深川由起子氏 第5話:「責任のとれる体制は曖昧な意思決定過程の排除から」

2006年3月04日

「責任のとれる体制は曖昧な意思決定過程の排除から」

 先日、中国出身で日本で起業し、成功した人が「日本人はリスクを取らな過ぎるか、無謀に取りすぎるかのどちらかで極端だ」と評していました。これはいろんなことに言えるのではないかと思います。

 さすがに先般の金融危機で、自分の預金を銀行一行に集約しておくことの危険性は学んだようですが、もともとリスクを分散するとか、保険をかけておいて、最悪の場合でもこれだけは残るというのを確保するとか、といったことがあまり得意ではない気がします。特に一定の思い込みに支配されてしまうと、合理的なリスク分散が何だか「相手に対する信頼のなさ」とか、「非積極的な姿勢」とかといった感情的な次元で捉えられてしまい、「じゃぁ、思ったようにいかなかった時どうするんでしょう?」というのは実は考えていなかったりもします。これではリスクをとっていないようでいて、状況次第では巨大なリスクをとることになります。「日はまた昇る」式の楽観に無意識のうちに囚われているのかもしれません。しかし、根拠のない楽観は根拠のない悲観に劣らず有害になり得ます。

 外交にも同じようなことが言えるように思います。ポスト冷戦の国際社会は複雑で冷戦時代のようなイデオロギーによる単一軸はもはや存在しておらず、合従連衡が繰り返されています。イデオロギーなき後、地域主義が世界的に台頭してきたのは自然な成り行きといえるでしょう。何故なら、地理的に近接する国には必ず古来からの交流の歴史があり、文化的接触があります。交流は文明を共有し、相互の影響によって文化的繁栄につながることもあれば、宗教や民族をめぐる摩擦、最悪の場合には戦争といったことにもつながります。鳥インフルエンザのような疫病が流行ればたちまち拡散し、戦争で難民が発生すればすぐに流入します。従って物理的に、またイデオロギーからの開放によって国境が低くなればなるほど、近隣の出来事は遠い世界の出来事よりも影響が大きくなり、とりあえず近隣で問題を早く解決しようとか、まとまって他地域に対抗しよう、という発想が生まれます。

 欧州連合には米国、アジアとそれぞれ競争せねばならない、という現実認識があったと思います。東アジアの場合には通貨危機があり、これに結束して対応することが初めての地域主義を生みました。その立役者となったのは1ドルも支援しなかった米国に対し、600億ドルもコミットした日本で、ASEAN+3(日韓中)という枠組みが東アジア地域主義の基本的枠組みとなりました。

 しかしながら、その後は中国の外交攻勢にあい、さらに靖国問題を始めとした一連の日中摩擦が続くことで日本は自分の作ったASEAN+3の枠組みを自分で壊す行動を始めました。05年末の東アジア・サミットにインド、豪州・ニュージーランドを入れ、アメリカまでを入れようとしたのは典型例で、中国はこれを逆手にとって、日中関係以外で他の東アジアにも「一貫性がなく、頼りにならない日本」を積極的にアピールし、それなりに成功してきたと思います。ポスト通貨危機では日本は支援はしましたが、実は自分自身が不況を続けていたため、東アジア各国に市場を提供できたわけではありません。

 それができたのはWTO加盟を果たした中国で、今や東アジアにとって中国の市場潜在性は抗し難いものとなっています。持続性のない援助や、ワン・ショットの経済支援より、持続的な市場提供の方が強いカードなのは当然です。もちろん、華人問題を抱えるASEANにとっては中国の見方は複雑ですし、北朝鮮を抱える韓国と言えども事実上、中国の誘いを断って米韓FTAの優先交渉を決定したわけですから、単純ではありません。しかし、靖国問題を巡ってケンカを売り続けたことは「アジア無視、対米一辺倒の日本」「アジアの力になれない日本」というレッテルを日本に貼る絶好の機会を中国に提供し、日本にとっては大きな損失をもたらしたといえると思います。

