「議論の力」で強い民主主義をつくり出す
言論NPOのアドバイザリーボード会議
出席者
増田寛也(野村総研顧問)
宮内義彦(オリックス株式会社 取締役兼代表執行役会長グループCEO)
武藤敏郎(大和総研理事長)
工藤:今日(6月2日に実施)は、衆議院の本会議で総理の不信任案が議決されるという非常に重大な局面の日ですが、みなさんに今の日本の政治を、どういう風に変えていけばいいのか、ということを率直に話していただけないかと思っております。
まず、最初に、今の政治の現状について、みなさんはどのように判断しているのか、ということから始めたいのですが、増田さんお願いします。
増田:今、日本が抱えている危機は、4つか5つぐらいあるわけです。津波被害、その被害を受けて、サプライチェーンも寸断されました。経済が非常に打撃を受け、途方もない被害が出ています。それから、原発の事故。東だけではなく、西日本を含めた途方もなく電力が喪失される可能性がある。それから風評被害。こういった危機の時には、強い政治が求められていると思うのですが、それに対して、今の政治は全く対応できない。
ただこれらは3月11日によって危機が生じたわけではなくて、実は、それ以前から非常に大きな問題を抱えていた。3月11日を経て、様々な問題が顕在化して、日本の政治の弱さが明らかになった。こういうことだと思います。
現状をそう捉えたときに、私は政治に直接言いたいことが山のようにありますけど、結局、最後は、我が身の不明を恥じるしかない。我々がたった2年前に政権交代によって選んだ政権です。それが、今はこんな体たらくだと。それを単に、おかしい、おかしいといっただけでは、本当の意味での責任は出てきません。私は、我が身の不明を恥じるということに結局戻らなければいけないと思います。端的に言えば、今、色々政治のゲームにうち興じている政治家には、二度と国政を託したくないな、というのが率直な思いです。
宮内:震災によって色々なことが顕在化したという、増田さんの話はその通りだと思うのですが、その中で、政治というものが何だろうなということを考えますと、1つは統治機構という形、もう1つは、統治機構の中で政治を行うのは、具体的に言うと、政党なのですね。そして、政党の思いを実行するのが行政なのです。そういうものが、うまくつながっていないと政治というのは動かないのだけれども、私はそれらが潰れてしまっているのではないか、と思えてなりません。
まず、統治機構の形ですが、考えてみると1947年施行の新憲法の時から形は変わっていないわけです。その後、世界はもの凄く変わりました。同じ頃に戦争に負けたドイツでさえ、東西統一以降も憲法を十数回改定しています。日本は硬い統治機構で、結局、総理大臣は大臣間の議長みたいな立場でしかないと。終戦直後は、権力の分散がいいことだということでやっていたのが、分散し過ぎて、誰が責任をとるのかがわからない。日本は総理が悪いというけれども、本当は統治機構が悪いのであって、総理に権力を持たさなかった、ということではないかと思います。いずれにしろ、統治の形を変えないといけないということが1つです。
それから、2つ目ですが、その形を実行するのは政治家であり、その集団が政党だということになると、政党の在り方が問われなくてはならない。
今の政権政党は本当に政党なのだろうかと。言うなれば、綱領のない政党です。綱領がないのに集まるというのは何なのだろうか。この指止まれというけど、何に止まっているかわからない、いわゆる烏合の衆なのです。綱領がない政党はあり得ない。綱領らしきものはマニフェストということで選挙を戦ってきたけれども、勝った途端にそこに書かれたものはどれもこれもダメだと言われている。自民党もそうだったし、今の民主党も政治を行うには相応しくない集団になっているのではないか、というのが実態だと思います。これは、全てやり直さなければいけない。
私は政治と行政がぴったりとくっつかないとうまくいかないと思っています。政治は国のグランドデザインをつくり、そして方向性を定めて、必要な法律の手当をして、行政にやりなさいと指示する。そして、行政がきちんとやっているかどうかをチェックする。このサイクルができないといけないのですね。現在の政治と行政の関係はそうではなくて、政治主導というものが出てきて、ものの見事にうまくいっていない。だから、行政の方は、何をしたらいいかわからない、あるいはやるなと言われている。この統治機構、政党、政治と行政の3つが、その全部がダメだと。でも、そういう政治を選んだのは国民なのですね。だから、我々も国民の1人として情けないし、責任ある国民として少しでも変えないといけないと思います。
