「日本の知事に何が問われているのか」/京都府知事 山田啓二氏

2007年5月16日

 「日本の知事に何が問われているのか」をテーマに、全国の知事にインタビューを続行中です。
現在の発言者は山田京都府知事です。

camp4_kyoto.jpg山田啓二(京都府知事)
◆第1話:5/16(水) 「日本の改革の旗手としての知事の役割はまだ終わっていない」
◆第2話:5/17(木) 「地方分権の上で欠かせないのは国が明確なミッションを持つこと」
◆第3話:5/18(金) 「この国を良くするパワーの源泉は地域の自立と自己決定にある」
◆第4話:5/19(土) 「道州制は国家の制度として何のために必要なのかの問いかけを」
◆第5話:5/20(日) 「道州制には地域の連携と交流というミッションが欠かせない」
◆第6話:5/21(月) 「今後の知事に問われてくるのは地域の経営力」


山田啓二(京都府知事)
やまだ・けいじ

1954年生まれ。77年東京大学法学部卒業後、自治省(現・総務省)入省。和歌山県総務部地方課長、高知県総務部財政課長、自治省行政局行政課長補佐を経て、92年内閣法制局参事官に。その後、国土庁土地局土地情報課長、京都府総務部長、京都府副知事を経た後、02年4月京都府知事に当選し、現職に就く (2006年には2度目の当選。)
「地域力の再生」を掲げ、環境、文化の発信、子育て、医療、障害者福祉、安心安全に取り組んでいる。

第1話 日本の改革の旗手としての知事の役割はまだ終わっていない

私が今の地方自治の中で最もおかしいと思っていることは、余りにも国と地方のことを分け過ぎようとしているということです。地方が自立するということは当然の話ですが、国との関係というものはそんなに簡単に切り離せるものではない。すべての面で、本当は国と地方とは有機的につながっている。その中で地方は一体どうあるべきかという議論をしていかなければなりません。そのためには、まず改革というもののもつ意味を考える必要があります。

今回、いわゆる改革派知事と言われる方が一斉に姿を消されましたが、私はそれはある程度、必然的な流れではないかと思っています。

つまり、日本はこの60年間、大変な高度成長をしてきて、ジャパン・アズ・ナンバーワンの中で自信と誇りを持ってそれをなし遂げてきました。それがバブルになり、バブル崩壊の過程で、一遍にもう日本はだめだという状態になってしまい、ここで、今もう1度日本の構造自身を変革しなければだめだという意識をみんな持ったわけです。そこで出てきたものが、国では小泉純一郎前首相でした。その少し前から、やはり地方は実は国より先んじている部分がありますので、北川正恭前三重県知事や橋本大二郎高知県知事といった方々が出てこられて改革を叫ばれた。このままではいけない、どうしたらこの国はよくなるのだろうかという志と、一般の人々も、これはだめではないか、一体だれに責任があるのかという話が両方から吹き出したと思います。まさにバブルの総括の中で、そこに対立軸が生まれたわけです。

例えば小泉さんの場合には郵政改革であり、道路公団であり、また既得権にしがみついている者だった。同様に地方でも、公共事業を担っている建設会社であり、地方の既得権益であり、そういったものがまさに日本をだめにしたものとして改革の対象となりました。その流れが出て、それを一般の人たちもわかりやすく受け入れた。ですから、改革派知事も小泉さんが行ったことも、対立軸がみんなにわかるようにしたということでした。

例えば、浅野史郎前宮城県知事は最初のころは食糧費問題で宮城県の職員と対決し、その後は警察と対決していく。長野の田中康夫前長野県知事はダム問題をやって、公共事業をしたい県政と対決していく。高知の橋本大二郎さんも、例えば外国籍の問題などを通じて対立軸を明確にしました。鳥取の片山善博前鳥取県知事も和歌山の木村良樹前和歌山県知事も、それぞれの問題で明確にした。そしてそのツールとして情報公開を活用し、わかりやすくする中で改革をやる。小泉さんも同じです。

これがバブルの後の日本にとって必要だったものではないかと思います。これで次のステップへ進む下地ができ上がりました。その点で言えば、まさに改革派知事の皆さんがやったことは、地方行政が国に先んじてやったことですし、それによって本当に今の日本のあり方を変える提言をされてきたということだと思います。