 そもそも中国は日本のアジア通貨基金(AMF)構想を米国と組んで潰した国ですから、ASEAN+3が途中でうまく行かなくなる事態は当初から存在していました。しかし、いつもどおり、日本には「うまく進まなかった時はどうするか?」の戦略は用意されていませんでした。そして地域主義全体における大局的判断がないまま、靖国問題はズルズルと個別の技術論や感情論、政局の道具として引きずられ、正面から向き合うリスクをとらないまま、より大きなリスク、つまりアジアの対日不信増幅というリスクに直面するようになったのです。

 日本以外の国では良かれ、悪しかれ、何か大きな動きが始まる時には「張本人」とみなされる、明確なリーダーシップが存在し、失敗した場合にはその人及び関連一派が処断されて新しい動きが始まります。大統領制なら制度そのものがこれを助長する傾向を持ちますし、内閣制の国でもクール・ブリタニカで英国が蘇る過程ではこうした試行錯誤が多々繰り返されてきました。

 しかし、日本では必ずしも論理的な思考や目線の高い戦略を明示的に誰かが決断するのではなく、「その時はそういう雰囲気だったのだ」という曖昧な思考、曖昧な責任で決まっていることが少なからずあります。日本人の間ではそれでも意思決定に至る"潮目"を誰が作ったか、などで何となく了解できているかもしれませんが、それが必ずしもポストに関係ない人であったりもしますし、外国人には到底、理解できない曖昧な意思決定過程が存在していると思います。曖昧な意思決定は責任の所在を曖昧にし、責任断罪を経た転換に比べて方向転換において速度が落ちるのは当然だと思います。日本人にとってはそれは単一民族、同質社会の中で正面衝突を避ける「和」のシステムであり、であればこそ、靖国に関連して「死ねばみんな神になる」とか、戦犯を外す、外さないは意味がない、というような議論が生まれてくるのではないかと思います。

 しかし、戦争といった重要な決定が「雰囲気」といった感覚的な表現で説明されることは外国人にとっては誰も責任をとらないシステムとしか理解されないでしょう。被害感が強く、責任追及と見せしめ文化を持つ中国や韓国はもちろんですが、初めに法律ありき、の欧米人にとっても全く、理解不能な構造だと思います。さらに明らかに無謀・無能な作戦で犠牲になった方の遺族たちからも指導層に対する「本当は死ななくて済んだのでは」という疑問や批判が噴出してこないことも国際的には不思議に見えるでしょう。日本人がどう決意していようと、近隣国は自分自身による総括のない国にはまた同じことを繰り返す危険があると思っており、この疑心がある限り、政府開発援助(ODA)のバラマキも、そこで日本人が示してきた個々の誠意も帳消しなのです。

 さらに始末に悪いことに、日本が記録とその保存、ということに関しては非常に几帳面な国であり、本気で調査し、総括しようとすれば自分たちより遥かに高い能力を持っていることをアジアはよく知っています。であればこそそれをしない日本にさらに大きなストレスが溜まってゆくことになるのです。


※第6話は3/6(月)に掲載します。

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発言者

深川由起子氏

深川由起子(東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授)
ふかがわ・ゆきこ

早稲田大学大学院商学研究科博士課程修了。日本貿易振興会海外調査部、(株)長銀総合研究所主任研究員等を経て、98年より現職。2000年に経済産業研究所ファカルティ・フェローを兼任。米国コロンビア大学日本経済研究センター客員研究員等を務める。主な著書に『韓国のしくみ』(中経出版)、『韓国・先進国経済論』(日本経済新聞社)、などがある。

 先日、中国出身で日本で起業し、成功した人が「日本人はリスクを取らな過ぎるか、無謀に取りすぎるかのどちらかで極端だ」と評していました。これはいろんなことに言えるのではないかと思います。さすがに先般の金融危機で、自分の預金を銀行一行に集約しておくことの危険性は