市民を強くする言論

【特別議論】「強い市民社会の実現に向けた議論づくり」/編集会議new4.gif

第1話 なぜ「市民社会」は強くなくてはならないのか
-自立した市民がお互いに影響を受け合うような場をつくりたい-


編集会議の様子
 「市民を強くする言論」では議論のサポート役として編集委員会が設置されています。編集委員会のメンバー7氏が「強い市民社会の実現に向けた議論づくり」について話し合いました。
第1話 なぜ「市民社会」は強くなくてはならないのか
第2話 強い「市民」の議論のカギはどこにあるのか

 出席者は 武田晴人 東京大学大学院経済学研究科教授
      辻中豊 筑波大学大学院人文社会科学研究科教授
      山内直人 大阪大学大学院 国際公共政策研究科教授
      田中弥生 独立行政法人大学評価・学位授与機構准教授(主査)
 そのほか、紙上参加者として
      齊藤誠 一橋大学大学院 経済学研究科教授
      目黒公郎 東京大学教授(東大生産技術研究所都市基盤安全工学国際研究センター長)
 司会は言論NPO代表の工藤泰志です。

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工藤泰志 言論NPOではウェブサイトのリニューアルに伴い、「市民を強くする言論」というプロジェクトを始めることになりました。今日はそこでの議論づくりにおいて中心的な役割を担っていただく「編集委員会」メンバーの方々にお集まりいただきました。 さて、今日皆さんにお話ししていただきたいことは2つあります。まずは「市民社会を強くする」とはどういうことなのか、ということ。2つ目として、市民社会を強くするために「どのような議論が必要なのか」ということです。

「市民社会」のプラスの可能性こそ議論すべき


辻中豊 「市民」や「市民社会」という言葉を聞いたときに、我々などは特に違和感を覚えることもなくその言葉に「それっていいよね」となるわけです。しかし、そもそも「市民」や「市民社会」という言葉が嫌いだという人もいて、そういう人はだいたい世の中の半分、いや7割くらいになるかもしれません。
我々は、「市民」や「市民社会」という言葉こそがいろんな問題をつなぎ、世界とも共通の議論を設定できる、と考えていますが、そうは思えない人とのギャップはまず埋める必要があると思います。
 なぜ嫌なのか、ということについてはいろいろ理由があり、「市民」ではなく「公民」という言葉を使うべき、という方もいます。公定用語として公民館というものがあって、学校の授業科目でも中身は市民社会のことを言っているのに、名前は「公民」です。
「市民」と言うと何となく胡散臭いと思われがちです。市役所には市民課という名の部署はありますが、国の立場から見れば「公民」なのです。こうした表現の分裂は中国や韓国でも同じで、お上が強いところでは「市民」という言葉は使わせたくない、という傾向があります。

 日本の中にもそういう考え方に染まった人たちがいますので、官庁の言葉としては「公民」を使いたいとか、かつての自民党的な保守の立場としては、農村部の支持が大きかったということもあって「市民」は使いたくないということがあるのでしょう。やや左翼的な人の中にも「市民というのはブルジョワではないか」という解釈があって望ましくないとか、「人民」や「民衆」「民草」を使え、という話になってしまいます。
 さらに企業の中にいる人たちにとっては、「市民」どころではない、という人も多いはずです。企業の内部にいる時間が長すぎて、「市民」としての自分を取り戻す暇がないというのが日本の現実です。ですから特に企業内で、国際的な競争の中にいる人たちをはじめとして、一般社会の中には「『市民が強くなる』だなんて、何を寝ぼけたことを言っているのか」という議論はまだまだあるのだと思います。
 とはいえ、90年代くらいからNPO法もできて、ボランティア革命もあったということで、市民社会という言葉は右も左も関係なくなってきた、というのが今の状況なのだと思います。そういうことを踏まえて、「市民が強くなる」ということがどのような意味を持つのかということを考えていく必要があります。

