「議論の力」で強い民主主義をつくり出す
工藤 日本国内の政治を考えた場合、単なる国会の政治だけではなく、一般の社会でもメディアでの議論も踏まえ、日本の大きな針路を考えるという落ち着いた議論がなかなか作れていません。2009年はまさにそういうことをしなければいけない1年だと思いますが、そのときに気になるのは、現在起こっている世界的な変化は、現実に国内でも実体経済で深刻な問題が出てきたりしているにもかかわらず、まだ他人事みたいに感じている人がおり、またこの問題を政治のリーダーが率先してこの問題に覚悟を決めて取り組むという意思や流れが国会の議論の中にも見られません。こうした日本の国内政治の風潮や方向をどう変えていけばいいのでしょうか。
小林 その質問には、重要で基本的な問題がいくつかあると思いますが、結論から言えば、最大の問題は、政治にかかわらず、本当の意味でのリーダーシップを持ち、リーダーとして全てを任せられる人材が、日本の中で乏しくなってきたということが、急激に見えてきたということではないかと僕は思います。それは、この1、2年に起こったことではなく、戦後の教育の中で、リベラルアーツ(大学における教養課程)が一つのキーですが、アメリカを中心に存在していた新しい問題解決方法を、色んな分野で手にする、それを身に着ける人間を育てるという教育は、当時の日本の国益に沿ったものだと思いますし、日本はかなり成功したと思います。しかし、世界の状況が移り変わり、経済の仕組みも変わる中で、あるべき経済政策というのはどういう経済政策なのか、社会政策との接点はどういうところにあるのか、問題そのものを設定する能力や、本当の問題点が何なのかを見抜く力を身につけることを、日本の高等教育がきちんと手を打ってこなかった。本当の意味でのリーダーの資格を得るための人間力とか、それを教育する高等教育がなかったということではないかと思います。
これは教育機関だけの責任ではなく、経済界を含めた問題だと思います。経済界はどちらかというと、即戦力を求めています。また、大学の教育はあてにならないので、人間教育は自分の社でやるみたいなことを言っていましたが、かなり傲慢なもの言いだと僕は思います。そして、残念ながら政治の世界でいうと、同じような教育を受けた世代が段々主流になり、率直にいって政治の世界に優れた人が十分に入ってきていないのではないでしょうか。これは政治だけではなく、経済も含めてのことだと僕は思っています。アメリカはここ数十年来、いい人はコンサルティングや、インベストメントバンキング(投資銀行)などに就職しています。日本も、色んな意味で偏りはあるかもしれないけれど、非常にできる人たちは公務員になる、これは今までずっと続いてきました。アメリカも実は、政治を含めて公共機関にいい人がいっていましたが、日本と違うのは、最初は民間部門でも、そこから公共部門への転換が、日本に比べるとかなり柔軟になっています。オバマさんはそのひとつの象徴的な例だと思いますが、結果として、政治の世界にいい人が存在しているというのがアメリカの状態だと思います。
そういう点で、日本とアメリカのギャップがもの凄く出てきてしまった。教育に関しては息の長いことですが、もう1回しっかりと腰をすえ、小中等教育の生きる力などの議論を踏まえた上で、高等教育でどういう人間力教育をするのか、そこのあたりをきちんとやり始めなければならないと思います。そうでなければ、将来日本の針路を定めるための人材はますますいなくなってきてしまいます。それをきちんと動かし始めるとして、それまではどうしたらよいのか。それは、各界が本当に協力して、政治や経済、行政の総力をあげて優秀な頭脳を集めて議論し、いい方向を見つけてやっていかないといけません。残念ながら、今は総力をあげてという形になっていいません。
今のメディアなんかでも、政治を批判する一方で、経済を批判すると色々やっていますが、識者も含めて、国民の声を一本にまとめ、その方向に進もうという動きにはなっていない。ここはやはり、長期的にきちんとした資質をもった人たちを育て、ポストポストに据えていかないといけないと僕は思います。
