【論文】英国にはマニフェストをベースにした「サイクル」がある

2003年9月29日

fujimori_k030926.jpg藤森克彦 (富士総合研究所 主任研究員)
ふじもり・かつひこ

1965年生まれ。1996~2000年まで英国在住。著書に「構造改革ブレア流」など。

次期総選挙に向けて、各党が「マニフェスト」作りに力を入れている。「マニフェスト」とは、英国の選挙戦などで政党が発表する政策綱領のことである。そこには全体的なビジョンと共に、任期中に達成すべき政策について、数値目標、達成手段、財源等が掲げられる点に特徴がある。
筆者は、マニフェストを軸にした選挙戦は閉塞感の強い日本の政治状況を変えていく可能性があると考えている。これまで日本の政党の公約は、「財政再建をします」「福祉の充実を目指します」といった抽象的な内容が多かった。そのため、選挙時に有権者は、各党が政権獲得後に導入する具体的な政策パッケージを知ることなく、一票を投じてきた。この結果、選挙で示される民意と、選挙後の具体的な政策が結びつかず、政治不信の大きな要因となってきたように思う。マニフェストを軸にした選挙戦を行えば、国民は各党の政策の大枠を知り、それを見比べて支持政党を決めていくことができる。国民が主体的に選択した「改革」となるため、マニフェストは有効な手段になると考えられる。
また、公約をマニフェストに掲げることにより、政権党が実現に向けて強いインセンティブをもつことになる。具体的な内容であるために、マスコミなどによって事後的に達成度の検証が可能となるためだ。達成度が低ければ野党やマスコミから厳しい追及を受けて、次の総選挙のマイナス材料となる。達成度の検証は、政権党をマニフェストの実現へ向けて動かし、様々な改革を進めていく推進力となるように思われる。

本稿では、労働党が一八年ぶりに政権を獲得した九七年総選挙の状況を紹介して、日本への示唆を探っていきたい。

マニフェストは「構造改革の設計図」

英国のマニフェストを考察するに際して注目したい点は、諸改革を実現するプロセスにマニフェストをべースにした「サイクル」がみられる点である。


(図)英国にみるマニフェストをベースにした改革の進め方

まず、総選挙の際に政党ごとにどのような改革を行う予定であるのか、という点が「マニフェスト」に示される。いわば、マニフェストが「構造改革の設計図」となって、選挙期間中、政党間で競われる。英国民は選挙戦を通じて、各党の構造改革の内容を把握し、主体的に支持政党を選択していく。 九七年総選挙の主要政党のマニフェストはA4版で40~50ページにまとめられ、全体的なビジョンと共に、経済、社会保障、外交などの分野ごとに具体的な政策を網羅的に示す。マニフェストの準備は総選挙の二年前から始まり、党幹部、政策スタッフなどが外部の研究者の協力を得ながら作成する。 これは、日本の政党の公約にみられがちな、美辞麗句を並びたてたいわゆる「作文」ではない。多くの政策で、目標、達成手段、財源などが示されているのが特徴だ。

目標・手段・財源明示がポイント

例えば労働党の失業者対策(97年総選挙時)をみると、政策目標として「若年失業者の25万人減少」が掲げられている。そしてそれを達成する手段としては、民間企業での職業訓練など四つの選択肢を示して、若年失業者に半年間の教育・職業訓練の機会を与える。この財源は、余剰利益を得た民営化企業への一回限りの課税による、としている。
このように目標、手段、財源などが明示されているため、選挙期間中、マニフェストを軸にした討論がなされる。例えばテレビでは、現役の社会保障大臣と「影」の社会保障大臣などを呼んで社会保障政策を議論させる。またマスコミやシンクタンクは、マニフェストの実現可能性、矛盾点、曖昧な点を追及する。このような議論によって、有権者は各党の構造改革の内容を知り、支持政党を決めていく。

なぜ政党本位の選挙戦になるのか

他方、選挙期間中、各候補者は選挙区で、戸別訪問、電話勧誘といった地味な活動を行なう。興味深いのは、候補者が訴えるのは主に所属政党の公約であって、選挙区に道路や橋を作るといった候補者個人の公約ではない。英国では日本よりも、政党本位の選挙戦になっているが、これはなぜか。
第一に、国会議員が選挙区に利権誘導することが難しい仕組みになっていることがあげられる。英国の国会議員も、選挙区民から公共事業の陳情を受けることがある。しかし英国では、官僚の政治的中立性を保つため、閣外の国会議員が官僚と直接接触することが原則的に禁止されている。このため国会議員は、所轄大臣に手紙を書くなど、基本的にはメッセンジャーの役割を負うにすぎない。

第二に、選挙費用の規定が政党本部を主体とした選挙戦を想定している点だ。各候補者の選挙費用の上限は、概ね130万円程度に抑えられている一方で、政党本部の選挙費用には何ら制限がない。このため政党本部は、大量の資金をテレビや新聞広告などにつぎ込んで、政党宣伝を行なうことができる。こういった仕組みによって、候補者個人よりも政党が前面に出る選挙になる。