武藤: 結局、2大政党制というためには、価値観が明確に2つに分かれていなくては成り立たないわけですね。同じ政策を、どこまで徹底してやるかということが、政治の論争になるわけですね。そうではなくてやるのかやらないのかといったような明確な対立軸はないと思います。大きな点では、日本の国民は、それほど2つの価値観ではわかれていない。むしろ、細かいことに多様な価値観を持っている。ですから、少数政党も存立するだけの国民的な多様性がある。
もし、本当に政治改革をするというのであれば、2つの価値観に分かれるようなそういう国民的な議論の消化が必要なはずです。そういうこともないまま行われている、今の政治が色々な形で行き詰まっていると私は見ています。
その中で、先程ご指摘のあった、政治と行政の関係。行政改革と政治改革がバラバラに行われ、あるいは規制緩和も色々行われてた。しかし、その結果どうなったかというと、どうも統一的には説明できない。一方、2つの価値観に分かれた国民は存在しないし、メディアは依然として、改革から一番遠いところにいる。ですから、何でもバブル前の基準で評価しているようなところがあると思うのですね。そういうオピニオンリーダーが混迷している、ということも、我々は何とかしなければいけない1つかと思います。
現状、そういういった変革について、壊すことはできたけれど、新しい秩序ができていない、ということなのではないかと思います。
国会議員は要りません。
都道府県知事と役所が象徴天皇陛下の下に仕事をされれば十分です。
国会議員定数削減などは、泥棒に刑法を作成するようなもので、とうていできないと思います。国会をなくすしかありません。
発言の順序に沿って所々コメントをつけてみました:
国民が悪いという言い方を最近はよく耳にするのだが、本当にそうなのか。吟味する必要があるだろう。まず責任には権力が伴わなければならないとおもわれる。国民の権力とは投票することであるのだが、”投票”とは何かをもっと真剣に論議する必要がある。国民が責任を持つということは自明なのか?現代の社会システムは複雑であり、多くのプレイアーが参加している。個人としての国民の問題だけでは、視野が狭いのではないか。あらゆる法人、集団、NOP、政治団体、企業群、マスコミも責任の主体ではないか。彼らには投票権はないのだが、世論を動かし、安全神話作りに荷担し、黙認し、不正な資金を援助し、一般の個人としての国民以上に実態としての権力を行使している。
二大政党は日本では、はじめから現実性がなかったのではないか?日本にとって二大政党の本当に目指したことが日本にとって国の政治を良くする可能性があったのか?政党にかんする学問的研究が不十分だとおもう。現実の政党は責任を担える集団ではない。それが立証されたケースではなかったのか。現実に常に看板を書き換えている。当選後も政党を平気で渡り歩く。責任を持てない、持たない集団に政治責任を負わせる他統治機構とは元来、無責任統治機構となって現れた。政党自体が他の集団にのっとられ、ヤドカリが頻繁に起きている。体制の整わない政党は容易に利権集団の餌食になる。政党論をもっと徹底的に政治学者はやるべきなのだと思う。
選挙はやらなければならないと思うが。現時点では目の前の震災対策が優先でやれない。しかし、ある時期が来て、管直人の言っている時期でも良いのだが、選挙をすれば日本の政治はよくなるのだろうか?このままでは何度選挙をしても、多分絶対よくならないとおもわれる。
現実にどうやればよいのかわからない点がたくさんあるし、方法はそれぞれが自分の方法でやればよいとも考えるが、無数の市民運動を展開することからしか日本の政治は変えられないだろう。そのなかから自分たちで自分たちの代表を選ぶしかない。基礎自治体から今すぐに何らかの市民運動を始めることが必要なのだとおもうのだが。言論NPO等の団体は市民運動を開始したい意志のある人々にノウハウを提供しネットワークをつくり、より大きな市民運動のうねりをサポートしてほしいものだ。