ところが、なぜ、これが今になって皆さんがいなくなったり、不祥事で捕まってしまうのか。1つの要因としては、やはり改革というものは対立軸を明確にしていくので、相手との間の戦いになります。そうやっていると総理も知事も強い。知事と真っ向からけんかして、それを打ち負かすことにはかなり努力が要ります。だからこそうまく改革ができたのでしょう。しかし、この人とけんかをしたらやられてしまうとなってきたときに、知事自体が大きな権力になってしまったところとか、知事が強くなって誰も逆らわなくなってしまったところが出てきた。そうなると、改革を推し進めるインセンティブも働かなくなってしまった。これが、今の現状でないでしょうか。

これは大きな問題をはらんでいます。一つは、改革はもう終わったのかという問題です。改革は決して終わってはいないどころか、ある面では、この間、三位一体改革や地方分権と言っていましたが、気がついてみると中央集権の方が進んでしまった現状がある。そこに多くの知事が今愕然としているのが実態です。これに対して次の地方分権というものをどう打ち立てられるか、1人1人の知事が今問われているのです。

もう一つは、改革疲れの問題で、改革の弊害にどう向かい合うのかです。今回の改革は戦後の体制の再構築であり、やはり大きな戦いであったわけですから、相手も傷ついているし、調和も崩れるという面があります。地域自身もその中で傷ついていく面がある。これは外科の手術ですから、当然副作用を伴う。調和が崩れれば格差という問題が出てきており、例えば治安が大幅に悪化する、地域間格差の中で医師不足が出てくる、児童虐待、不登校など、人の心が荒れてきているという問題がある。これも改革の反動かもしれません。戦いの中で人の心が荒れてきてしまったのではないか。こういう問題に対してどうしていくか。今、その移り変わりの時期に私たちは置かれているのではないかと思うのです。

ですから、これから私たちがやらなければいけないことは、もう1回改革の中身をしっかり見て、その志を再び進めていく、そういうエンジンを持ってやっていかなければならないということを右手に持って、そうは言っても何か荒れてきてしまったところを、もう1回きれいにしながら進まなければいけない。いわば、右手に剣と左手に平和の鍬と、両方を持っていかなければならない時代に来た。そういう大変厳しい状況に現在の知事が置かれたということが今の私の認識です。


第2話 地方分権の上で欠かせないのは国が明確なミッションを持つこと

私は、この国の構造改革自身が正しい改革であったかどうかを問うときに、本当の意味で地方分権というものができたのかどうかを厳しく問うことが求められていると思います。この点については私は非常に悲観的です。なぜなら、余りにも同床異夢の地方分権が行われてしまったので、国と地方がばらばらになっている感を持つからです。この狭い国で、国と地方というものは簡単に切れる関係ではありません。それを無理矢理切ろうとした。国からすると、財政再建のために負担を地方に押しつけるという形で地方を切ろうとした。地方分権を唱える人たちも、そうした動きの中で国との関係は悪だという形で国を切ろうとした。

両方の意思の疎通がないまま切ってしまったらどうなるかというと、全くばらばらな方向を向いてしまった。本来、地方分権の基本は補完性の原理であり、ベクトルの問題だと思います。今までの中央集権というものは、国が決めて、都道府県が市町村に伝え、市町村が実行するというベクトルですべての物事を考えていった。それに対し、分権型とは、地域のことは市町村が考え、そこで考えられないことは都道府県がその市町村のことを踏まえて考え、それがだめなときは国が考えましょうという方向にベクトルを変えることであったはずなのに、それがいつの間にか輪切りにされてしまった。そんな荒っぽい地方自治は、責任転嫁の集合体に成りかねない。

本来、地方分権は、まさに民主主義の学校と言われるように、住民自治が根幹です。物事をその思想で統一するはずだったのが、単なる権限と財源の分散という違う方向へ行ってしまった。その部分についてもう1回問いただすことが知事としての大きな役目だと思っています。

同時に、輪切りがすすんでいく中で地域経済が疲弊し、地域力が後退し、コミュニティーが失われつつある現状について、その立て直しを市町村長と知事が連携してやっていかなければならない。私の今年の予算のテーマは地域力の再生であり、コミュニティー施策を中心に行っています。そして、それを実行するためには、今までの、国に対して要望をして助けてもらうのではなく、まず自分でどこまでできるのかという経営力が問われています。経営力がないと、補完性の原理はなりたたない、地方分権は一発で終わってしまいます。