日本では政党本位の選挙に対して批判もあるが、政党を媒介にして議会に民意を反映させるために、これは不可欠な仕組みとなっている。

マニフェストを実現させる体制づくり

政権を獲得すると、内閣がマニフェストの実現に責任をもつ。第一次ブレア内閣の顔ぶれをみると、「ビッグ4」と呼ばれる党の実力者はそろって入閣した。このため、内閣と与党は一体となって構造改革を推進する体制になる。また労働党のマニフェストの作成には、党幹部が直接関与し、しかも総選挙前に党員から承認を得ている。これも、党内に「抵抗勢力」を生まない役割を果たしている。
また、年に一度、内閣改造が行なわれるが、その際の重要な基準となるのが、マニフェストの進捗(しんちょく)状況である。進捗状況が悪い大臣は、首相によって更迭される。いわばマニフェストの進捗状況が各大臣の成績簿となっている。
ちなみに日本では、政治家と官僚の関係において、「官主導」となってしまう点が問題にされている。英国でも同様の傾向はあるが、日本との比較においては、英国の大臣がリーダーシップを発揮して、官僚をコントロールしている。これは、英国の大臣がマニフェストを携えて役所に入っていくためだと考えられる。大臣は、官僚にその設計図を実現するように指示を出し、官僚組織を使っていく。例えば、七九年の総選挙で、サッチャー保守党は従来のケインズ主義的経済政策を放棄して、通貨供給量を管理するマネタリズムをマニフェストに掲げて政権を獲得した。政権交代に伴う政策の大幅な変更によって大蔵省は多忙を極めたが、当時の大蔵省事務次官は「ここにいる(大蔵省内の)すべての者はケインジアンです。しかし政府の方針に沿うよう全力を尽くしました」と語った。大臣がリーダーシップを発揮できるのは、「なすべき政策の設計図」を予め自分達で用意しているためである。

民意を反映しながらのマニフェストの法案化

選挙で議論されたとはいえ、マニフェストの内容はいまだ政策の大枠にすぎない。大臣の指揮の下、官僚の協力を得ながら法案化する。ここで注目したいのは、マニフェストの内容を法案化する過程でも、「緑書」「白書」と呼ばれる政策提案書が発表され、民意を反映する仕組みがある点だ。
緑書とは、議論のたたき台となることを目的にした政策提案書の草案である。例えば年金制度改革であれば、改革の背景、内容、年金の将来像などを内容とする122ページにわたる緑書が社会保障省から発表され、その後、金融機関、非営利法人(NPO)、大学研究者、シンクタンクなどから意見書が提出された。こうした意見書も報道されるので、国民は対立点などを把握することができる。
白書は、集められた意見を参考に修正された提案書であり、法案に近い文書となる。個別政策ごとに出される提案書であり、年に一度発表される日本の白書とは異なる。
さらにブレア政権ではマニフェストの進捗状況について「年次報告書」を発表した。例えば99年に発表した年次報告書によれば、マニフェストに掲げた177の公約のうち、90の公約が既に達成、85が現在進行中、二つが未着手という状況であった。
そして次の総選挙前になると、与党はマニフェストがどの程度達成されたかを発表する。例えばブレア労働党は、入院待機患者数は12万4千人減少したので、「10万人削減」という公約を達成したと主張した。これに対して保守党は、診察を待つ患者数は逆に増加したと批判した。また、マスコミやシンクタンクも、マニフェストの達成度について検証を行なった。
有権者はこのような議論から、政権党のマニフェストの達成状況を知る。そして各党が示す新しいマニフェストも考慮しながら支持政党を決めるのである。

選挙で問う体制整えよ

このように英国には、「マニフェストの提示」から次の総選挙前の「達成度の検証」まで一連のサイクルがあり、これが構造改革を推進する基盤になっている。
日本にはこのサイクルがない。日本の政党が掲げる公約の多くは具体性に乏しく、構造改革の設計図になっていない。このため個別政策について政党間の政策論議が深まらないのである。
また、達成度の検証もなされない。結局、国民はフリーハンドで政策決定を政治家に委ね、さらに政治家は官僚に委ねるという構造がある。
構造改革という「大手術」をなすには、国民が十分な情報を得た上で、治療法を選択できる体制にすることが必要だ。そのためには、次期総選挙で各党がマニフェストを提示して、政党間で活発な論争を展開することが必要である。また、政府には、個別政策について、緑書、白書を発表して、民意を反映しながら改革を進めること求めたい。
マニフェストには、政党を政策理念、基本原則の下に結集させると共に、政党の政策立案能力を高める効果も期待できる。マニフェストを突破口にして日本の政治構造を変えていくことが、今日本に求められている「もう一つの構造改革」である。