 政治学的な視点から見てみたときに、日本の中でも市民意識が強い時期が何度かありました。もしかすると江戸時代にもあったかもしれません。明治以降も「国民」「国家」が出てくる前に、民会というものもありました。地方自治というレベルで見ても、日本には非常に長い歴史があります。
 「市民」という言葉は、福沢諭吉が少し使いかけたけれども、戦前はまともに使われることがなかった。しかし、市民的なるものは、人々が政治体制や世界にコミットするうえで「この中の一員である」という意識を強め、統合性を高め、やる気や元気をもたらしてくれるものでもあるのです。こういう感覚を私たちは「有効性感覚」と呼んでいます。
 他方、市民は放っておくと、自分だけが市民だと思いこんでしまって、公共性や「皆のために」という意識を失う。一部の限られた地域の利益だけを求めて、わがままになったりもするわけです。市民というのはそういう両方の顔を持っているのだということを考慮したうえで、有効性感覚を強めたり、世の中を元気づけたり、問題を解決していくといった多様な機能を持っているのだという、プラスの議論をすべきではないでしょうか。
 「市民」や「市民社会」を全面に出すと抵抗が出るという意見もありますが、それは何らかのかたちで乗り越えていかなければならないことだと思います。
 様々な問題を通じて、「市民」や「市民社会」といった言葉を使うようになってみて、そのようにとらえ直すことができれば、いろんなものがつながっていくのだということを示すことができます。
 ここでの市民の議論は、学者の議論よりも、現場の人にどんどん発言をしていただくことも大切です。生身の人の体験や出来事を通じて市民や市民社会が強くなるということはどういうことなのか、それを考える機会が増えることはとってもいいことですし、問題の複雑さもわかると思います。

強い社会とは「自助」の重要性を理解し、それを実現できる社会


目黒公郎 「市民社会」の定義は一義ではないとしても、「市民社会が強い」とは、社会を構成する市民のひとりひとりが、あるいはその多くを占める市民が強い社会であると思います。
私は地震災害をはじめとする災害の人的・物的被害や機能障害の最小化を目標とする防災の研究者ですが、防災においてなぜ市民社会が強くなる必要があるかを考えると、その延長上に「なぜ市民社会が強くなる必要があるか」が比較的わかりやすく理解できると、思っています。
 防災においては、国や自治体などの行政が防災対策を講じて人々を災害から守る「公助」、地域社会(コミュニティ)や住民同士が相互に助け合って防災対策を講じる「共助」、ひとりひとりの市民が自分自身で防災対策を講じる「自助」があります。
現在発生が危惧されている巨大地震などによる被害の広域性や甚大性、ゲリラ豪雨に象徴される都市型洪水などによる瞬時性を考えると、「公助」を期待していても対応そのものが無理なのです。そこで「共助」や「自助」が大切になりますが、最も大切なのは、何といっても「自助」であることがわかります。つまり自分で自分を守る以外に手立てがない状況が多く存在するからです。
 つまり災害に強い社会とは、市民ひとりひとりが「自助」の重要性を認識し、これを実現できる社会といえます。ところが、「自助」の重要性に気づかないと、「公助」や「共助」が「自助」を誘発したり、支援したりする機能を持たないといけないことに気づかず、むしろ「自助」を阻害する「公助」策を良しとし、「公助」に過度に期待して、結果的に災害の影響を増大する結果になります。
 防災において強い市民とは、災害について理解し、事前、最中(直後)、事後の各フェーズに、適切な「自助」対策を講じることのできる人といえます。このような人々を災害に対してresilientである(立ち直りが速い)といい、このような人々が多く住む社会が災害に対して強い社会になるのです。
 対象をもう少し広げて、社会が直面する様々な状況を対象にした場合も、社会の中に存在する生活者としての人々が、社会現象として発生する政治・経済をはじめとする様々な課題における外乱に対してresilientであること、あるいはresilientな人々が構成メンバーの多くを占める社会が強い市民社会だといえると思います。
 この場合においても、社会が直面するであろう様々な外乱の広域性や甚大性、そして瞬時性などから、社会全体のシステムに過度に依存するのではなく、市民ひとりひとりが各種の外乱に対してresilientであることが不可欠であることはおわかりいただけると思います。またこのような特性は、社会全体をよりよいものに変えていくうえでも同様に不可欠なのです。