ただ、その知事の置かれている場所によって知事に問われる課題は全く異なってきます。東京都の知事は3年間で1兆円も税収が増えているところでやっている。他方で、先日、新聞を見て驚いたのですが、鳥取県は片山知事の時代に、県民所得、有効求人倍率、企業誘致が全部マイナスになっているということです。これは片山さんの責任ではないと思います。それくらい地域間格差が広がっている。京都府では、県民所得はこの間ずっと上がりっぱなしで、有効求人倍率は、私が就任したときは0.55、今は1.04、企業誘致は過去最高というところでやっているわけです。ですから、地方公共団体の中でも、勝ち組と言われているところと負け組が生じていることを踏まえた修正を、構造改革として国はして行かねばならない。

また、東国原氏が地鶏も含めて宮崎をすごい勢いで売り込んでいて、セールスマンとしての役割をしていますが、では私も京都のセールスマンをすべきなのかというと、恐らく違うと思います。例えば、来年の2008年に源氏物語ができてから1000年を迎えますが、昨年、源氏物語千年紀ということで京都から呼びかけを行ったときのメンバーが裏千家の前お家元の千玄室大宗匠、瀬戸内寂聴さん、梅原猛さん、冷泉さん...といった方々です。では、私はどういう位置かというと、まさに日本が世界に誇る方々をアレンジできるプロデューサーという役割ということになります。これは地域によってまるで違っています。

地方が疲弊する中で地域の持続可能性の問題が問われていることについては、地方の側の責任の前に、国家政策と地方政策がばらばらに進んでいることの矛盾が出ているのだと思います。今ほど国家政策、国家としてのビジョンがないときはないのではないか。何をビジョンとして、そのためにどういう政策をやっていくのか、それを中央省庁の役人自身が完全に見失っています。例えば今回の新しい全国計画の策定に際しても、各ブロックごとに意見を聞いて各ブロック計画をつくり、それをまとめて全国計画をつくるという民主的なやり方をとっています。しかし、最初に強烈なミッション、強烈な使命感、強烈な政策の方向性というものが全然出てきていません。

地方自治・分権とは、国と地方を切り離すものではないのです。国のビジョンと地方のビジョンが整合性をもって確立され、その中で地方が地域の実情にあった行政を住民自治で行っていくことが、真の地方分権の確立のためには必要なのです。
 しかし、明確なビジョンを言わない国の役人は、今や自信喪失しているのでしょう。このところの国の政策を見るとわかるように、すべて地方の知恵を当てにしている計画です。特区、地域再生策、今回の頑張る地方応援プログラムなどもそうです。地方が考え、国はそれらを認めてしまえばいいのであって、国としてどうするかというところは出ていない。

私自身がかつて霞ヶ関にいたからよくわかるのですが、霞が関の官僚自身が、かつてのキャッチアップ時代のときには外国の例を持ってきた。改革に際してもニュージーランド改革やイギリスのサッチャー改革などを持ってきたりで、自分で考えていないのです。オリジナリティーのないものをずうっとやってきた。そこには実は情報も知識もないのですが、もともとゼネラリストとしてしか育てられなかった霞が関のシステムにも問題があるわけです。それも中途半端な縦割りのゼネラリストばかり育ててきたので、今まともに地方と議論をしたときに、本当の意味で地方に勝てる役人がどれだけいるのだろうか疑問に思います。地域のことについて、こちらがバシっと言ったときに、それに向い合えない人は多いのです。

例えば、京都で鳥インフルエンザ事件が起こった時、中国で鳥インフルエンザのときに一体どういう作業が行われ、そのときにどういう問題が起きてきたのか、それをこの京都に来て指揮できる国の人間は1人もいませんでした。そこで、いつまでに作業が終わるのですかといった問い合わせばかりが国から来て、指導はない。しかし、今の仕組みからすると、それは無理はないと私は考えています。

