栗山尚一氏 第1話:「日本は過去の歴史に向かい合うべき」

2006年3月08日

「日本は過去の歴史に向かい合うべき」

 今までこのブログで発言をした4氏の方の話を読んで、もっともだという感じの指摘がいくつもありました。特にナショナリズムの問題をどうするのか、それは私が最近、ある論文に書いたもっとも言いたかったことです。

 このナショナリズムの問題は日本側にも、中国、韓国の側にもそれぞれ出てきており、現象面としては、強くなってきているように思えます。それぞれの国に個別の事情があって、共通の理由があるわけではないのですが、右傾化とまではいきませんが、歪んだナショナリズムが出てきている。このまま放っておくと、これからの日本の外交に悪い影響が出るのではないかという懸念があります。

 今後の日本にとっては、特に、近隣国との和解というものが、非常に重要な問題になっているように思います。近くて隣にある国との間に、仲良く安定した関係というものができるということは当たり前のことではありますが、日本の安全保障という意味でもとても重要です。しかし、一番本質的な問題は、国の生き様とか品格です。国際社会において日本がどういう国だと思われるのかということです。

 日本がアジアの国々との間での和解ができるかできないかということが、21世紀の国際社会における日本の品格を、非常に大きく左右すると私は思います。日本はこれから、少子高齢化が進んで人口が減り始めます。日本は経済大国と言われてきましたが、日本の人口がだんだん小さくなり、それを補うものが何かないと、日本の国際的な影響力が次第に小さくなっていくと思います。それにどうやって対応していくのかということについて、日本の指導者は考えなくてはいけない。

 日本の国際的な影響力を保っていく、ある意味では、もっと強くしていく、日本の発信力を高めていく、ということを考えていくことが求められていると思います。そこで非常に大きな要素となるのは、日本が日本の歴史とどのように向き合うのか、そして、それへの反省というものを土台にして、どのように日本が国際社会の中で行動していくか、ということが、基本的には問われていると思います。

 ドイツとの比較で言うと、ナチスのユダヤ人のホロコーストとか、ジェノサイドなど、本当にひどい国家的な犯罪で、日本は色々と言われていますが、そんなことはしていないわけです。にもかかわらず、村山談話では、日本は20世紀の前半に国策を誤り、と書いています。では、どのように誤ったのか、ということについて、国内的な総括が戦後なされませんでした。

 唯一あるのが、極東軍事裁判で勝者の裁判ということです。それに対する漠然とした国民感情の反発がありますが、日本人自身が国策をどのように誤ったのか、誰の責任だったのか、それに対してきちんとした総括を今日まで行っていないというところに、私は懸念を持っています。

 戦後の人たちが、ほとんど例外なく、学校教育は縄文時代から明治維新くらいまでで終わってしまい、それ以後の歴史については、きちんとした歴史教育というものが行われていません。若い人に聞いても歴史教育は受けていないという話がでます。政治家の人たちも例外ではないわけです。そういう状況で育ったわけですから、国策の誤りと言っても、その歴史的背景や責任のあり方を考えることはできないのです。

 中国や韓国と日本がまったく同じような歴史認識を持つということは難しいと思います。ただ、基本的に南京事件で何万人死んだ、殺されたといったことの数字で議論することは私に言わせれば枝葉末節の話だと思います。事実としてどのくらいの人が日本軍によって殺されたのかということは、なかなかわかるものではありません。中国側も数字を大きく言うということもあるでしょう。しかし、本質的な問題は、国策を誤って、植民地支配と侵略戦争をやったということを、日本として受け入れるかどうかということなのです。

 この植民地支配の問題でも、欧米だって植民地支配をしたではないか、侵略戦争と言っても国際的に確立した定義なんかないではないか、侵略かどうかということは、後世の歴史家が判断することだという人も往々にしています。しかし、後世の歴史家がどうとか言っても、日本が侵略戦争を行ったということでは、国際的な評価というものは、厳然としてあるのです。

 植民地主義というものが正当化、正当視されないということが、20世紀になって、ひとつの歴史の大きな流れとして出てきたときに、日本が後発の植民地主義国として、欧米の国々がやったことを、いわば後追いしてやったわけです。そこに、基本的に村山談話で言う「国策の誤り」というものがあったと私は思うわけです。

 そこのところが日本人の中で認識されていない。それが、戦前の日本がやった政策というものが、必ずしも一方的に非難されるべきものではない、自虐的な歴史観だという主張を招いており、それがだんだん強くなってきているという気がしてなりません。そこに大きな問題があるように思います。

 日本は近代の歴史にきちんと向き合っていないのではないかという見方は、中国、韓国だけではなく、世界や東南アジアにも一般的にある見方です。シンガポールのゴ・チョクトン元首相も、最近の講演で私と似たようなことを言っています。東南アジアの国が、日本の過去のことは水に流して、良い関係になっていると思うことは、実は、若干甘いと思います。こうした見方は欧米にも強くあります。今の日本に問われていることは、そういう日本に対する見方に、どう反論するのかということなのです。


※第2話は3/10(金)に掲載します。

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発言者

栗山尚一氏栗山尚一(元駐米大使)
くりやま・たかかず
profile
1931年東京都出身。東京大学法学部中退。54年外務省入省、85年駐マレーシア大使、89年外務省事務次官を経て、92年から95年まで駐米大使。帰国後2003年まで早稲田大学、国際基督教大学客員教授として活躍し、現在に至る。著書に「日米同盟 漂流からの脱却」、論文に「和解-日本外交の課題」等

 今までこのブログで発言をした4氏の方の話を読んで、もっともだという感じの指摘がいくつもありました。特にナショナリズムの問題をどうするのか、それは私が最近、ある論文に書いたもっとも言いたかったことです。