「日本の知事に何が問われているのか」/前三重県知事 北川正恭氏

2007年6月05日

 「日本の知事に何が問われているのか」をテーマに、全国の知事にインタビューを続行中です。
 現在の発言者は北川前三重県知事です。

第1話 知事のエネルギーの大半を職員との対話に注ぎ込む

私が三重県知事に就任したのは、今から一二年前の一九九五年四月です。その年の五月に地方分権推進法という基本法が成立しました。その前、私は国会議員でしたが、国会議員として、私はまさに政治改革に取り組み、その衝に当たっていたわけです。

私自身、地方分権の必要性は感じており、地方は国依存から自立へと変わらざるを得ないことをもう十分知っていました。だから、知事に着任した日、職員に真っ先に「県としての分権に向けた改革案があったら持ってきてください」という話をしたのです。翌日、分厚い資料がどんと出てきました。「これはすごいな」と言ったら、「知事のためにつくったわけではありません」というわけです。

私が知事になる前の九四年一〇月に、行政改革推進のための指針をつくってくださいというお願いベースの事務次官通達がきて、それで半年間かけて作成し、行政管理課という課もつくり、書類もできた。それを私に渡しただけでした。

読んだあと、私はその分厚い資料を放り投げて、「こんなものは、官僚の官僚による官僚のための何の感動もない量的削減ではないか」と言ったわけです。本当にぽいと放った。その瞬間に、県庁を代表する三人の優秀な職員は悩んでしまったわけです。

彼らは、「事実前提」という、従来のやり方で積み上げてくる行政スタイルでは、国から決められたことを確実に処理できる官吏として優等生です。だから、自分に与えられた仕事は、知事に完成品を持っていくことだと思い込んでいた。「てにをは」ぐらいを直されるのが稟議書だと思っていたのに、それを頭から全否定された。その途端に、優等生であるが故にもうわけがわからなくなったのです。

私は量的削減なんて全然興味もなければ、それをする気もないと言いました。それで「のど元過ぎれば熱さを忘れてしまう、これは感動のないものだから、駄目。やり直し」と言って、ぽんと返したのです。しばらくしてその三人は二回目を出してきたのですが、それも駄目、そういう繰り返しをしていたら、ある日、その中の一人がこう言うのです。「知事、まことに恐縮ですが、私たちは知事の考えがわかりません。じっくり話ができる時間をいただけませんでしょうか」。そこから新しい文化(カルチャー)が三重県庁で始まったと私は考えています。

彼らは、上から下への命令、服従といったヒエラルキーの関係なしに議論をお願いできませんかというわけです。

私は「望むところ」と応諾しました。今でも覚えていますが、安い寿司をご馳走して議論をした。そうしたら、ある日こう言うのです。「知事、わかりました、知事のお考えは、量的削減というよりは、サービスの受け手が納得するかどうかということですね」。私は「そうなんだ」と答えました。「量的削減で、あれを切る、これを切るというリストラの話ばかりの指針をつくっても、のど元過ぎて熱さを忘れたら、また君たちは悪さをする、そういうのをサプライサイドの論理というのだ」。

私は、知事としての仕事を「生活者起点」というところから始めたかった。まだその言葉は十分行き渡っていませんが、つまりデマンド(需要)サイドだというところから始めたかったのです。私が知事として在任した八年間は、日本全国の知事も市区町村長も、自治事務次官通達を所与のものとして、何の異議も申し立てることなく、唯々諾々と後生大事に守っていました。

しかし、私はそうした県の行政のあり方を問題にしない限り、三重県に明日はない、自立しない限り、もう明日はない、だから、立ち位置を変えろという考えなのです。そこで無制限のダイアローグ(対話)をやった。それはディベート(討論)ではない。お互い勝ち負けではなく、意見交換ぐらいの方が違いがわかって、お互いが納得していいのではないか。「その代わり、君たちが悪かったら直せ、私が悪かったら直す」と話しました。

私は、知事時代の四分の三、総労働時間一万六〇〇〇時間のうち一万二〇〇〇時間、このダイアローグに時間を使いました。もうそれしかやらなかった。全エネルギーを行政の体質改善にかけたというのが私の八年間でした。だから、冠婚葬祭にも行ったことはない。朝から晩まで職員と対話することに全勢力を傾けた。職員の意識が変わってこないと、体質は変わらない。そして、PDCA(plan、do、check、action)を導入して事務事業を評価するようにしたことで、私は改革派の知事といわれるようになった。けれども、事務事業の評価を入れただけで行政が変わるようなものではない。職員との徹底的な対話がその意識を変えたのです。

デジタルな革命と従来のアナログとが絡み合って複雑化し、一〇年かかって、ああ、そうだったのかと変化に気付く。私は、そういう本質的なことをやろうと心掛けていた。ある意味で「父ちゃん坊や」なのです。ミッション(使命感)はものすごく高かった。私は政策から手掛けるということはしなかった、それはむしろ避けた。政策を生み出していくシステムとかプロセス、マネジメントからまず変えようと順序をはっきりした。所与の条件で決められたことを手続き上やっていて、どうして政策が生まれるのか。そういう発想が、私のマネジメントの原点なのです。しかも、私に与えられた時間空間に地方は必ず変わるぞという確信がありました。九五年に、初めて基本法である地方分権推進法が成立し、それから、機関委任事務の廃止を含む地方分権一括法ができたのは二〇〇〇年。そして三位一体改革が動き出す。これから制度が変わるし、法律が変わって税財源が変わる、そういう確信があったのです。

私は県の行政運営については基本的に下から積み上げたものを壊すところからスタートした。それがすべてでした。これこそミッション主導であり、それこそがマニフェストというのだと職員に言ったのです。

事務次官通達がきてそれに対応しなくてはならない。そして、組織も財政課があり、総務部が筆頭にある、知事、副知事、出納長がいる、そういうことに何の意味があるか。そんな事実を軸に考える「事実前提」はやめよう。私が考えて選挙で訴えた約束やミッション・オリエンテッド、つまり「価値前提」であり、そうした目的達成型で私は行くと、選挙でもはっきりそう言っているのだから、それに従ってもらいたい。何も知事に従えということではない、県民が選んだ人の言うことを聞け、ということなのです。

「こうした立ち位置は絶対変わらない」と私は言い続けたのです。今と違ってあのころにこうしたことを言った知事は一人もいませんでした。

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