【メディア評価】横山禎徳氏 第5話 「記者のプロフェショナリズムとは(後編)」

2006年7月06日

0606m_yokoyama.jpg横山禎徳/よこやま・よしのり (社会システムデザイナー、言論NPO理事)

1966年東京大学工学部建築学科卒業。建築設計事務所を経て、72年ハーバード大学大学院にて都市デザイン修士号取得。75年MITにて経営学修士号取得。75年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、87年ディレクター、89年から94年に東京支社長就任。2002年退職。現在は日本とフランスに居住し、社会システムデザインという分野の発展に向けて活動中。言論NPO理事

記者のプロフェショナリズムとは(後編)

プロフェショナリズムの定義
学問的体系に基づいた高度技能を依頼人、すなわちクライアントのために活用して、問題解決をし、その対価としての報酬を得る。そのための倫理観を持っている人たち。


次に、「高度技能を依頼人、すなわちクライエントに対して使う」という点ですが、クライエントというのは本来少数です。新聞記者が相手にする読者は数百万人であり、クライエントという名に値しない大衆であるという考え方もありえます。しかし、日本の医師は年間数千から万のオーダーの数の患者を診ているわけです。要は自分の高度技能を使う対象をクライエントと考えるか大衆と考えるかの違いであろうと思います。

「大衆」という発想の裏にあるのは往々にして「無知な大衆」、「理解力の限られた大衆」という考え方です。もし、記者がそのように考えているとするとそれは大いなる誤解でしょう。多くの大衆は予想以上の理解力があるのだが理解していることを表現する能力がないだけなのだということを記者の方々はわかっているのでしょうか。

ソムリエの田崎真也さんのように飲んだワインを表現力豊かに説明できないのが素人です。しかし、どんな素人もそのワインがおいしいかまずいかは分かっているのです。説得力ある言葉で表現できないだけなのです。

そのような誤解のもとに「縦並び社会」とか「ワンフレーズ・ポリティックス」などというワンフレーズで表現しないと大衆は分からないと考えているのならその考え方は改めるべきでしょう。理解力はある大衆もイマジネーションは豊かではないので「見たことないもの欲しがれない」のです。
そして、マスコミというものはこんなものかなと思っているだけであり、もっと質の高いものを提示するとその方を欲しがるかもしれないのです。そのようなことができる高度技能を持つべきでしょう。

横通し的発想と縦割り、縦並び構造

これまでの議論に対して当然、反論があると思います。例えば、新聞は新鮮さを売り物にしたメディアであり、学術論文を書いているのではないのだからいまさら中根千枝まで持ち出して考察し議論しないといけないのか。また、大衆は無知ではないにしてもやはり大衆は大衆だからそこまで求めていないのではないかという反論が考えられます。それに対して答えてみます。

ネット・メディアの出現による新聞メディアの位置づけはまだ決着のついていない重要なテーマですが、まだまだその潜在可能性が十分開拓されていない今でもこと新鮮さにおいてはネット・メディアの方が優れているのは明らかです。

そうであれば、新聞はいろいろな事象に対して即時性にとらわれない体系的な考察がもっとあってしかるべきではないのでしょうか。このことはすでに分かっていることです。そうであるなら、それができる高度技能を磨く行動に移る必要があると思います。「暮らしの知恵」的なページを充実するのは結構ですが、それだけでは不十分でしょう。これも人材訓練のテーマではないでしょうか。

一方で、日本の新聞社の提供するネット・メディアはその可能性を十分開拓しようという意欲が見えません。私は日本と海外とを年間数回移動し一定期間住むという生活をしているので海外ではアサヒ・コム、ニッケイ・ネット、ヨミウリ・オンライン、そしてニューヨーク・タイムズ、ル・モンド、時にフィナンシャル・タイムズ、エコーをすべてネット上で読むのですが、すぐ気がつくのは日本の新聞ネットの記事の短さです。グーグル・ニュースで全体を見ていくつかの記事にアクセスして読んでも2,30分で終わってしまうのです。もっと周辺事情を含めて知りたいと思ってもどこにも適当なリンクがはってないのです。せいぜいあるのは特集記事か過去の記事の一覧です。

ル・モンドはリンクに関してはそれほど優れていないが記事は十分な長さで書いてあるように思います。ニューヨーク・タイムズは記事も程よい長さであり、またもっと知りたいときのリンクも相対的に優れていると思います。まだまだ発展途上であり、工夫の余地はあるのですが、それを日本の新聞が試しているようには思えません。

無料提供だからというのは言い訳であり、無料の間に先行投資をやり、読者の反応を確かめながらとことん試行錯誤を続けて将来は有料の選択肢を提供すべきでしょう。その際、分野やテーマごとにそれほど知りたいと思っていない大衆、ちょっと知りたいと思っている大衆、そして、もっと知りたいと思っている大衆のそれぞれに好みに応じた選択肢を与えることを考え追求すべきでしょう。それがこのメディアの潜在可能性のひとつです。

このような大衆を単なる大衆と一くくりに捉えない新たな体系を考え、その体系の中で新聞メディアの位置づけを考えるべきでしょう。しかし、こういう横通し的発想を強力に実施するのは「縦割り、縦並び構造」の組織である日本の新聞社には無理なことなのでしょうか。

私が言論NPOの活動に主体的に参加しているのも、組織の縦割りの発想から離れ、社会の課題に向かい合おうとする、個人の横のネットワークを主体とした非営利組織で、新しいメディアの可能性を追い続けているからです。そこでは私がここで言っているように社会の問題を横通し的発想で捉え、現状の課題を抽出し、その答えをユーザーとなる有権者に提案するための様々な議論が行われ、その舞台は地方だけでなくアジアにも広がっています。

官庁であろうと、大学であろうと、そして新聞社であろうとサラリーマンとしての出世は「縦割り構造」の中にあるという現実は無視できないことなのでしょう。理想的にはそのような組織構造にとらわれないのがプロフェショナルなのです。


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プロフェショナリズムの定義
学問的体系に基づいた高度技能を依頼人、すなわちクライアントのために活用して、問題解決をし、その対価としての報酬を得る。そのための倫理観を持っている人たち。