齊藤誠氏 「日本の政治に問われるのは課題解決への意思」

2008年6月16日

日本の政治に問われるのは課題解決への意思


 いまの福田政権は状況に対して正直に対応しているし、前向きな側面を見ていけば、意外にいろいろなことに踏み込んでいます。

 どこまで実効性があるかどうかは別として、公務員制度改革も、ほとんどのマスコミが法律も通らないだろうと言っていたのが、首相のひと声で通った。道路財源の一般財源化も、たぶん首相が踏み込んで言ったのは初めてだと思います。曲がりなりにも、そのプロセスで税体系を抜本的に見直すという話をしています。

 環境の話では、本当に排出権取引をやるつもりだとすれば、大きな転換です。これまでほとんどタブーだった排出権取引を排除せずに議論しているという意味では、そこだけを見ればということですが、「すごいな」という印象です。

 不思議なのは、そういうすごいことを言っても、受け手はほとんど誰もいないということです。マスコミも選挙しか関心がないのか、あまり取り上げません。アフリカや食料支援も、世界的に見るとキーワードです。その会議を一応日本が主催して、ある程度お金も出すと言っている。ODAの先もアジアからアフリカということをかなり明確に言いました。ひとつひとつを見てみるとかなり大胆なことを言っていますが、マスコミが不感症になっている。

先送りしてきた課題は誰かが解決しないとならない


 政権のほうに問題があるとすれば、振り付けが悪いのだと思います。アジェンダを最初に設定すべきで、最後に苦し紛れに大きなことをポンと出すのであまり効果的に受け取られない。そもそも選挙でできた政権ではないという事情もあるかもしれません。

 選挙を前にしているから、実質的な議論がないまま国会は政党や政治のアピールの場になってしまっている。これはかなり残念なことです。たとえば日銀総裁副総裁人事なども本質的な議論がないままに「出身だけで選別」ということになった。そのような政治的対応にみんな飽き飽きしてしまっている。選挙というのであれば、そういうことをマスコミがしっかり整理して論点を集約したほうがいい。

 日本の政治は、いろいろな意味で、これまでの政権が先送りした問題を誰かが解決しなければならない状況です。小泉政権での道路公団民営化について言えば、運営主体を民営化するということはほとんど、どうでもいいことです。

 むしろ、われわれ国民の社会資本ストックとしての道路をどの程度の水準で、どのくらいのコストで維持していくのかという問題を考えることが大事ですが、それは何ら解決しないままに、組織だけ、それも運営主体だけ民営化しただけです。つまり、道路資産の将来のあり方は、小泉政権の道路改革のときから何も議論されていない。

 それが今回、道路財源の暫定税率の話になったときに、そこについては従前通りやりますということをやってしまうから、望ましい社会のあり方についての議論がないままにやってきたツケを、あのような形で背負うことになる。

 私は、増税に蓋(ふた)をしてしまう議論が続くのは、もういい加減にどうかと思います。それならば、野党も文句だけ言えばいいことになります。肝心なところは先送りにしておいて議論してしまうから、どうしようもなくなってしまう。

個人や社会は、困難や変化は必ず乗り切れるはず


 こうした日本の状況に、政治のポピュリズムやメディアの問題があるとの指摘があります。それ自体は私も問題だとは思いますが、私はポピュリズム的な動きがそれ自体あるのは仕方ないのではないかと思っています。適度に付き合うのがいい。

 それよりも、結局、それぞれのところでそれぞれの人たちが頑張っていくしかない。そういうことに政治も企業も個人も対応しながら、自分たちが創出できる価値を生み出していけるように努力しなければなりません。

 私は、人間とか社会というものを信じていますし、困難や変化があれば、人間や社会はそれを必ずいつかは乗り切るものだと思っています。私は一時期、ある銀行の調査部でものを書いていましたが、当時の84年頃から外向けに書いていたものを時々読み返すのですが、そこには、情勢判断を間違えたり、とんでもないことを書いたりということもありましたし、一方、後から見ても「なかなかいい」と思うこともあります。それは気持ちの持ちようなのです。自分自身が状況を恐れてしまったときは、過度に危険回避的な発想で、思考回路が後ろ向きになってしまう。