日本をここまで先進諸国の仲間入りし今でも超一流の経済外国であり、今でも世界に類をみない多くの歴史的伝統のある企業集団がある。市民の経済活動の面で見れば明治維新以前から様々なビジネスノウハウを蓄積指揮してきているのであって、西欧のまねだけをしてきたわけではない。日本の多くの企業集団に帰属する国民は政治感覚は確かに薄かったし、”おまかせ”民主主義で過ごしてきたことは確かだが、企業集団としては、利権集団的な無責任だけであったとは思われない。多くの経済団体は良かれ悪しかれ政治を動かしてきたと考えている。たしかに企業利益誘導的な振る舞いがなかったとはいえないが、市民運動もそれぞれの立場で利益誘導的な運動に完全にならないような運動は多分存在しないだろう。
そのような意味で言えば、政治が本当に機能していた時代があったのか?ともかく、現時点では管直人でよいのだ。変えなくて良いと実業界も市民も国民も開き直る必要がある。現実に日本を動かしているのは自分たちであるとの自負のもとに実業界は具体的意見をぶつけることである。日本を救える集団がいまあるとすれば経済団体ではないのか。ここの団体のエゴをすてて日本国全体のために具体的行動を開始してもらいたい。一国民としての反省だけでは無力なのだ。
日本の政治構造を変えなくてはならないということは異論の余地はないとおもわれる。日本の企業もあらゆる集団も個人としての市民国民もだめ議員を縁を切ることから始めなくてはならないだろう。この茶番劇の主役は政治の世界から追放しなければならない。
広い意味の国民もあせらないことである。覚悟して上でさて広い意味での国民がどうすべきなのか考える必要がある。国民の決意を彼らにみせ感じさせ、危機感、恐怖感を抱かせる必要があるのではないか。そのような国民運動を起こし必要があるとおもわれる。そのための時間であると考えた方がよい。さもないと同じ誤りを繰り返すだけになるだろう。
政治の選択軸は政治側が問うのではなく、市民運動として国民側が問い詰めるという、これまでと逆の発想が必要ではないか。政治の対立軸は国民が作らなくてはならないと思われる。つまり国民作成のマニフェストである。国民が熟議の模範を示さなければならないだろう。何通りか国民運動の中で自然に対立軸は生まれてくるだろう。一つは原発廃止か維持かは大きい軸になる。年金問題も税制改革も同様だろう。それだけではなく政治改革、政党改革、議会改革も軸になる。軸は国民が作らなくてはならない時代だと考える。市民国民には人材があるれている。政治家のブレーンは国民ではないのか。政治献金するよりも企業はこれらの市民団体に寄付すべきなのだ。政治献金の方向が誤っているのではないか。
「ただ、私はやや悲観的ですが、選んだ者の責任として4年間は国会議員に託したわけですから、残りの2年間は受け止めるしかないと思います。」基本的にこの意見に同意します。
問題問題指摘では解決の道は見いだせないと思う。ある程度ひつようではあっても。マスコミには同種のような見解があふれている。もはや愚痴程度にしか響かなくなって来ている。なんらの改善もその指摘からは起こせないだろう。
二年待つということよりもそれぐらいの気分で現在の状況を受け止める必要があるということではないか。選挙をやればよくなるというならそれなりの説得ある説明をしていただきたいと思うのだが。だがこの種の議論は何も生まないとおもっている。
政治や行政に対する信頼性が低いことは、長年、固定した感じがする。その原因の中には、以下のような状況が考えられる。
1.政治を改革しようという心意気で参画した者が、結果的に政治を悪用したり、政治を利用したり、何か魂胆があって、政治改革に接近する者が無くならない。
2.入閣したり、責任ある地位に就くと、以前の期待を裏切り、保身の術に転じる者が後を絶たない。
3.政府や内閣関係の会議メンバーになり、政治を利用する者が政治を歪める。
項目1,2,3が減れば、政治不信は徐々に解消される。
この点は、マスコミも論じていない。
言論界での議論も少ない。
しかし、以上は世の中の常。
問題の指摘は容易い。非難するだけで意味がない。
そこで、私たちは、身にまとう肩書や立場やシガラミを脱ぎ捨てて、国民一人ひとりとして、政治に真面目に向き合いましょう。
信頼感のある人の発言は、世の中で灯台の
役割を果たしてくれる。
畏敬の衆からの、ご教示を期待します。
政治や行政に対する信頼性が低いことは、長年、固定した感じがする。その原因の中には、以下のような状況が考えられる。
