書籍『言論外交―誰が東アジアの危機を解決するのか』 ―民間による新しい外交のあり方「言論外交」とは何か、書籍の序章を期間限定で公開します!

2015年8月22日

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序章:日中「不戦の誓い」はどのようにして合意されたか

 2013年10月24日、米国で最も権威のあるシンクタンクの1つで世界的にも知れる米国外交問題評議会(CFR)のホームページに「Civil Diplomacy's Role in the East China Sea(東シナ海での民間外交の役割)」というタイトルの論考が掲載されました。

 それは、私が寄稿したもので、「東アジアの不安定さは世界の安全を覆す潜在的な可能性がある。尖閣諸島周辺の海域では日本と中国の船舶が連日、睨み合っているのに、政府間外交は完全に停止している。民間の新しい外交が必要になっている」と、書きました。

 私がこの論考で説明したかったのは、東シナ海の深刻な危機の実情ではありません。そうした危機を乗り越えるために、東アジアで新しい民間の動きが始まっているということ、しかも民間が東シナ海の紛争回避に乗り出しているという「民間外交」の存在です。日中間には厳しい政治的な対立があり、一触即発の状況にあると欧米の多くのジャーナリズムは見ています。しかし、私は日本では政府間の困難を乗り越えそれを解決しようとする「民間外交」が動いているということ、そして日本の社会には多様な意見があり決してワンボイスではない、ということをどうしても世界に伝えたかったのです。

 外交問題評議会のホームページへの論考掲載は、そう簡単に実現したわけではありません。編集者との間で「民間外交」の言葉の定義などを巡って様々なやりとりもありました。そのため、この論考をホームページで見たときに、私はぎりぎりで間に合った、という思いで一杯でした。掲載された10月24日は私たちが「東京‐北京フォーラム」のために北京に出発するまさにその当日だったからです。

 その2日後、北京では第9回目の「東京‐北京フォーラム」が開催されることになっていました。その場で私たちは中国側と民間同士で「不戦の誓い」を合意しようと、密かに準備を進めていたのです。この論考がフォーラムの直前に発表されたことで、世界の目がこのフォーラムに集まることになりました。欧米の多くのシンクタンクやメディアからも問い合わせがありました。それこそ私たちが期待していたことだったのです。

 現在、日本と中国の2国間では完全に政府間外交が止まり、東シナ海では偶発的な事故の可能性があるにもかかわらず、両国間にホットラインすら存在していません。このように膠着した政府間外交を動かすのは「新しい世論の力」だと私は考えていました。そのためには、私たちの試みを世界に知らせることが必要だったのです。


「不戦の誓い」へ至るまで――民間がつくる新しい世論

 では、なぜいま、「不戦の誓い」なのでしょうか。それこそが、この論考のテーマでした。私がそこで指摘したのは、私たちが2013年に行った日中共同世論調査のある設問の結果でした。中国人の約半数が、現在の日本を「覇権主義」だと捉えているという、日本人にとっては衝撃的でなかなか受け入れ難い調査結果があったのです。私はこの中国側の意識に、私たちが考えなくてはならない重要な論点があると考えました。

 「覇権主義」とは、力で強引に相手国を従わせるという意味です。日本側から見れば明らかに納得できない話ですが、中国国内では2012年の日本の尖閣諸島の国有化は、日本が現状を力によって変更したという理解がなされており、それがいまの中国の世論となっていることをこの結果は示していたのです。

 では、どうしてこのような理解になったのでしょうか。私はそこに政府間外交の持つ一つの限界があると考えました。尖閣諸島の領有権の問題は1970年代における日中国交正常化交渉の懸案の1つでした。しかし、この問題は先人たちの知恵により、意見の違いが棚上げされ、将来世代に解決を委ねることで、実質的に先送りされました。当時の田中角栄氏、周恩来氏、そして鄧小平氏らの偉大な先人にとっては、尖閣諸島の問題より、国交正常化の方がはるかに大きな意味を持っていたのです。

 そのため、これらの島に対する日本の実効支配の現状が、結果的に容認されました。しかし、多くの中国の国民はこの事実を知りません。しかも、日本政府はいまも当時も「そうした棚上げの事実はない」との立場です。中国も日本が実質的に支配していることを認めることはできません。つまり、国交正常化のプロセスは当事者でなくては理解できない、いわば阿吽の形で決着し、お互いの国民は別々のストーリーをもってそれを理解していたのです。