市民と社会をつなぐ場として「強い非営利組織」が必要である。


田中弥生 そのときに問われるのは自立的に、かつ隣人や社会のことにも目をやりながら判断をする力だと、私は思います。それをどのように養うのかといえば、ひとつは教育だと思います。もうひとつ、NPOやNGOあるいは様々な地域社会の活動に参加することによって、社会の問題に対する当事者性を養うということも重要です。
 だからこそ今、社会的な課題解決の実践の場で活躍するNPOやNGOなどの民間非営利組織が強くならなければいけない、と思います。そして、NPO、NGOには自分たちの持っている参加機会を広く人々に提供する役割、つまり「市民性創造」という役割を強化してほしいと思っています。
 もうひとつ申し上げたいのは、知識ワーカーと社会参加の問題です。
 ドラッカーは知識社会の特徴のひとつとして、高学歴で、高い専門性を身に着けた人々、すなわち知識ワーカーが増えると、働き方が大きく変わることを予測しました。そして、知識という性格を考えると、知識ワーカーは組織への忠誠心ではなく、自らの知識により忠誠心を持つものだと。それゆえに自らの専門性をより生かせる職場があれば転職していくものだと言いました。しかし、このような知識ワーカーは自らの知識によりこだわるゆえにより自身に関心を向ける傾向にあると思います。
 しかし、それだけでは満たされないものがある。また、職場組織は自らの帰属意識を満たしていくものではなくなります。そうなると、社会の一員として実感する場を欲するようになる。その場を提供できるのが、NPOやNGOでのボランティアであるというのです。日本においても、流動する知識ワーカーの問題はより顕著になり、企業の経営者は彼らをどう自らの会社にとどめておくべきか苦心しているようです。
 私も学生と接していて、その傾向を強く感じますが、「仕事以外に社会に参加する場を持っていたい」という若い人々が増えていると思います。しかし、このような知識ワーカーとNPOやNGO、さらには市民社会との間にはまだまだ距離があるようです。
 言論NPOはこれまで多くの知識人、知識ワーカーの方々に支えられてきましたが、このような方々とNPO、NGOとの議論のプラットフォームをつくることができればいいと思っています。私の研究からオファーできる範囲はとても狭いですが、そういう切り口で議題を提供させていただければと思います。

「質」の評価を可能にする判断軸の多様性


武田晴人 経済史という自分の専門分野と関連づけて言いますと、経済史というのは歴史学と経済学の2つのディシプリンの上に乗っているわけです。歴史学的な視点で見ると、市民社会とはある特定の時代に成立した社会構造を意味しており、それ自体、歴史性を持つもので普遍的なものではないわけですから、市民社会ということを強く押し出しすぎると、ある種の近代主義に陥ってしまう危険性もあるのではないかということがあります。そうではないのだとすれば、なぜ今「市民」なのかと。
 経済学のほうはもっと気楽です。経済学の分野が想定する市民というのはいわゆる経済人であって、基本的には自己の意思決定に基づいて選択する、市場に参加する主体だと考えられるわけです。そう考えると、市民社会において望まれる市民像とは、参加し発言する市民であるということだと思います。ただ、その参加あるいは発言する市民が合理的というか、満足できる意思決定をするためには、「選択の幅が広い」「潤沢な情報が提供されている」といった条件が必要なはずで、経済学で言うところの完全市場の条件が満たされなければなりません。
 そう考えたときに問題なのは、市民が受け取る情報に偏りがあるということです。話題になっていることに関しては集中豪雨的に情報が入りますが、それ以外のことについてはほとんどわからないというのが今の状況です。このような情報の偏りをどう考えるのか、あるいはどう変えていくのかということがひとつ重要な課題であろうと思います。
 これは報道機関だけの問題ではなくて、学問の世界でも同じような歪みがあります。つまり流行りの話題を追いかけたほうが引用回数が増えて、学会での評価が上がる。すると若い人たちはそういうところに集中的に参入してくるので、そこだけがどんどん肥大化していくということです。報道機関と視聴率とか、ジャーナルと販売部数とか、同じような構図かそこにもあるのです。それで実際に何が起こっているのかというと、質的な評価ができない社会になってしまっているということです。何らかの量というかたちを示して納得してしまおう、という評価の社会をどう変えていくかが問題だと思います。
 つまりこれからの課題は、質の評価に関わる問題提起や基準などを出せるかということだと思います。それがひとつです。
 もうひとつは少し話が飛びますけれども、経団連は20年も前から「良き企業市民」と言っていました。これは、「企業も市民として市民社会の中で責任を果たすべきだ」ということです。よく議論になることですが、この「企業市民」は果たして強いほうが望ましいのか、弱いほうが望ましいのかということです。ここでわざわざ「良き企業市民」と言っているのは、この「企業市民」が悪さをしたり、市民社会に反するような行動を取る可能性が意識されているということなのです。もう少し言えば、企業が持つ営利性と、市民の持つ基本的な性格とがどこかでぶつかる可能性がある、あるいは営利性というものが企業に対して、市民社会を裏切るようなインセンティブを与えてしまっているということを意味しているのではないかということです。
 「NPOが市民を育てる」と言うけれども、多くの人が日常的に参加しているのは非営利組織ではなく企業なのですから、本来やるべきこととは企業の中にいる人が市民としての自己決定や選択、発言を行えるような社会をつくることであって、本来的にはそのような社会が強い市民社会になるはずです。
 政治が営利性に関わらなさすぎるということと、企業については営利性と関わりすぎて市民性をなくしているという問題の2つがあると思います。その距離感をどう考えるかです。個々の主体として我々がどう意識を変えるかが大事ですが、そのためには情報などのインフラをきちんと整備して、複数の判断基準を出していくことが重要となります。量に還元して「高いか安いか、多いか少ないか」というリニアな基準ではなく、選択可能な複数の基準を出していけるような議論をしていくことで、政治や企業との関係を変えていくということがポイントになるのかなという気がします。