中央に明確なミッションが失われてきているところに構造的な問題がある。だから東京一極集中になり、弱肉強食の野放しの状態になっている。昔は国土政策がありました。今はそれがない中で、実は地域間格差が広がっている。それに対して実力のある地域は自分の力を発揮できて、何とかやっていこうとする。しかし、圧倒的に東京が強いので、それでも苦しんでいるという現状がある。その全体の構造のことを問題にせずに、地方は頑張らなければなどと言っても無理な話です。国と地方を切り離して物事を考えていこうとするところに、今の地方自治の危うさがある。本当に地方自治を育てるというのではなく、単に責任逃れや切り捨てに終わってしまっているのではないか。そして、権限だけは離さず、細かい補助金で実に子細なことについて注文ばかりつけてくる。まさに悪しき中央集権がはびこっている。国は細かな権限行政は止め、大きなビジョンを持って国を動かす。地方はそれを踏まえながら、地域最適を住民自治で成し遂げる。こういう分権国家をつくらなければ本当はいけないのに、今は全く逆の方向にすすんでいると私には思えるのです。


第3話 この国を良くするパワーの源泉は地域の自立と自己決定にある

地方分権をどう実現するかを考える場合、やはり、自治の基本は市町村だということを考える必要があります。自治というものは、本当はその前のコミュニティーから始まる問題ですが、自分の地域のことは自分で決めていくということにあります。それがなければ人は自分の地域をよくしようというそもそもの意欲がわかない。ですから、自立というものを求めていかなければならない。それがまず地方自治の単位としては市町村に行く。そこで市町村合併というもので市町村に力をつけようとしたという方向性は間違いではないと思っています。

しかし、その中でやはり考えていかなければいけないことは、夕張市の例を見るまでもなく、まさに今まで親がかり、兄がかりでみんなで護送船団方式で支えていたところから脱却し、まず自立を目指すという方向を明確にする必要があります。私は自治能力というものはまさに運営力であり、地域力だと思います。それらが十分でないところがあることも踏まえないと非常に厳しい状況も起こってしまうということも事実だと思います。

そこであきらめるのではなく、助けながらその方向を強化していかなければ地方自治ができないし、その中で住民自治、民主主義の根幹ができなければ、この国を本当によくしようというパワーも生まれてこない。それがすべてだと思います。戦後60年、私達は豊かになることを夢見てやってきて、国民全員が汗水流してやってきたときに、では、次は何を目指すか、ということが問われています。今、心豊かな社会を目指すのだとすると、地方自治で自分たちのことをよくしていこうという意欲を持った人たちが、やはりその地域で頑張っていく者を育てていかない限り進めない。この方向は間違っていないと思います。

そして、どうしても、市町村ではできないものをやっていくのが都道府県です。その都道府県というものでは十分ではないとすれば、そこに新しいものとして道州制というものも考えていかなければいけない。そして、道や州でもできないもの、外交や防衛はもちろんですが、国としてのあり方やビジョンは国が示していき、地方を支えていくという流れに変えていかなければならない。ですから、国は自分の持っている権限を、苦しいだろうけれども、少しでも地方公共団体へ渡し、見守っていく役割を果たしていかなければならない。これが地方自治の基本的な考えだと思います。

こうした考え方は誰も反対しないのですが、なぜかそうはならない。そこに幾つか問題があると思います。まず、1800もある市町村は全部運営力も地域力も違います。この問題に対してどれだけきめ細かな対策を講じながら地方自治を進めていったのか。そうではなかったために、1800のうち多くの地方公共団体がギブアップしたいという気になりつつあるのではないかということを大変恐れています。

都道府県は逆にこの間、知事会を中心に地方分権を引っ張ってきたわけですが、引っ張れば引っ張るほど都道府県の力が強くなり、市町村の力は本当に強めることができたのか疑問です。ましてや道州制の問題があって、自らが体制側に回ってしまい自己改革というところから自己保全に走っているのではないか、都道府県自身が地方分権の大きな阻害要因に今なりつつあるのではないかということを反省しなければいけない。

国は相変わらず、国会議員と連携し、自分たちのステータスを地方の細かい行政に求めているわけです。この傾向はなくならないどころか、逆にどんどん強まっている。まるで大局観がないまま、細かいところへと入っていくことになってしまっている。国と地方の役割限定できないどころか、見事なまでに嫌な部分は地方に、おいしい部分だけ国に残そうという話になり、しかもその中で、まるで鵜飼いの鵜匠のような状況になろうとしています。自分たちは鵜匠で、地方公共団体に鮎をとらせて、よく働く鵜には餌をやるぞ、働かない鵜はもう捨てようという雰囲気になってしまっている。加えて、東京都に全てが一極集中して地域間格差が出ていることによって、日本の全体は極端にアンバランスになっていく。

