「議論の力」で強い民主主義をつくり出す
齊藤 少し突き放した見方をすると、日本は成熟した国家に入りつつあるのですが、人々の期待や考え方の発想というのは、過去10年、20年、30年の成長経験の中から得たものから変更できていないことが大きい。あれだけ失われた10年とか15年とか言われていても、何となくキャッチフレーズに出てくる話は、高度成長期の夢をもう1度とか、バブルのときをもう1度再現させてやろうみたいな話となる。それぞれの成功体験が心の中で残っている。
今も多くの人は、政府に対しても昔と余り変わらないことを求めているような気がします。地方が疲弊したら、地方に金を配ってくれとか、分配の問題が苦しくなったら、少しぐらい所得再分配政策をやってもいいとかというのは、かつてと同じ延長線でものを考えているからです。
国家が成熟し、生産や生活の水準そのものはかつてに比べると十分高い水準になっている。そうした時にどこまで政府に頼って、どこまで自立するのか、それをいろいろな立場の人たちが見直していく時期になっている。水野さんが言われたように、そろそろ正直にいろいろなものを見つめ直して、この部分は政府だ、この部分は自分たちでやるという、官民の間の線引きとかということの発想を変えていく時期にいると思います。
私たちは、民主主義の社会で市場経済にいるわけですから、だれかが命令を出して変えるわけにいきませんが、政府や官僚がいろいろと失敗をしたり、うまくいかなかったりしていることは分かっている。成熟した市民は、そろそろこういう判断をまじめにする段階にきているのではないかと思うわけです。
その場合、1つのキーワードはフローよりもストックだと思います。公共投資もあれだけやって本来だったら公共資本ストックですごく有益なものがたくさんあるはずなのにそれほどでもない。企業も設備投資をこれまで活発にやってきて、累計で見たら支出額はすごいものですが、本当に生産設備として優れたものがどれだけ日本経済に残っているのかを考えれば、公共投資と同じ惨状です。
都市も地方も病院にかかわる資本というのがすごく貧弱ですが、あれだけ社会保障、医療政策だと言いながら、先進国でこんなに医療資本が少ないところはないと思います。そうしたところの積み上げの部分で見ていくと、GDPが少々増えたとか、何か補助金が少し増えたとか減ったとかということではなくて、豊かな社会にふさわしいストックの積み上げをきっちりやっているのかどうかということを考え直していかないといけないと思うわけです。
ただ、これは公共セクターだけではなく、企業のほうも実は言っていることは変わらないわけです。法人税減税し、資本コスト下げてくれ、キャッシュフローを増やしてそれを設備投資にどんどん投下するからとか、設備投資が景気の牽引力だから、それでGDPを増やすとか、これまでずっと企業も言い続けていますが、では資本ストックを過去四半世紀見ただけでも、日本経済がどこまで積み上げてきたか、これはかなり疑問なわけです。
亡くなられたペンシルベニア大学のアルバート・安藤先生が推計した(日本の)70年代から90年代にかけての家計から企業セクターへやった設備投資の実物投資は、累計で400兆円ぐらい、キャピタルロスを被っているというような数値もあります。これだけ資本や貯蓄があってお金があるのに、何かこの社会に住んでいて、豊かな感じを得ていない。これは、単にGDPが高いとか低いとかということではなくて、その社会に相応しいストックが不足しているという実態があるわけです。
公的なレジャー施設なんてみんなそうですが、お金をかけた割には失われているものが余りにも多過ぎる。そういうところで、お金を使う規模を増やすよりも、賢く使う方法とかを考え直していく。我々はそのプロセスにあると思います。これだけ社会的にいろいろと政府や行政がやってきた破廉恥なことがたくさん出てくると、もう少し真っ当な目で監視をするとか、そういう部分にこたえてくれるような政党を選ぶとか、市民の人たちが健全にそういう社会を求めていかないと、今の状況は変えられないと思う。