市民が質を判断し、政治やメディアを選べば社会は変わるだろう


工藤 確かに今は、多くの議論がメディアの影響もあり、議論の仕方が単線的で、それが一方に急速に加熱して行く傾向がとても高まっています。その流れにただ乗るのではなく、多様な判断軸があるということが市民側にとっても大事だし、これは田中さんが言われた当事者性という視点にもつながるのです。市民や消費者が、自分で判断できる力を持ったら、この社会は大きく変わるのではないか、と思います。
 つまり、市民や消費者が、つまらない新聞やテレビ番組を見なくなれば、そしてこの国の未来に責任を持てない政治を見抜く力があれば、メディアも政治もガラリと変わります。メディアの人たちも大変な状況だろうと思いますが、質の面での競争が起これば、いいものは支えていこうという動きが市民側から始まるかもしれない。私は市民が眼力をつけていかなければいけないと思っているのですが、その「眼力」とは何なのか、というところが議論として重要です。


山内直人 市民や市民社会が想定する範囲がどこまでなのかはわかりませんが、対極にあるのはおそらく国家とか政府、行政ということになります。そう考えると、「市民が強くなる」ということはつまるところ、国家がやろうとしていることを正しく批判できるということです。そのために何が必要かというと、たとえば民主党政権が実行しようとしている高速道路の無料化や子ども手当など、いろんな政策がありますよね。新聞などを見ていると「ばら撒きだ」という批判がありますけれども、それは情緒的な議論であって、本当に議論しなければならないのは、少子化対策としていくつかの政策のオプションがあった時に、キャッシュでお金を配ることにどのような意味があるのかということでしょう。
 たとえば、子育てに使途を限定した金券を配るのと、キャッシュを配るのとではどのような違いがあるのかと。そのあたりを正しく評価して初めて、政府がやろうとしていることがばら撒きなのかどうかということを論じることができるのではないでしょうか。我々専門家の役割とは、理論的にどう考えればいいのかということについて、たとえば「配ったキャッシュの何割が貯蓄に回るか」といったデータを実際に提供することです。そういう客観的な情報を提供していくことによって、市民が強くなるためのお手伝いができるのではないかと思います。

田中 しかし、専門家のデータというものは総じて難解ですよね。

山内 そうですね。易しくなければいけないでしょうね。言論NPOなどの役割はまさにそういうところにあるのではないかと思いますが。

工藤 今のお話をうかがって、山内先生には言論NPOの評価活動のほうにも手伝っていただきたいなと思いました。というのも、先生が今言われたことが、まさに言論NPOが行っている、評価そのものだからです。

必要なのは問題意識を持って「課題を解決する意志」


齊藤誠 これだけ成熟した社会では、政府や地方自治体が手を差し伸べられる範囲は非常に限られていくので、個人個人の自立、独立が必要になると思います。あるいは、個人の集合体であるNPOも地域のコミュニティもそうですけども、現場で現場の問題を解決していく大前提になるのは、政府や自治体のサポートがありつつも、当事者がきちんとした問題意識を持って、課題を解決していくという意志です。
 単純に飯が食えるようになるとか貧乏から脱却するというのが、今の社会が直面している問題ではありません。問題解決の意志がないところに新しい変化は始まらない。ですから、今まで特に日本は公的な階層組織に自らの意思決定を委ねてきて、組織依存型がずっと続いてきた。それが幸せだった時代もあったけれども、今はそうではないわけです。政府や組織に依存せず、個人が強くあることが必要ではないかと思います。その意味でも市民が強くなる言論、というこの試みは大切です。

工藤 政治に全てをお任せするのではなく、個人がまず自立して変わらないといけないと。

齊藤 ただその場合でも、孤立してはいけない。自立した人たちがお互いに影響を受け合うような場が必要ではないでしょうか。それが市民を強くする言論の場の役割だと思っています。

⇒第2話を読む

更新日:2010年03月01日

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