こうした市町村、都道府県、国の傾向はいずれにとっても悪い要素で、どこを直して行くべきか、考えるべきことはもう明確になってきたのではないかと私は思っています。

現実がなかなか進まない中で、地方は本当の意味で自立をしたいのかという問いも出ているようですが、そのような問いかけ自体がナンセンスです。親は自分の子供に、おまえは自立したいのかと聞くのでしょうか。それは自立しなければいけないものでしょう。自立しなければ、子供は巣立ちませんし、孫の世代へも引き継げません。

私はよく言うのですが、インドの人が"イギリスに支配されていた時代がよかった"と言うのか、アメリカ人が"イギリスの植民地だったときは我々はいい生活ができていたのに"と言うのかということです。基本はそういう問題です。"地方自治で何かよくなったことがあるんですか"という問いかけをされると、そんな問題なのだろうかと思います。自分の地域について、よくなろうがなるまいが、いつも冷淡な人や自分だけが儲かればよいという人たちがいますが、みんなでこの地域をよくしようという気持ちがなければ、その国はよくならないのです。

就職した瞬間に、親からお小遣いをもらっていた人が"給料よりお小遣いの方が多かったですよ"と嘆くようなものかもしれません。しかし、でも、 800兆円の借金をこさえているあの親は大丈夫ですか。そんなことも言っていられないでしょう。自立しなければ親も倒れます。そんな時代にあって、自立した方がよいのか、地方分権した方がよいのかというようなことを、そもそも議論していることの滑稽さを私は時々感じます。


第4話 道州制は国家の制度として何のために必要なのかの問いかけを

地方の側は、やはり自立を目指してどれだけのことができるか、自分の力というものをしっかりと見きわめて、その上に立脚して戦略を進めていかなければなりません。例えば我が京都でしたら、経済力や政治力で東京と張り合っても何の意味もありません。では、うちに何があるか。やはり文化力であり、環境と共生した知恵です。そして、ものづくりの流れがある。こうしたものを押し立てて、文化戦略というものを柱にしていくことによって、東京にはない、ほかにはない地域の特色を出していくことで京都というものの自立を探っていかなければいけない。

地域ごとに自分の力を生かした戦略を立て、それが国家としてどれだけバランスがとれた地域づくり、国土づくりを行うかがうまく一体化して初めてよくなるのです。そこを切り分けてしまって、自立しろと言ったって何の意味もないし、それだけやっても、地方の側も十分なことはできない。東京にすべての政治権力を一極集中させておいて、地方は経済的に東京並みのことをやれと言われても、それは無理でしょう。もしかしたら道州制というものは、中央集権に傾いているこの国の構造をある面で変える役割を持つかもしれない。そういう基本的な理念のもとに道州制をつくるなら、大きな役割を果たすと思います。それがなければ何をやってもうまくいかないと思います。

道州制の前提になるのが市町村合併だとされていますが、市町村の組み合わせも地域によって異なります。例えば京都市は147万人の大都市です。そこが持てる力を発揮していけば、ここはもうどんどん伸びていくでしょう。それと日本海側の小さな市町村とを全部市町村の問題でひっくるめて議論をしたところで何の意味もない。かつてJRを分割したときに、新幹線を持っているJR東海はいいが、では、JR四国になったら四国はよくなるのかという問題がありました。やはりJR全体、つまり、全体の国土政策としてきちっとしたものを持っていなければ、道州制も単なるツールに終わってしまいます。

それと同じように、市町村もそれぞれの地域に応じて、各市町村のあり方に柔軟に変えていかなければいけない。その柔軟性というものはどこから出てくるのか。本当は地方自治から出てくるはずです。ところが、今の議論を見ていると、みんな輪切りです。それは地方自治でも何でもなくて、中央集権制の分散でしかないのです。

よく300の地方公共団体にすればよいと言う人がいますが、300にしたら地方分権になるのではない。300の中央集権ができてしまったら何の意味もないのです。かつて300の藩があったと言いますが、あの時代は民主主義の住民自治の時代だったのでしょうか。300の中央集権があっただけです。地方公共団体のあり方はそれぞれの地域で変わります。道州制もそれぞれの地域で変わるべきだと思います。