高橋 斉藤先生の言われることは本当にその通りだと思います。どこに行くべきかという新しい政策のパラダイムはまだ答えは出ていないけれども、従来型の政策を続けても、ロスが大きくてもう耐えられない。従来は、何だかんだ言って、民間の経済の力も強かったから、そういうロスがあっても吸収できましたけれども、もうそのロスを吸収できないところまで来てしまって、かつ過去のツケが貯まっているということだと思います。
今になってもまだ政府に対する期待が強い、変わっていないということですが、私は逆にむしろ強くなっているのではないか、そう思えます。例えば従来であれば地方で景気が悪くなれば、一時的に公共事業をやって、雇用対策を取って凌いだわけです。それが地方の公共事業であり、建設業に金が流れるという構図でした。
ところが、地方経済は現実にはそういうことを繰り返しているうちに、自分で立つ力がどんどん弱くなっていって、むしろ国の金がなければ自立できないというところまで依存体質が強まってしまっている。その依存体質の強さを自分で分かっているがゆえにどうしようもなくなって、もっと国に金をくれという話になってしまっている。多分20年、30年前よりも地方はもっと自立する力が弱くなっているのではないか。旧来型の政策を繰り返してきたことの弊害がそこに出ている。
今年7月の参議院選は、地方で旧来の与党の支持基盤から票が野党に流れたと言われたが、聞いてみると、単に振り子が振れたのではなくて、地方の人は今までは既存の政党なりに最後は投票していたが、与党に任せておいても、このままでは日本はよくならないのではという疑問を持ち始めた。そこで初めて投票行動が変わってしまったという話でした。国民も従来型の政策ではだめということを感じ始め、大きな潮目の変化というのが出てきている。では、日本をどういう方向に変えていけば、ロスがなくて、かつ全体の幸せというものが大きくなっていくのか。その政策のあり方や体系そのものをもう1回考え直すというところにようやく今来ている。
櫨 斉藤先生が言われた効率の悪さというのは1つのキーワードでしょう。政府はお金がなくなると、全体の政府のサービスのレベルを下げようとします。しかしそれだと、皆からいろいろな不満が出てくる。実はどこか、ここだけはしっかりと行う、ここは余力がないから止めます、というふうにメリハリをつけないとどうしようもないと思います。高齢化が進んでいけば、介護も医療も年金も皆費用が増えてします。それを、それぞれ少しずつ減らして、財政が破綻しないようにしましょうということだと、病気になったら困るとか、寝たきりになったら困るとか、そういう話になって、結局、不満が爆発する。そのときに、例えば寝たきりになっても何とか国が面倒を見ますよとか、どこまで国に頼るかという話ではなくて、ここは国がちゃんとやります、そのかわり他はできない、というふうに、国がどこをやってどこをやらないか、そこの区分けをやるというのが大事ではないでしょうか。
そこで一番難しいのは、縦割りの官庁の中で皆分野を持っていて、それぞれの分野の人に聞くと、みんな自分のやっていることは大事だというふうに言うわけです。それをもっと大きな視点から、ここは確かに大事だけれども、もう余力がないから、こっちを守るかわりにこっちを切ろうと、そういう大戦略を立てるというのが非常に大事になっていると思います。
工藤 高橋さんは潮目が変わり始めたと言われましたが、そうするとその変化を理解していないのは政治の方になりますが。
高橋 地方の有権者は、今までの自分の負担以上のものを受け取ってきたわけです。できれば、この構造は変えてほしくない。だけど、その構造を続けていてもだめだということに気づき始めたということではないでしょうか。
例えば社会保障でどこまで国が面倒を見るかというのと同じですが、ナショナルミニマムが実際には今、ナショナルスタンダードになっている。それが提供できなくなった時に、中央政府がやるのは、やっぱりミニマムで、ここまでしかやりませんよと、それを超える部分は、地方の責任でやりなさいというふうに言えるのか、ということです。地域住民はまだその覚悟ができているとは言えませんが、一方でだめだろうと思い始めてはいる。
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