 こうした先人の知恵は、様々な形でチャレンジを受けます。中国も1992年の領海法で尖閣諸島の領有権を主張します。そして、最後にその微妙な均衡を破ってしまったのが、先の日本の国有化だったのです。その結果、多くの中国の国民は、日本が実質的に支配していることを知ってしまったのです。中国の多くの人たちが、日本が力で強引に国有化したと考えたのは、こうした経緯を知らないからでしょう。それが日本を「覇権主義」と見る見方につながったのだと私は考えます。パンドラの箱が開き、現実が明らかになった以上、政府間ではお互いの立場を主張することしかできません。そして国民はナショナリスティクな感情の対立を増幅させることになります。政府間外交が機能を失っているのは、こうした「外交のジレンマ」も背景にあるのです。

 この状況を変えるには、いまの現実をしっかりと見つめ、その解決に向かい合うしか方法はありません。その一つの手がかりが「不戦」だと私たちは考えたのです。

 すでに説明したように、東シナ海では偶発的な事故が軍事紛争に発展する危険が高まっています。世界が心配しているのもそのことなのです。しかし、私たちがこれまで行ってきた日中共同世論調査では、日中の多くの国民はその平和的な解決を求めています。そうした現実を私たちも直視する段階に来ています。つまり、いま東アジアで緊急に取り組むべき課題は紛争回避なのです。そのためには、両国の多くの国民が納得できる分かり易い合意が必要だと考えました。それが、今回私たちが提起した「不戦の誓い」です。戦争に道を開くどんな行動もしない。そのような合意が両国民だけではなく、世界で広く理解され、大きく支持されれば、この「不戦」は世界の世論になるのではないか、と考えました。


極秘に開催された人民解放軍将官と自衛隊関係者との非公式会議

 私が「不戦の誓い」を両国の民間で合意できないか、と考え始めたのは昨年4月のことです。このとき、北京で行われた「第9回 東京‐北京フォーラム」の日本と中国側との事前協議では、「この状況で民間対話に何ができるのか」という点が議論のテーマとなりました。2012年の日本の尖閣「国有化」を背景に、北京の雰囲気が刺々しいものとなり、中国メディアはまるで開戦前夜のように過熱していました。重苦しい雰囲気を打ち破るように、ある参加者からこんな発言があったのです。「思い切ったメッセージを世界に出すべきではないか。不戦の合意をしたらどうか」。そのとき、多くの参加者が深く頷きました。それを見て、私はこの合意を締結することは可能なのではないか、と判断したのです。

 その翌日、私たちは自衛隊関係者と中国人民解放軍将官との間で非公式な会議を行いました。この内容は第3章で一部報告していますが、そのとき、私は政府間外交を動かすための環境づくりに取り組むことは急務だと覚悟を固めたのです。この会議はほとんど秘密裏に、かなり神経質な雰囲気のなかで行われました。私がその場で強烈に感じたのは、東シナ海の海域は、まさに両国の現場の自制心だけでもっているということでした。「このままでは衝突が起きる」と本気で話す自衛隊関係者もいました。曳光弾や防空識別圏の問題も議論になりました。それに対する中国の人民解放軍関係者の認識は、日本の認識や国際的な認識とはかなりずれがありました。しかしながら、彼らは戦争を未然に防ぎたい、互いにコミュニケーションをしたい、危機管理を実現するためのホットラインを実現しなければならないと、まさに真剣に語り合っていたのです。

 そのとき、私は司会をやっていましたが、その光景を見て一つ提案をしました。そこまで危機感を覚えているのであれば、前提条件なしにお互いに話をして実質的なホットラインをつくったらどうかと。ホットラインなどの連絡網の交渉は日本の「国有化」以降、全面的にストップしていたからです。それまで語気を強めていた中国側の出席者は声を潜めてこう言いました。「それはできない。政府間外交が動かない限り、我々が勝手に動くわけにはいかない」。全ての障害は、政府間外交が身動き取れないことなのです。この状況を私たちはどう解決したらいいのでしょうか。