関西で道州制をやるとすれば、思い切って連邦制にして、関西を独立させて1つの経済圏として自立した形に持っていくことも考えられます。そういう力は関西には間違いなくあります。その方が今の東京一極集中よりも発展する可能性があると思っています。そういった連邦制をとるのも1つです。しかし、それが無理だとすれば、EU型の、それぞれの力を生かした形での道州制というものも手段ではないかと思います。先日、関西の6府県が集まったときにも、道州制についてマル・バツをつけると、大阪と私がマル、奈良と和歌山がマル・バツを両方挙げ、滋賀と兵庫がバツを挙げました。ただ、それは意見はバラバラというより、どこに中心を置いて考えるかだけと思います。例えば、今、国が地方制度調査会で進めているような道州制は非常におかしい。それは地方制度調査会自身に問題があって、名前からして問題です。地方制度で道州制をやるのではなく、国家制度として道州制をどうするかという議論をしなければならないはずです。

私はかつて自治省の行政課で、ちょうど広域連合のころの地方制度調査会を担当していましたが、同調査会は地方制度を考える会であって、国家制度ではない。今回彼らと議論したときも、なぜ地方支分部局の原則廃止を書けないのかと言った時に、あくまでも地方制度調査会ですから、事務的なものの移譲によって権限を移すとかは書けますが、原則廃止といったような国家制度論は書けないと言っていました。その限界について、みんなは気がついているのでしょうか。これは国家制度だという基本的な問いかけがないまま進んできています。市町村合併が進んだから、次は都道府県合併ですという形で行ってしまうのではなく、その問いかけから始めなければなりません。

市町村合併ができない市町村はたくさんあり、そこを見捨てることはできません。柔軟な地方自治が必要だし、その地域に合った地方自治をこしらえていかなければならないという基本的な姿勢が必要です。だから、市町村合併は手段であっても目的ではないわけです。いつの間にか手段と目的が取り違えられています。今は道州制も同じ議論に陥る可能性が強い。そこの点について私たちはまず闘っていかなければいけない。ですから、単純に道州制の賛否を問われると、忸怩たるものがあります。


第5話 道州制には地域の連携と交流というミッションが欠かせない

道州制を導入しても、それぞれのブロックの中での都市の集積と、それ以外の地域との間での格差の拡大という問題が指摘されていますが、これについても国のあり方全体に対する政策がなければいけません。例えば地域における均衡ある発展といったように、何らかのミッションがなければエゴに終わってしまいます。弱肉強食の中で都市が発展し、その周辺地域が寂れると、次にその都市も寂れます。根っこの部分で栄養分を地方からもらって都市は栄えているわけです。もう、ポリス社会があって貴族社会をそこにつくって、周りの農民たちを奴隷にしていた時代ではありません。この基本的な議論を踏まえて、その配分のあり方をきちんと議論していかなければいけない。それを自立という言葉だけで言ってしまうと何の意味もないと思います。

キーワードは連携と交流なのです。その中でそれぞれが地域に対する自立した気持ちを持って連携と交流を深めていかなければいけません。にも関わらず、それがいつの間にか甘えと、しかも輪切りになってしまっている。そのような見方で見ていくと、今の地方自治論なり地方分権論というものは大変危ういと感じています。大都市の周辺に対する責任負担という概念は、私どもがやってきた議論です。例えば合併を進めるときに、ここでは市同士が合併する例は皆無で、市が周辺市町村を抱え込む。または町村同士が一緒になるケースでした。そのときに、市の方々は周辺の余計なものを抱え込んでしまうと言いますが、私たちは、周辺があるからこそ真ん中が栄える、あなた方ひとりでは寂れる、周辺に対して責任を持って市行政をやってもらわなければ、最後に自分たちに返ってくると言っています。

