横山禎徳/よこやま・よしのり (社会システムデザイナー、言論NPO理事)
1966年東京大学工学部建築学科卒業。建築設計事務所を経て、72年ハーバード大学大学院にて都市デザイン修士号取得。75年MITにて経営学修士号取得。75年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、87年ディレクター、89年から94年に東京支社長就任。2002年退職。現在は日本とフランスに居住し、社会システムデザインという分野の発展に向けて活動中。言論NPO理事
メディアの水準とアービトラージ
ITのことを先回議論しましたが、インターネット・テクノロジーの新しい地平を開いたような企業が日本に出なかった背景には、やはり英語という、多分、今世紀最大の「知的資産」を米国の企業は活用できたからだと私は思っています。ただ、日本の大衆文化産業はアニメやテレビゲームなど「言語非依存型」で世界に影響力を持っており、言語に関係ないipod、そしてスカイプは日本から出てもおかしくなかった。しかし、日本のメディアはこうしたITの本質的な動きを理解せず、ほとんど二番煎じのIT企業という名に値しないIT利用企業の経営者を「ヒルズ族」とラベルを貼りそれがいかにも新しいような動きに仕立てていったのです。その背景にはジャーナリストの勉強不足というよりは新たな課題に対して何を知ったら本質に近づけるのかということを時々刻々変化する世の中とそれに追い掛け回される生活の中で見つけていく思考訓練の問題ではないかと思います。マスコミ各社はそのような価値観と訓練体系を持ち、しつこく時間とお金を使ってやっているのでしょうか。
例えば、マスコミで話題になった人たちはITを利用しましたが、今回たまたまITであったのでしょう。私はこうした人種をある意味で日米の時間差のアービトラージャー(裁定取引をする人)だと思っています。昔は日米のテイストや流行、そして技術の進み方の差は10年はあるから、アメリカで何年間か生活し、何か新しいものを持って帰ってきて商売すれば成功するとよく言われていました。それが5年になり、2,3年になり、本当は10年の差はすでになくなって並んでいるはずなのに、またブロードバンドでは日本の方が進んでいるとかメディアでも言っているにもかかわらず、なぜ時代を画すようなIT企業が出てこないのか、それこそが日本に問われていた課題でした。
そうした課題や実態を読者に提起もできず、そうしたアービトラージャーを「IT長者」と呼んできたのが、この間のメディアでした。 私が問題だと思うのは、メディアの記者が日本でこれまでに起こった歴史や技術のことも十分勉強して本質を理解しようとするよりは、思考停止のままキャッチフレーズをつけて、読者まで思考停止にしてしまうことです。歴史的に見ても新しい技術や制度が普及するときにそれを利用して巨額の利益を取ろうとするのは何も新しいものではなく、企業家も玉石混交でいかがわしい人たちも一定量登場しています。今回もそれとは基本的に同じだとまず理解すべきなのです。そのようなことに目を向ける思考訓練が組織的にされていないといけないのです。
例えば、大正の末期から昭和の初めにかけて、日本に「サラリーマン」という中産階級ができ始め、それが遠くに住むようになって、通勤電車が必要になりました。たくさん私鉄会社がうまれましたが、その時に、土地は確保しました、線路を引きますといって、まだ引いてもいないのに株主を集めて、カネを集めた時代と何も変わっていない。この時代で話題になったのは、トランスポーテーションでしたが、今回のテレコミュニケーションも似たようなものだったのです。
ただ、歴史的に言えばただ線路を引くだけではなく、その線路を使って流すもの、つまりコンテンツを作り上げることも一緒にやって時代を画す志を持った人も現れた。例えば、かつて箕電を立て直し、阪急電鉄の創業者となった小林一三はその一人ですが、彼がすごいのは、箕電をもとに近代的私鉄経営の基礎を築くあらゆる努力をしたことです。路線の重点を猿がいるだけの箕面から宝塚に移し、宝塚少女歌劇団を生み出して自ら脚本も書き、電車の中吊り広告や高校野球、月賦販売の建売住宅、ターミナル百貨店、さらには百貨店の食堂という現在みんなが普通だと思っていることを彼がほとんど発明したわけです。
なぜ宝塚に重点を移したかと言うと、動物園と温泉が宝塚にあったからですが、それは通勤が主体の私鉄の持っている本質的欠陥を改善できると思ったからです。朝と夜は片方だけ混み、反対方向はがらあき、そして昼間と日曜日もがらあき、これを何とかできないかと考えた。箕電の広告として多分私鉄最初のキャッチコピーをつくったわけです。、「早うて、安うて、がらあきで」というので有名になりました。それだけではなく乗客も多様な目的で電車に乗る人が増え、日曜日でも乗ってくれる、両方向に人が動いてくれるというために宝塚温泉場のアトラクションとして宝塚少女歌劇を考えたのです。
このような過去のことを知っていれば、技術の対象は違っても人間の野心とか欲望、いかがわしさなどから見ると今の現象もとりわけ新しいことではない、前にもあったことではないかと分るわけです。そして、小林一三のような画期的な才能が出てきていないことに気がつくのです。その後の日本の私鉄はほとんど彼の作り上げた仕組みを踏襲しているし、もっと重要なことは彼の仕掛けたことは当時世界でも初めてであったわけです。
要するに線路を引くだけじゃだめで、「コンテンツ」まで彼はやったわけです。経済学でいう「外部経済」をたくさん作り出しそれを取り込んで通勤者が負担に思わない程度の運賃でも経営的つじつまのあう「私鉄システム」を作り上げたのです。「コンテンツ」として誰も考えたことのないデパート食堂、デパ地下も含めてターミナル・デパートとか、宝塚少女歌劇とか、高校野球とか駅前の宅地開発と建売住宅とか発明していったわけです。
いまの「ヒルズ族」の中には小林一三のレベルに達している、あるいは達しそうな人物がいないかもしれないことは少し勉強していればすぐ分るはずです。IT事業をとことん組み立てるというよりは、既存のものを買収しただけでは時代を画す志を持っているとほめるわけにはいかない人たちををかってに胴上げするかのように持ち上げ、それを流れが変わるとさっと手を離し、あとからになって「幻」だというのは、自己弁護以上に無責任だと思うわけです。
誤解してほしくないのは彼らは否定されるべきといっているのではなく、特別扱いをすべき事業家ではないということです。「ヒルズ族」という言葉をマスコミがつくったのは、今から1~2年前でしたが、そのころにはネットバブルの崩壊後、何が本物であったかという議論はもうアメリカで出ていました。株式市場も「ネット株」という概念はやめよう、普通の株と同じなんだから特別のものさしで過大評価するのはやめようという議論がアメリカではされていたにもかかわらず、ITの構造的本質とその展開方向を見抜くこともできず、ただヒルズ族、ヒルズ族、IT、ITと騒いだのが日本のメディアでした。皮肉なことに日本のメディアの思考力の水準がこの程度だからこそ「時間差」のアービトラージができてしまうのです。
今後は自分の過去の言動を忘れ、「羹に懲りて膾を吹く」というゆり戻しをあおることをしないことです。市場が自由化されたり見たことのない新しい技術などが市場に出てくる時代には金融市場だけではなく、市場全体にいかがわしいものや失敗例が結構出てくるものなのであり、それが伸びやかな先進的市場の払うべき対価なのでしょう。こういう考え方を、現在の世の中のムードに迎合し、ひたすら否定してしまうことにならないような自己規律をマスコミがこの際持つべきでしょう。
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