岡本 薫(政策研究大学院大学教授・前文部科学省課長)
おかもと・かおる
東京大学理学部卒 OECD科学技術政策課研究員、文化庁課長、OECD教育研究革新センター研究員、文科省課長などを経て、2006年1月から現職。専門はコロロジー(地域地理学)で、これまで81か国を歴訪。著書に『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)、『著作権の考え方』(岩波新書)など。
「人々の意識」と「社会システム」
これまで話した内容をまとめると、私がこのメディア評価を行う際によってたつ立場は以下の点です。
● この「マスコミ評価ブログ」での私の一貫したテーマは、日本のマスコミにおける「ルール感覚の欠如」です。
● ここで言う「ルール」とは、「日本国憲法の基本ルール」であり、具体的には次のものを意味します。
・「民主主義」 = 「社会の全員を拘束するルール」は国会での多数決で決定されたもの
・「自由」=①「内心」(思想・信条・良心・価値観・倫理観・モラル等)は、常に自由
②「行動」は、ルール違反にならない限り、常に自由
● ここで取り上げる「ルール感覚欠如」の報道とは、「ルール上の根拠なく『自分の考え』を絶対視し、他人の自由を無視して押しつけようとする」ものであり、具体的に言えば、次のものです。
①「完全に自由」であるべき人の「内心」を非難し、「意識改革」などの美名のもとに
「内心を変えるべきだ」などと主張する、憲法ルール違反の報道
②「ルールに違反しない限り自由」であるべき人の「行動」(作為・不作為)を非難し、
ルール上の根拠なく、何らかの行為を「すべきだ」「すべきでない」などと主張する、
憲法ルール違反の報道
●詳細は、第1、2話のブログを参照してください。
次に取り上げるのは、読売新聞5月14日朝刊(14版)3面「スキャナー」の、「駐車違反取り締まり強化」と題した、第3面の半分ほどを占める大きな特集記事です。「改正道交法 来月施行」「民間委託の監視員巡回」「放置5分即『アウト』」などの見出しも見られます。
この中に、線で囲んだ200字ほどの短いコラムとして、「運転側の意識改革必要」と題した部分があり、「違法駐車の削減は、ドライバーの理解や意識改革が不可欠」という記述があります。
私は公務員時代に、キャリアとして就職を希望する学生さんたちの面接官を9年間務めましたが、すべての学生さんにした質問が、まさにこの「駐車違反の撲滅策」というものでした。
学生さんたちは全員が、例えば『メンタツ』(面接の達人)など、面接試験対策本を熟読していますので、「国際化」とか「情報化」とか「環境問題」とか「教育改革」などに関する一般的な質問をしても、全員が滔々と(似たような)立派な演説をします。
そこで私は、この人は現状を前提に合目的的な政策を考える能力があるか、ということを簡単にテストする手段として、「日本中から駐車違反を撲滅せよ、という政策目標を与えられたら、あなたならどんな政策を企画しますか?」という質問を全員にしていました。
すると、半数以上の学生さんたちは「ドライバーの意識改革が必要だと思います」などという答えをしました。
このような人は、「あなたは、ドライバーたちが『自分は、駐車違反はしない』という意識を持てば駐車違反はなくなる、という当然のことを言っているだけですね。意識改革によって目標を達成するというのであれば、ドライバー全員にそのような意識を持たせることができる具体的な政策は何ですか?」と突っ込むと、下を向いてしまうのが常でした。
私が不合格にしなかったのは、少しでも「システムを変える」という発想を持った学生たちであり、それは、「罰金の金額を上げる」でも「駐車場を増やす」でも、何でもいいのです。
いずれにせよ、「意識改革で」と答えた学生は全員「不合格」にしましたが、この記事を書いた記者が私の面接を受けていたら、当然追い返すところです。
社会の中の多くの問題は、「人々の意識」と「社会のシステム」の両方を原因としており、この両者はいわゆる「鶏と卵」の関係にあります。駐車違反について言えば、「駐車違反の取締りをしきれない」という「システムの問題」が、「まあ多分つかまらないだろう」という「意識の問題」を生み、これによる駐車違反の増加が「システムが追いつかない」というを益々拡大させる ―― という悪循環が発生するからです。
この悪循環を断つためには、理論的には「意識」へのアプローチと「システム」へのアプローチの双方があり得ますが、私は、まず「システム改革」を企画すべきだと考えています。
