石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87 年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
地方自治というものの理念型
このブログでは様々な人が国と地方の関係、三位一体の改革について論じています。私はもっと基本に戻って、国と地方の関係について論じ、議論に参加したいと思います。
まず地方自治とは何か、ということです。それは、国家と地域というものが歴史的な発展の過程で、いろいろな関連をもって今日に至った中で、地域の特定の問題については、その地域自治体に責任を持ってもらうということです。住民が中心になって、一定の範囲の住民サービスに行政が責任を持つ、その代わり、そのサービスのコストは、そこの住民がお互いに負担する。それが地方自治の一番の基本です。
実は、アメリカの自治体は今でも、その基本の形のままです。アメリカでは、自治体の基礎的な住民サービスは全て、そこに住んでいる住民が負担する固定資産税で賄っています。その代わり、団体によってより豊かな地域と貧しい地域とがある。貧しい地域では、一人ひとりの税負担は重いが、住民サービスは高い水準のサービスができない。一方、有力な財源がある地域では、固定資産税は低いが、非常に良い内容の行政サービスが行われている。アメリカの住民にとっては、それは仕方がないと思われています。気に入らなければ良い方に移ればいいのではないかというのが自治の考え方なのです。これは、受益と負担が直結しているので、非常にわかりやすい。
我が国でも、徳川幕府の頃は、幕府は強大な権力を持っていたが、基本的には徹底的な地方分権でした。各藩が藩札を出し、お金も治安も産業振興も教育も各藩が自分でやってきたわけです。その結果、非常に貧しい藩も出てくるし、非常に豊かな藩も出てくる。貧しかったけれども上杉鷹山のような名君が出て、産業奨励をして節約して豊かになったというところもあるし、殿様が道楽をして、藩全体が貧しくなって苛斂誅求したところもあります。
ところが、明治政府が藩を全部やめてしまい、県を置いたのです。県というのは、国家が統治する単位です。その最高責任者の知事は中央政府、内務大臣が任命したわけです。一方、市町村については、江戸時代から村落共同体があったが、それをそのまま、村や町にしました。ですから、戦前においても、市町村は自治体でした。
村落共同体は昔の「大字」です。その「大字」が概ね江戸時代の村でした。その大字を大体5つ以上併せて、明治21年に町や村を作りました。その基準は、小学校を設置する単位だったのです。つまり、小学校ができる単位に村を再編成し、町村長さんも基本的にはそこから選んだわけです。そして、文明開化で教育制度を整備したときの尋常小学校の責任は村や町に負わせました。財源措置はなく、尋常小学校まではそれぞれ自前でやれという時代だったわけです。
まさに自治ですが、当時はそれなりに対応できました。というのは、明治の初期までは、いわゆる米本位だったので農村部が強かったからです。大阪など一部では都市が栄えていましたが、基本的には農業が経済の基本でした。
各村に義務教育を義務づけながら財源保障をしなかった中で、村では、地主さんに余計に持ってもらうなど多少の差はありましたが、一戸当たりいくらという戸数割で財源を調達しました。団体によっては、村が持つ共同の山の木を切って学校を作ったところもあります。いずれにしても、明治の初期の段階では各地域の自治は、アメリカの自治と同じように、その地域の住民の責任で財源を調達して、中央政府は関与しなかったのです。
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