で、党内をまとめられない事態になっている。
こうした状況下で、政治家にお任せする雰囲気があり続けるとしたら、それはやがて扇動的リーダーを求める風潮に転化するだろう。
私が、議論の力と輿論の力にこだわるのは、これとは逆の発想にある。つまり、政治家はあくまでも私たち自身が選ぶものであり、私たち自身が議論し、決断してそれを政治に求めていく。有権者が強くなければ、政治も強くはなれまい。
言論NPOは、そのための議論づくりを始めている。
「祝う会」のスローガンで私は、「次の10年」に向けて2つの目標を掲げた。「健全な輿論の形成」と「強い民主主義の実現」である。
健全な輿論が政治を動かす。そのためにも責任ある有識者の議論と市民の声をつなげて、目に見える新しい変化を、起こしたいのである。
2011年12月16日 15:46
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