その理由の第一は、「意識」を問題にする人々は、えてして「問題は人々の意識にある」「人々の意識が変わらなければダメだ」と言い続けるだけで、人の意識を実際に変えるための具体的で効果的な方策を考えようとしないからです。
また第二の理由は、システムを変えずに「既に持たれてしまっている意識」そのものを直接的に変えることは非常に困難であって、具体的な政策を企画できる可能性が極めて低いからです。
さらに第三の理由は、人々の意識を直接的に変えようとすることは、憲法が保障する内心(思想・信条・良心等)の自由を犯す憲法ルール違反だからです。
人々の「意識」は、結果として変わるものであり、「手段としての意識改革」という発想は憲法ルール違反であり、多くの場合「合目的的な手段を考えられない人の苦し紛れの説」にすぎません。
何でも「意識」や「心」のせいにして、「人々の心や意識が良くなれば、問題は解決される」とする発想は、実は「精神を鍛えればアメリカに勝てる」というシステム無視の発想と同じなのですが、多くの人々はこのことに気づいていないようです。
特に日本のマスコミでは、何でも意識のせいにする精神主義が横行しているようですが、例えば、昨年JR西日本で重大事故が発生したときのも、マスコミの論調の多くはJR西日本関係者の「意識」を問題にしていました。また、耐震強度偽装事件のときも、建築士の「意識」や「モラル」を問題にした論調が多かったようです。
さらに、いわゆる「理系離れ」についても、「小学校から子どもたちの『物づくりに価値を見出す心』を養っていないことが問題」などという論調が多いようですが、理系離れの原因がそのようなものでないことは、「医学部離れ」が起きていないこと(小学校で「病人の治療に価値を見出す心」など養っていないこと)を見れば明らかでしょう。
日本人が言う(手段としての)「意識改革」は、あえて英語にすれば「マインド・コントロール」でしょう。日本で意識改革運動と称して行われている活動と似たものは、他の先進諸国にも見られますが、それらは英語では「パブリック・アウェアネス・レイジング」の活動と呼ばれています。これは文字どおり、人々を「アウェア」(気づいている状態)にするための活動です。
例えば、「皆さんはまだご存じないようですが、この湖はどんどん汚染されています。その原因は、あそこの工場が出している廃液にあるのです」ということを知らしめるのが、「パブリック・アウェアネス・レイジング」です。この事実を知った結果、「まあ、いいんじゃない」と思う人がいてもいいし、「そりゃ問題だ。社長と市長のところへ押しかけよう」と言って行動する人がいてもいいわけで、これは思想・信条・良心の自由に属する問題です。
こうした問題の背景には、人々の「自然な欲求」を直視しないという根本的な問題が潜んでいます。このために日本人の多くが、「モラルとルールの混同」に陥っているのでしょう。思想・信条・良心の自由(モラルの相対化)に基づき、独善的な善悪の感覚を越えて、人々の自然な欲求の存在を直視すれば、「欲求を前提とした、正負のインセンティブによる行動の誘導」という発想になるはずです。
特にこの特集記事は、全体としてまさに「システム改革」の方を取り上げたものでした。「罰を受けたくない」という「自然な欲求」を前提として、「取締りの強化」という「負のインセンティブ」を拡大し、それによってドライバーの「行動」をコントロールしようという、システム改革です。
ドライバーたちが、「駐車違反は悪だ」と「意識」の中で思っていようといまいと、インセンティブによる誘導で、「駐車違反をしない」という「行動」を実現しようとするのがこのアプローチです。
このことを報道する上で、「そうした政策は合憲か?」「そうした政策に効果はあるか?」「そうした政策のコストは?」「より有効・効率的な政策は他にないのか?」といった観点を打ち出すなら理解できますが、正反対の精神主義である「意識改革」を出してしまったために、せっかくの第3面は台無しになってしまったと言えましょう。
※第6話は6/8(木)に掲載します。
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次に取り上げるのは、読売新聞5月14日朝刊(14版)3面「スキャナー」の、「駐車違反取り締まり強化」と題した、第3面の半分ほどを占める大きな特集記事です。「改正道交法 来月施行」「民間委託の監視員巡回」「放置5分即『アウト』」などの見出しも見られます。