横山禎徳/よこやま・よしのり (社会システムデザイナー、言論NPO理事)
1966年東京大学工学部建築学科卒業。建築設計事務所を経て、72年ハーバード大学大学院にて都市デザイン修士号取得。75年MITにて経営学修士号取得。75年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、87年ディレクター、89年から94年に東京支社長就任。2002年退職。現在は日本とフランスに居住し、社会システムデザインという分野の発展に向けて活動中。言論NPO理事
「ソリューション・スペース(後編)」
「大衆」である読者は情報の発生源から直接情報を入手する特別な手段や特権を持っていません。すなわち、「一次情報」である新鮮な未加工情報に接することはほとんど不可能であり、「二次情報」であるメディアによって加工された情報をもとにいろいろな判断をし、考え方を組み立てているのですが、その「二次情報」の提供者がこれまで述べてきたような高度技能に関して訓練不足かあるいは単純に怠惰であると、その提供者の水準に読者の判断水準が合わされてしまうことになります。かつて、1970年代から80年代にかけてアメリカ社会批判が流行しましたが、先進性を失い、企業も日本企業に立ち向かえず、社会全体が落ち目で犯罪も多く目を覆うばかりのアメリカという報道を読者は毎日のように目にしました。しかし、オハイオ州など中西部に何度か行っていた当時の私の感覚とはどこか合いませんでした。そこには質実剛健な人たちが元気いっぱい、前向きかつ地味に生活していたからです。その地域に本社を置いた大企業も結構元気に経営されており、業績も順調でした。
ニューヨークとロサンゼルスで起こっていることがほとんどの報道では読者は勘違いしたことでしょう。それだけではなく1990年代の後半に新たな時代を画し、活躍したマイクロソフトやオラクル、シスコ・システムズ、サンマイクロなどはちょうどそのころニューヨークやロサンゼルス以外の地で創業していたわけです。同様の革新性をもった企業は日本からは結局出てきませんでした。
この事実は広大で多様なアメリカの各地域を直接見てまわる努力をしなかった日本人記者の怠惰さとアメリカの持つ強さと弱さをちゃんと分析し彼らが取りうる解のある空間、すなわち、「ソリューション・スペース」を定義する能力が欠如していたことに原因があると思います。
当時すでに単一の国家経済としては捉えることはできない、複数の経済の複合体としてのアメリカであることは多少の経済的知識のある人にはほぼわかっていたからです。アメリカの一般むけ雑誌にもそういう報道はされ始めていました。
「ソリューション・スペース」を定義する高度技能の訓練は結構難しいのですが、読者を低次元の判断に留めるのではなく、主要課題に対する多様な解決策の可能性を示すのは公共性のある新聞の責任であるとするならば、ちゃんとした方法論を訓練すべきでしょう。特に、世界に先進事例のなくなった状況にある現在の日本は自分で自分の直面する「超高齢化社会をどう経営するか」の答えを出さないといけないからです。新聞がちゃんとした「ソリューション・スペース」を提示しないといけない責任があるはずです。
方法論を身に着ける手始めとして仮説を持ち、検証するというアプローチがあります。仮説を検証するために多面的な分析をすることによって課題の持つ広がりを理解し、例えば、国民医療費が超高齢化で高騰するという課題に対して個人の医療費負担率を高めろというような単なる課題の裏返しを答えにするのではなく、多様な答の沢山ある「空間」を定義し、読者に示すという訓練です。
この仮説を持つということは多くの記者がやっているようです。しかし、現地調査やインタビュー、データ分析等で仮説が逆証明されたら素直に最初の仮説を捨て、新たな仮説を作り出すことが誠実に課題に肉薄することでもあります。しかし、毎日新聞の「縦並び社会」の特集は最初の仮説どおりの結果をまとめたものに過ぎないように思えます。仮説の検証と発見、そして、新たな仮説を作り出すという作業をしたようには紙面からは見えてきません。作業を始める前から分かっている程度のことをまとめただけに思えます。だから繰り返しますが、課題の裏返しでしかない、どこか痩せた「ソリューション・スペース」しか提示できないのです。
昨年、北京で言論NPOがチャイナ・デイリーと北京大学とで共催した第一回の北京―東京フォーラム(第二回は8月3,4日に東京で開催予定)の後の記者会見で感じたのは中国人記者のある意味では純な質問に比べて、日本人記者の方々のすでにストーリーは出来上がっていて、あることだけ確認したいという、こちらの説明を幅広く聞く耳をもたないような思考も態度もかたくなな質問の姿勢は大変不愉快なものでした。
要するに自分の仮説に合うものだけの裏を取るという印象でした。案の定、翌日の新聞報道は中国が大げさでなくローカル誌も含めて全国に報道されたのに比べて日本の新聞報道はフォーラムでの議論はほとんど触れられておらず、それに先立って行ったアンケート調査の結果だけが報道されていました。すなわち、日中両国民がお互いを嫌っており、日中の関係の悪さの責任はお互い相手にあると思っているという趣旨の小さな記事でした。
実際に起こったことは、会議の前日にサンプル数と内容からいって日本はともかく中国では画期的なアンケート調査の結果が両国の参加者に知らされ、上記のような結果であることに日本人か中国人かに関係なくみんな愕然とし、靖国のことでなじりあうよりはこのような結果の重要さとその原因を議論したのですが、そのことはまったく報道されていませんでした。
そして、大変皮肉なことに、日中双方が合意し納得したのは、お互いの国を訪問したこともなく、親しい友人もなく、相手のことをほとんど知らない日中両国民がマスコミから情報を得てお互いに対する嫌悪感を作り上げている問題の重大さであったのです。すなわち、マスコミの責任はどうあるべきか、そもそも責任は取れるのかという課題をいろいろ議論したのです。
ちゃんと仮説の検証をし、それが逆証明されれば新たな仮説を作り出すという作業をあの記者会見会場にいた日本人記者はやらなかったのだと思います。それはすでに書いた記事を書き直すことをしない怠惰さなのか、能力開発不足なのか、職業的誠実さの欠如なのか、そのどれなのかはわかりません。しかし、プロフェショナルの定義の暗黙の了解はクライエントに信頼されることであり、それは自分の有利不利に関係なく誠実であることでもあります。すなわち、「クライエントの利益を自分の利益より優先する」という行動規範です。これがプロフェショナルの倫理観であるわけです。このような行動規範は各社にちゃんと存在するのでしょうか。
※以下にコメント投稿欄がございます。皆さんのご意見をお待ちしております。
「大衆」である読者は情報の発生源から直接情報を入手する特別な手段や特権を持っていません。すなわち、「一次情報」である新鮮な未加工情報に接することはほとんど不可能であり、「二次情報」であるメディアによって加工された情報をもとにいろいろな...