それは都道府県の中心市についても同じです。例えば京都の場合には、地図を見るとわかるように、極端に南北に長いのですが、国土軸は東西軸です。東西軸だけやっていて京都市が栄えるでしょうか。我々が確立しなければならないものは南北軸でしょう。そうすれば、東西軸と南北軸の交差点に京都があって、京都は中心になることができて、発達します。東西軸だけですと、京都はだんだん大阪と名古屋と東京に引っ張られて宿場町になってしまいます。対中貿易、対韓貿易等をやってきた舞鶴港に加え、敦賀港があり、この2つが大阪港、神戸港の中枢港湾と張り合っていけば、ここから南北軸の起点ができる。南の方へ行くと学研都市があります。それが奈良へ延びる。この軸をつくることによって初めて京都市は学問、文化の中心地、またはハイテク産業の中心地として発達する。だから、私たちに南北軸をつくる京都府政をやらせてくださいと説明しているのです。

そういうことを言わないと京都市としてはわかってくれません。我々の税金が丹後や舞鶴へばらまかれているではないかと言われる。そういうものではないということを一生懸命説明していますが、なかなか説明し切れません。ただ、こういう政策でやっているということをそれぞれの地域で説明することによって、初めて連帯と交流が生まれるのです。

ところが、今の国の議論を見ると、そういう説明はなく、道州制でそれぞれ自立しろと言っている。旧自治省という役所も限界に来ていましたが、総務省になって余計限界が見えてきた。この間、地方は地方なりに反省をしながら改革をやってきましたが、反省のないところが霞が関ではないか。800兆円の累積債務を誰も反省しません。バブルのときに地方行政で何が行われたか、あのときの反省が今もありません。

私が高知県の財政課長をしていた頃は、ちょうど平成元年のバブルの頃で、税収が大幅に伸びて、地方交付税に余裕が出てきた。お金がたくさん入ってきて、しかも利率が高い。このときはお金を貯めるのが普通です。しかし、そのときに国から言われたのは、みんな借金をしろ、それで余った金は全部使えということでした。嫌だと言って抵抗していたら、最後に今回は見逃してやると言われたのです。つまり、国と地方、自治省と大蔵省でお金の取り合いをしていて、地方交付税が増えたときに、金を貯めたら地方財政余裕論が出るので、貯めるなと言われた。利率の高いときにたくさん事業をやらせておいて、今のように利率が低くなったら事業をやるなと言っているのです。


第6話 今後の知事に問われてくるのは地域の経営力

私が知事になったときには、もう北川さんのような改革派の人たちがいて、私たちはあの人たちの成果の上に仕事をさせてもらいました。情報公開や公共事業の配分の重点化などもそうです。1周遅れの方が抵抗なく、すっとできてしまうわけです。情報公開を進めて、これが今の地方自治だ、ハードの時代ではなくソフトの時代だ、もうこれからは人間に投資する時代だと言っても、議会は理解してくれます。おかげで非常にスムーズにやってきましたが、その代わり対立軸がはっきりしないので、府民からは見えにくくなってしまったかもしれません。そして、気がついてみると、改革派知事はみんな辞めてしまった。これはまずいなと思っています。

ここで、全面的な見直しをもう1回やっていかなければいけない。その意味では、今が正念場だと思います。これまで頑張ってこられた知事が一斉に引退をされたときに、本当に残りの知事の実力が試される。とにかくやらなければいけないということはわかっています。ただ、そのときに気になるのは、地方はそもそも自立を求めているのか、地方分権をしたら何がよくなるのかといった議論が出ていることです。知事会の中でも"あの分権は何だったか"という言い方をする。分権は正しいのに、分権がよくなかったかのような言い方をする人が増えていることに愕然としています。

霞が関のギブアップのさせ方も上手いのです。江戸時代は天領の方が栄えました。みんな兵糧攻めに遭っていて、私も平成11年に京都府に来ましたが、それからひたすら財政改革をやってきても、まだ搾れる地方行政の工夫はすごいと思います。しかし、それはさておき、地域経営の必要性に入りたいと思います。

こうした中で岩手県の増田知事は行政のダウンサイジングを進めましたが、経営的なものがなければ知事はできません。自立経営ということでいえば、京都府では、今回、ジョブパークというものをつくります。今、ジョブカフェとか若年者就業支援センターがありますが、さらに大がかりな就業の支援センターをつくって、今までは若年者だったものを、これからは女性や団塊の世代の再就職、農林水産業もみんな含めてやります。そういう総合的な就業支援センターをつくるところは、恐らく全国で京都府が初めてだと思いますが、私は、それが初めてだということは別に誇りにも思いません。何が経営なのかということですが、その就業支援センターには労働組合が人を派遣し、経営者協会が企業応援団をつくり、ハローワークが毎日ここへ来る。つまり、今までばらばらでやっていた国、都道府県のいろいろな人的資源のプラットフォームがそこにできたからです。みんな一緒にやりましょう、金も人も出してくださいということです。