1.政治を改革しようという心意気で参画した者が、結果的に政治を悪用したり、政治を利用したり、何か魂胆があって、政治改革に接近する者が無くならない。
2.入閣したり、責任ある地位に就くと、以前の期待を裏切り、保身の術に転じる者が後を絶たない。
3.政府や内閣関係の会議メンバーになり、政治を利用する者が政治を歪める。
項目1,2,3が減れば、政治不信は徐々に解消される。
この点は、マスコミも論じていない。
言論界での議論も少ない。
しかし、以上は世の中の常。
問題の指摘は容易い。非難するだけで意味がない。
そこで、私たちは、身にまとう肩書や立場やシガラミを脱ぎ捨てて、国民一人ひとりとして、政治に真面目に向き合いましょう。
信頼感のある人の発言は、世の中で灯台の
役割を果たしてくれる。
畏敬の衆からの、ご教示を期待します。
議会政治改革
国会も地方議会も議決は議員の得票数によって議決する。計算機の未発達の時代はともかく、現代はコンピュターにより簡単に議決数を集計可能である。
政治改革はこの理念の思考により前進は難しくない。
30年ほど前、3万票得票の島根県選出の国会議員も北海道1区で26万票得票(得票数差約8倍半)の国会議員も1議決権である。
こんな馬鹿げたことが日本のみならず世界中で問題になっていない。
国務大臣数の政党への割り振りは政党の得票率に拠るべし。
経済思想論者
今は選挙している場合ではないと、月初めは思っていました。少しでも法案を通し、行政が軌道に乗るようにして欲しいと思っていました。
でも、最近の国会運営を見ていると、誰の責任かを問うのが先のようです。
今では、どうやったら政治家を変えることが出来るか、どうしたら選挙をさせられるか、国民として何かできないかと考えるようになりました。
この記事を読んで、さらにその思いが強くなりました。
メルマガで工藤代表が提起された”なぜ政治は国民に「信」を問おうとしないのか
~問われているのは民主主義の機能不全~”とあわせて考えると次のように考えられるのではないかと思います。
1.解散総選挙は必須
3.11は米国での9.11と同様大きなパラダイム転換をわれわれに強いている。米国では大統領であったブッシュは直ちに戦時の大統領として自らのなすべきことを表明国民は積極的に賛成した。現政権はこうした自体に対し従来のマニフェストを変えるのか変えないのかすら明言できない状況であり、既に”政治空白”になっている。早期に解散総選挙を行い、これから何をするべきかについての国民的な合意を形成することが必要。
2.ここで、今後すべきことについて、政治は価値観基づく選択肢をいくつかの重要な分野に対し提示することが必要。考えられる分野は例えば;
1)政府(中央、地方、公)の役割;時間軸で見て緊急対策と中期的視点で分けた上で、国家インフラと民間の分担の基本的考え方とそれに伴う規制の変更
2)原子力発電と温暖化
3)政府ではない公的分野の事業の進め方(ファンディングと成果の分配)
4)国際競争と食糧の自給
5)異なる政治体制の他国との関係
ほかにもあるかもしれませんが、こうした本来的価値観をある程度明確にし、具体的な政策について合意できる政治家が政党として立つことが必要と考えます。
現首相の個人的資質については議論に値しないと考えます。つまりこれ以上議論しても修復不能ということです。国民としては2度とこのレベルの政治家を選挙に当選させないための厳しい自戒が求められると覚悟しています。
国民も悪いというなら、せめて党員には
あらかじめ立候補する人間を吟味する機会を与えてほしい。
東京は別として、地方は党利党略優先の民主か自民の候補が当選するようにできてるので、国政に民意は届かない。
国民にも政治を考えてほしいのなら、
国政選挙は選挙区を廃止して、
全員を「全国区」で選ぶようにしないとだめ。
言論NPOの目的が
「国民を啓発し、真に日本を変えてくれる人材を選挙で国政に送ること」
というのは本気なの?と思ってしまう。
毎年首相が変わるような状況では、毎年総選挙をやるくらいの覚悟が必要ではないか。ここ数年の状況から見れば、政権与党が機能しない状況があり、そもそも総選挙をやらないことによる実質政治空白が見られる。問題は、被災地で避難所にいる方や不明者の問題で、これを解決し可及的早期に総選挙を実施すべきと考える。
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