 自分自身が恐怖のようなものを感じているから、それがそのまま文章に現われてしまう。「なるようになるさ」という感じでドンと構えたときのほうが、重心がぶれていない。

 やはり社会と人間を信じるべきです。その下で自分がどう判断するかというような発想になっていくと、冷静になれるのではないか。

課題に取り組む意思の欠如のほうが問題


 『エコノミスト』誌のあのJAPAINの記事の2週間後に、日本の読者からの手紙が掲載されたことをご存知でしょうか。民主党の岩国哲人氏の投稿です。われわれの正当な国家の国旗にあのようなイタズラ書きをしたり、国際的な認知を得た国名に「I」を入れるようなことはするな、それ自体、侮辱以外の何ものでもないと書いた。内心、私は拍手喝采だったのですが、そういう発言こそ重要なのではないでしょうか。もちろん、日本にはいろいろと言われても仕方ないようなことがたくさんあり、内心では外国メディアのおっしゃる通りだと思いますが、それが真実でも、日本の内部からそれに乗ってしまったら、それでおしまいです。「そんな侮辱や笑い話にしてくれるな」ということを、日本の政治家はもっと言っても良かったと思います。あのように言われて「もっともだ」と思ってしまうところに、もう気持ちがすごく負けてしまっている。

 今の政治家や企業経営者もそうですが、そういう部分の気持ちや矜持のようなものが、なくなってしまっている。そのほうが問題です。『エコノミスト』はさすがに冷静に議論している部分もありますから馬鹿にはできませんが、私もあの表紙はすごく嫌でした。そういう部分の気概や、問題を解決しようとする意志がないから、あのような議論に乗ってしまう。解決できるかどうか以前に、まず課題は解決しようとする意志が必要です。政治家や官僚も経営者も有権者もそうです。

 日銀総裁人事の件でも、私は他の人と異なる感想を持っています。あの悲劇、というか喜劇は、あの種のポジションを担える人材が大蔵省出身者と日銀出身者にしかいなかったということだと思います。誰か民間の金融のリーダーの人たちが、こんなみっともないことはいい加減にしてくれと、手を挙げるべきでした。民間の経営者からみると、年収3000万円では安すぎるということなのでしょうか。

 本当に人材がいる場所の出身者を採れないなら、そういう人が出てこなければならなかった。そういう人がいないということでは、資本市場の国際化も頼りなくなってしまう。ただ、問題はむしろ、人材の不足というよりも、そのような日本の状況の中で問題や課題に取り組むという意志が、今の日本のエスタブリッシュメントの人たちの中に欠如してしまっているということです。

日本の政治に求められるのは本当の率直さ


 私は、いまの社会にはもう一度、「幸せとは何か」の問い直しが来ていると思います。そういう中で適度なかたちで豊かさを享受できて、人々の責任をもった行動が促されるような方向に行くべきです。これは、ポピュリズムがどうだ、民度が上がるべきだ、という議論よりも、仕組みづくりの問題だと思います。

 人間の本当の意味での幸せ感や、自分が決定したことの結果を受け入れられる状態ができている社会は、経済的水準とは別のレベルで、大変良い社会だと思います。そういう方向に社会が舵を切りながら、結果が適度な形になり、極端に変なことが起こらないという範囲内で、選択の自由を許しながら、基本的に自己責任の原則を貫いていくということが望ましいと思います。

 その際の政治の役割ですが、政治家が全てのことにあらゆる手当てができるはずがなく、基本的には行政組織がひとつひとつ問題を解決していかなければならないと思います。そのときに、人々がどういう仕組みを受け入れられるかどうかというところで、政治家の役割が問われます。

 日本の政治に求められているのは、とても基本的なことですが、できないことを約束しない、ある種の公平性の原理は常に貫く、いくつかの原理原則については約束する、そういうところでプリンシプルがあって行動できるような政治家です。その意味では、本当に率直さが求められると思います。「それはできない」とか「ここまで求められるのなら、こういう負担は国民に求めなければいけない」と言うことも含めてです。そういうことが政治に求められている。それなのに、日本の政治家は正直に語っていない。GDPを上げるとか、ある成果について、あるいは、ある生活水準について保証することは政治の役割ではなく、我々は市場社会に生きているわけですから、市場の結果を自分がある合理性をもって受け止められるような、そういうことが納得できるような仕組みこそ作るべきです。

 そうであればこそ、国民はそれぞれが自分の潜在的な能力を引き出すような努力をすると思います。

 米国の大統領選挙でのオバマ候補のスタイルがひとつの参考になります。スピーチなどを英文で読み直しても、あまり嘘を言っていない。「こんなことまで言って無理かな」ということはありますが、あまり嘘は言っていません。また、非常にわかりやすく、ある意味での率直さがある。そういう部分は、ヒラリーさんはいくらお金があってもなかなかかなわない。それがすぐ政治的手腕に行くかどうかはまだ疑問ですが、リーダーの資質のようなところで、そういう率直さが求められている。

