石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87 年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
地方交付税の前身はどのようなものだったのか
明治時代までは、いわば米本位制の下で農村部でも市町村の自治が十分に機能していましたが、明治の後半から大正、昭和となると、貨幣経済が浸透し、日本の産業が発展していくにつれて、地域差が出てきました。
農村部は相対的に力が落ちていき、義務教育の経費を賄うことができなくない村が出てきました。そこで明治の末期になると、教育費の一部を中央政府が面倒を見るような仕組みができてきました。これが更に大正、昭和と進むと一層強化されていきます。特に昭和の初期は世界恐慌があり、日本では、昭和6年(1931年)、満州事変の頃が一番深刻で、特に農村が大変な不況だったからです。
こうした状況の中で、義務教育を維持するために色々な措置が講じられるようになりました。昭和15年(1940年)には義務教育費国庫負担法という、最近もよく話題になる制度ができました。それは、学校の先生は市町村の学校の先生であっても、その身分を全て府県の身分にして、その給与は府県が支弁し、府県が払った給与の2分の1は国庫が負担するという制度です。それが、国庫負担制度のスタートです。
それと同時に、昭和15年という年は戦時体制に入る頃で、それに備えて税制全体を大きく直しました。そのときに、財政調整制度ができ、それを当時は地方分与税制度、地方配布税制度と言っていました。つまり、土地に対する税である地租や、家屋に対する家屋税といったものを国税として徴収し、それをその徴収した地方に還付するものです。これを地方分与税と言い、それを地方に配ります。しかし、還付税の金額は、都市部と農村部では相当格差が出るので、それを調整するように、地方配付税を配分することになりました。
今の交付税の前身です。それは、当時の所得税と法人税の一定割合を地方に配付するものでした。
この制度ができるまでには、当時も色々な議論があり、内務省の中でも-国が国税の一部を国の手で配分するのは、本来の地方自治の理念に沿わないという議論がありました。しかし、背に腹は代えらませんし、選挙に有利だというので民政党も政友会も乗り、紆余曲折を経て、地方財政調整交付金制度が出来上がりました。
創設当初の地方配付税は、財政需要と課税力の二つの要素で配分するものでした。課税力とは、人口当たりの税収の少ないところに多く配布するというもので、今、本間正明さんや大田弘子さんたちが主張している案に近いものです。つまり、人口当たりの税収を基準にして全国をフラットにしようと言っていますが、その思想がこの配付税の根っこにありました。これは、全国平均まで歳入を補填するという、歳入保障に近い考え方で、本間さんたちが言っているのは、今の地方交付税をこうした、最もシンプルな、スタートのときの方式に戻せという議論なのです。
地方配付税は歳入保障であると同時に、歳出保障でもありました。そこでは、財政需要も人口かける単価という非常に簡単な計算式で計算していました。一種の財源補填であり、平均値までの税収補填要素と、財政需要要素との二つの要素で配ったのです。ですから、当時は、不交付団体はなく、豊かな団体でも財政需要要素の分は行き、財政調整としては不徹底でした。
終戦後は、わが国は占領軍の統治下に置かれ、新憲法と同時に昭和22年(1947年)に地方自治法ができて、地方自治制度も全面的に変えられました。それまでの市制、町村制、府県制も全て自治法に統合され、他方で税財政制度は、基本的には昭和15年の制度をそのまま引きずりました。そういう中で、総司令部は次々と新しい立法を日本政府に命じましたが、戦後のインフレで地方財政は大変苦しい状況にありました。
そこで、中央政府がリードする形で、どの事業をやるにしても、新しい制度を作るときには必ず、その事業に必要な経費の一部に国庫補助金をつけました。そのため、補助金がたくさんできたわけです。
昭和24年(1949年)に来日したシャウプ税制調査団は、つぎのような勧告をしました。すなわち、あらゆる行政分野に国からの補助金が付いてがんじがらめになっている状態は地方自治ではないので、国、県、市町村が責任を持つ分野を、三つにはっきり分け、それぞれの事務については各々が全責任を負い、同時に、補助金をやめ、そのために地方税を増強するように、と。しかし、それでも団体間に貧富の差があるので、最終的に、国の立場からみて最小限度の財源が賄えない団体については、不足分を全額国が補填しなさいと勧告しました。これが地方財政平衡交付金でした。
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明治時代までは、いわば米本位制の下で農村部でも市町村の自治が十分に機能していましたが、明治の後半から大正、昭和となると、貨幣経済が浸透し、日本の産業が発展していくにつれて、地域差が出てきました。農村部は相対的に力が落ちていき、義務教育の経費を賄うことが