加藤紘一(衆議院議員)
かとう・こういち
1939年生まれ。64年東京大学法学部卒、同年外務省入省。ハーバード大学修士課程修了。72年衆議院議員初当選。84年防衛庁長官(中曽根内閣)、91年内閣官房長官(宮沢内閣)、95年自民党幹事長。著書に『いま政治は何をすべきか―新世紀日本の設計図』(講談社1999年)、『新しき日本のかたち』(ダイヤモンド社2005年)。
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記事の賞味期限
問題はこうしたアメリカで起こっていることの教訓が日本のメディアには感じられないことです。こうした問題はメディアに限らず、日本の政治全体の中で、現在、カウンターバランスが崩れていることとも無関係ではないと考えます。
権力に対峙する役割を日本の社会が失ったときに、日本の政治は危険な歩みをしてしまう。そこにジャーナリズムが果たさなくてはならない役割があります。
アメリカのジャーナリストが報道していることが、遠い世界の出来事のように思えてしまうのは、どっちかというと、近い国との問題である拉致問題の方に興味があって、アラブ、パレスチナの問題というのは、遠い問題に見えてしまうこともあります。
確かにパレスチナは遠い問題と思いますが、戦争で人の命が落ちる話、それからわが国が自衛隊を派遣し、なおかつ、いまなおイラクに駐在しているという意味からも、これはそう簡単に人ごととは私には思えません。いずれ日本のメディアにもブーメランみたいに降りかかってくるテーマです。
しかし、メディアがこうした問題を遠い国の問題にしてしまうのは、現場の記者がどう判断したかというよりも、メディア自体が一度話題にしたものに賞味期限を設定してしまって、それを過去のものにしてしまう傾向があることも大きいと思います。
よく、燗冷ましの日本酒は飲まない、ということが言われます。日本酒を燗して飲むでしょう。ところが、ちょっと飲まないで置くと冷めてしまう。そうすると、その日本酒はまずくなるのです。記事も同じで一度騒いだニュースは時間を置くと冷めてしまう。それでは視聴率や読者を稼げないと判断してしまうのです。
燗が冷めてしまっても重要な問題ならもう一回熱くすることがメディアの責任だと思えるのですが、日本のメディアはそういうことはしないのです、一度騒いだらたとえばまたオウム事件をもう一回騒ぐかといったら、もうあれは終わった話なのです。
日本はある意味でテーマとしてのリカバリーはない社会なのです。そうした社会を日本のメディアは自ら作り出していると考えます。
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問題はこうしたアメリカで起こっていることの教訓が日本のメディアには感じられないことです。こうした問題はメディアに限らず、日本の政治全体の中で、現在、カウンターバランスが崩れていることとも無関係ではないと考えます。