 日本では、年金の間違った記録や、データが分からなくなった話も、判明した時点でやはり安倍さんが本当に率直に謝罪し、できることをやるしかなかったと思います。どんなふうに計算してやっても処理時間を考えると無理です。もう起きてしまっていることですし、それを「何月までにやります、ひとり残らず」と言えば嘘になってしまいます。

 あの場合、過去の過ちに関しては政治的な判断で謝罪し、救済方法を講じて保障する方法しかなかったと思います。そのコストも結局国民に最後はみんなで分担してもらうよう説得しなければなりません。

 社会保障の問題も、日本の政治は先送りで答えを避けるのではなくて、問題解決する意志を国民に問うて、そこで戦うようにしなければなりません。その際には、「ここまでできる」とか「ここはできないから国民のみなさんに負担を被ってもらうことになる」といった言い方をすべきです。

 社会保険庁の問題は、恐らく海外では、もっとさまざまなチェックが効いて、問題をより小さい範囲に抑えられると思います。薬害の問題は、アメリカでもよく起こりますが、日本のような深刻な形にはならないようです。日本では、厚生労働省の官僚だった専門家や、医学博士や、論文を読める人たちがたくさんいたにもかかわらず、そういうところでプロフェッショナリズムが何も機能しませんでした。自分たちの知っている知識の中で最善の判断をするということをやるというのがプロフェッショナルですから、それを放棄して、10年も20年も放ったらかしておいた。そういう問題が溜まってきたことを、直していくことも一つの課題です。

日本の政治には市民のプレッシャーこそが大切


 今度、日本の選挙では、経済分野での争点になるものは、やはり社会保障と、その負担の問題でしょう。その中で消費税をどうするか、その制度設計をきちんと国民に問わなければなりません。厚生労働省がしでかした絶対に解決できないようないろいろな問題は、「これからうまくやります」という状態ではなく、もう清算処理のようなものです。

 民主党は、本当に政権を取るつもりなのか疑わしいようにみえます。もっと彼らのプレゼンスを見せつけるような局面はたくさんあったと思いますが、なにか下手です。昔の自民党と社会党の関係とあまり変わらないようなゴネかたなのです。ただ、そういう中で、公務員制度改革のところでみんなで一緒になってというのは、少し変わってきたのかなと思います。

 私は、この点については専門外ですが、中選挙区制の復活が言われています。それもひとつの見識とは思いますが、私は一度、小選挙区二大政党制で日本の社会の仕組みを変えていくということには、賭けてみてもいいのではないかと思います。もちろん、そこには試行錯誤もあるでしょうし、今の国会状況のような混乱もありますが、今回の公務員制度改革も、政権交代が起きたときにうまく機能できる可能性をもたらしたものですし、政権が変わるということがあれば、公務員制度に対して外からの規律づけもできることになります。

 小選挙区制では選挙区で51%の支持を取らなければならないことがもたらすさまざまな問題も指摘されてはいますが、その51%を取ることの競争が政治技法も含めて、次第に洗練化されていくと思います。中選挙区制度に比べれば、党首のリーダーシップというものがはるかに強く求められる。そのくらい勝てる人でなければ、この世の中を率いていくことはできない。複数政党で多数勢力をつくり、その中から談合でリーダーを選ぶということでは、なかなか思い切ったことはできないのではないでしょうか。

 だめなら権力から引き摺り下ろされるということ自体が、政党に対する最終の規律づけだと思います。そういう緊張感がなければ、権力を行使できるような人が出てこないのではないか。
 だからこそ、市場や市民の側からのいろいろなプレッシャーが必要なのです。

発言者


070717_saito70x95.jpg齊藤 誠(一橋大学大学院経済学研究科教授)
さいとう・まこと

1960年生まれ。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学Ph.D.、1983年住友信託銀行入社、1992年ブリティッシュ・コロンビア大学経済学部助教授、1995年京都大学経済学部助教授等を経て、2001年より一橋大学大学院経済学研究科教授。主な著書に『資産価格とマクロ経済』(日本経済新聞出版社)


 いまの福田政権は状況に対して正直に対応しているし、前向きな側面を見ていけば、意外にいろいろなことに踏み込んでいます。どこまで実効性があるかどうかは別として、公務員制度改革も、ほとんどのマスコミが法律も通らないだろうと言っていたのが、首相のひと声で