明石 与野党の勢力が、現状のように接近してしまうと、どうしても政党間の対立が泥仕合になり、足の引っ張り合いになってしまい、真の意味での政策論争はますます遠くなり、やや政局が生臭く、次元の低いものになってきています。そこで、小林さんの言われるように、中長期的には、まさにわが国における真の意味での社会の変革を目指すべきです。幅広い国民的な、そういう議論をふまえたリーダーシップが生まれてこないといけない。色んな意味で教育の危機が叫ばれているし、データをみればそれが表面化してきています。世界の大学の格付けを行っているイギリスの機構などの調査によると、日本で一番といわれている東大でさえも、順位は15番から20番目の間です。その東大でさえも、外国人教師の比率や、留学生の比率をみると、 40番目50番目に落ちてしまいかねない現状があるわけです。欧米の大学に比べると、非常に閉鎖的であるということは否定できない事実です。大学の衰弱の背景には、教育全体の衰弱はもちろんのこと、国民全体が、ちょっとしらけて、疲れきった雰囲気の中にあるのではないでしょうか。
色んな調査結果から他国と比べて顕著に違う点は、語弊をおそれずに言えば、国民全体、特に子どもたちが「小市民的な」幸福や満足を求め、大人を越えたような疲れ方をしていることです。大きな希望とか、国の向かうべき方向とか、人類的な希望に取り組もうという意欲がなく、自身の身の回りの、家族の幸福だけで十分だという人が増えました。大人よりも大人になった意識に浸ってしまっているのではないか。そんな気持ちを持つのです。
益々国を超えた国際的な論議の場が増えています。それは、政治外交だけではなく、経済や文化、科学の面も含め、色んな場でそういったことが増えています。しかし、日本人は知的な力を持ちつつも、それを国際的に紹介し、自分の考えを他の国の関係者や専門家を交えながら調べて、一緒に新しいルール作りをやっていくようなディベートの伝統は、残念ながらわが国にはあまりありません。お隣の韓国なんかは、わりとそういうディベートの伝統が文化の中にあるらしいです。また、中国はものすごいスピードで、英語力その他の能力の涵養に突き進んでいます。やや過熱気味でさえありますが、わが国の場合、そういう外の衝撃に応えて自己を変えることについて、自分自身の古来の美風とか伝統を否定するような後ろめたさがあり、もっと素直な形で自分の力を涵養し、外のものを貪欲に吸収しつつ、一緒になって新しいモノを作っていくという意欲や能力が欠けていると思います。これには大学教育の前に、小中高校の改革も必要だと思っています。例えば英語力の涵養なんていうのは、言葉だけでなく、言語とは文化の窓ですから、言葉の背後にある文化的なものを意欲的に理解する、そういうアグレッシブで前向きな態度が、若い人に必要だと思います。
大きなリーダーシップが出てこないという小林さんのご指摘はその通りで、日本社会が縦割り社会になってしまったというのが、ひとつの大きな要因だと思います。アメリカをみて驚くのが、やっぱり知的エリートの裾野の広さだと思います。あのオバマのような人でさえも、恵まれない家庭から、最高学府にいき、そこを出たら今度はシカゴの貧民窟で社会保障のために活動し、それから政界に入っていくわけです。そういう、骨太のエリートの人たちは、日本社会にはまだまだ存在しないのではないかと思います。小さい国と言えば申し訳ないのですが、小さい国の場合にも、たがいに意思疎通ができるエリート階層が存在するのです。例えば、北欧諸国を見ていて羨ましく感じることは、官僚の世界はきわめて小さいのですが、必要とあれば、民間やNGOから、必要とされる専門家がいくらでも提供できるような社会構造になっています。
その点、わが国では、官僚も含めてみんなが自分の蛸壺に入って安寧を享受しているようにみえます。世界がこういう危機的な状態になった時にこそ、真の意味でのリーダーシップを持った人が政治や経済など、各界を網羅した形で、現れていいはずなのですが。私は明治の初期にはそれがあったと思います。明治を担った素晴らしいリーダーは、各藩の下流武士から出てきました。そういったものすごい知的資源は、今でもどこかにあるはずです。それを我々がいかにして見つけるかが大きな課題なので、それを色んな段階でやらないといけません。今や東大に入ってくる学生も、高収入の親を持った限られた階層の子弟しかいないという指摘がされていますが、そうだとすれば非常に由々しい事実だと思います。
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