これは我々からすると、まさに経営です。単に今までの国から来るお金を流すというパイプの役割ではなく、資源を生かして、その最大効率をどうやって実現していくか、あらゆる人材を生かしていこうではないかというプラットフォームです。

今後の地域コミュニティーの担い手としてNPOが重要ですが、行政側からみれば、NPOの人たちは我々から金を引き出そうとするのではないかと感じますし、NPOからすると、行政はすぐにNPOを下請として使おうとすると感じます。これをどうやって変えられるかということで、そのひとつとして、行政とNPOが協働する「災害ボランティア協会」を立ち上げました。そこに府の職員を派遣し、災害ボランティアもそこに人を置きます、そこで円卓会議方式にして、みんなで協働してやりましょうということにしました。そういう形でやったボランティア協会は日本で初めてだと思います。NPOと行政とが対等の立場で話し合おう、災害が起きたときは、災害ボランティアは行政の下に入るのではなくて、行政の人たちがそこへ行ってボランティアと一緒に自分たちの状況を説明してやっていくということです。こういう京都の人の力を和して効果的に運営していく。これが私たちの経営であり、地域力の再生です。

最後に、マニフェストについて申し上げますが、マニフェストがこれだけ定着してくると、次は中身の質の問題が問われると思います。私は、マニフェストがだんだん情緒的なものになっているのが心配です。嘉田さんが悪いというわけではありませんが、滋賀県ではマニフェストが最初の議会でひっくり返ってしまいました。詳細の事情が解らないという気の毒論がありますが、私は余りにも今のマニフェストには客観的な約束事がなさ過ぎるということを感じます。

例えば、ハード事業とソフト事業、国庫補助事業と単独事業とを混同して書いている。プロから見たらケアレスミスでは済まされないようなものが、いとも当たり前のように書かれているマニフェストがたくさん出ていて、首長になった瞬間に、もうできない、そこでひっくり返ってしまうことになる。ですから、もう少し定石とも言うべきラインというものは考えていく必要があるのだろうと思います。例えば、国庫補助事業を削減して財源を出す場合は、当然ながら補助金分は差し引かなければだめだといった約束事をつくっておかなければ、子供だましのようなものが出てきて情緒的なことになってしまう。そして、それがマニフェストに対する不信感につながりかねません。

退職人員以上に公務員を削ると書けば、では、どうやって首にできるのか。基本的に退職させるのなら当然ながら勧奨退職をしなければいけない。勧奨退職の上乗せをすれば、退職金も増えるので、財源が必要になる。こうした当たり前の話が全く無視されて書かれているものが、今の幾つかのマニフェストです。

これでは、数値目標がしっかり入った出来の良いマニフェスト程、中身がいい加減なものになりかねない。そして、マニフェストらしいマニフェストは中身のないマニフェストだという矛盾をどこかできちっとしていかないと、本当にマニフェスト選挙自身がブームに終わり、失望へと変わりかねないことを心配しています。

マニフェスト選挙が選挙のあり方を変えつつある今こそ、もう一度、マニフェストの中身に対するしっかりした議論が必要でしょう。

camp4_kyoto.jpg山田啓二(京都府知事)
◆第1話:5/16(水) 「日本の改革の旗手としての知事の役割はまだ終わっていない」
◆第2話:5/17(木) 「地方分権の上で欠かせないのは国が明確なミッションを持つこと」
◆第3話:5/18(金) 「この国を良くするパワーの源泉は地域の自立と自己決定にある」
◆第4話:5/19(土) 「道州制は国家の制度として何のために必要なのかの問いかけを」
◆第5話:5/20(日) 「道州制には地域の連携と交流というミッションが欠かせない」
◆第6話:5/21(月) 「今後の知事に問われてくるのは地域の経営力」

 「日本の知事に何が問われているのか」をテーマに、全国の知事にインタビューを続行中です。
現在の発言者は山田京都府知事です。