開催自体が危ぶまれた「第9回 東京‐北京フォーラム」

 その日から我々の準備が始まりました。とくに2013年は、日中平和友好条約締結から35年目の年でした。この条約の第1条の第1項と2項で述べているのは、どんな紛争も平和的に解決するということです。先人たちは、35年前に「不戦」を合意していたのです。それを今度は、民間レベルで確認することが日本側の目標となりました。

 私たちは当初「第9回 東京‐北京フォーラム」を日中平和友好条約が調印された記念日である8月12日に北京で開催し、その日に、「不戦の誓い」の合意を公表したいと考えていました。この考えは、非公式に中国側にも伝えていました。ところが、準備を進めていたところ、中国側から突然フォーラムを延期したいという申し出があったのです。フォーラムの開催まであと3週間を切ったときのことでした。彼らははっきりと理由は言いませんでしたが、準備が整わないので10月に延期したいと言ってきたのです。

 この「東京‐北京フォーラム」は、私たち言論NPOが、中国側の主催者である中国日報社(チャイナ・デイリー)という英字メディアと協議をしながら運営を行っています。両国には多くの有識者やオピニオンリーダーで構成される実行委員会があり、そこで運営の方針などが決定されます。日本側では現在、明石康元国連事務次長が実行委員長となっています。このやり方を8年間続けてきましたが、中国政府が横やりを入れるということは過去にありませんでした。つまり、この対話は民間側が自発的に運営するという一線は守られてきたのです。その舞台上で、政府関係者やジャーナリスト、経済人、外交関係者などいろいろな人たちが参加して議論をしてきました。しかし、今回、初めて中国側主催者から延期を通告されたのです。その延期の背景に、中国政府の意向があることは感じていましたが、具体的な説明はありません。おそらく8月12日に開催した場合、その直後の8月15日に安倍首相の靖国参拝があったらどうするかという中国側の懸念があったのではないかと私は推察しています。

 フォーラムが再開できるのかどうか、胃が痛くなるような日々が続きました。ただ、私が絶望的にならなかったのは、彼らが次の可能性として、10月23日を提案してきたことです。この日は日中平和友好条約の批准・発効の記念日です。つまり、今回の民間対話を日中平和友好条約の精神の下で実施すること、さらに私たちが提起している「不戦の誓い」、つまり平和解決の合意を中国側が放棄していないということが読み取れたからです。しかし、本当にそれが実現できるかは、最後まで分かりませんでした。

 結局、「第9回 東京‐北京フォーラム」は10月25日に晩餐会を行い、26日-27日の両日、北京で開催されることになりました。しかし、中国側でもその確定がぎりぎりまでできなかったことは、中国側の参加者の表情ですぐ分かりました。いままで私たちと一緒にやってきた中国側主催者の一人で、上海から駆けつけた趙啓正氏(元国務院新聞弁公室主任)も後日、「私は北京に来るとき頭が痛かった。本当に開催できるのか、最後まで自信がなかった」と語っていました。

 フォーラムが行われたホテルは中国外交部の建物からわずか200メートル足らずの場所にありました。私が驚いたのはわずか2日間の両国の対話に述べ3000人を超す人たちが集まったことです。しかも、その半数が若い世代でした。政治対話には400人が参加しましたが、7割ぐらいが若い世代でした。日本側も北京大学などの留学生が70人も集まり、ボランティアとして裏方を支えてくれました。政府間外交が機能していないなかで、これだけ多くの人たちがこの会場に駆け付けてくれたのです。それほど日中間における危機感を共有し、それを何とかしたいという人たちが両国に存在している証でした。

 この「東京‐北京フォーラム」は安全保障、政治、経済、メディアの4つの対話に分かれて構成されています。日本と中国から合わせて100人近い専門家がパネリストとして参加しました。これらの対話は全てオープンにされており、全ての分科会で一般参加者との対話も行われます。このようにオープンな形で対話を行うのは、第1回から我々が採用している方法です。しかもその対話の全ての内容がメディアにも公開されるのです。安全保障の対話では、日本の防衛大臣経験者や自衛隊OBと中国人民解放軍の将軍が、テレビカメラが回るなかで尖閣諸島周辺の危機管理メカニズムの構築について話し合いました。政府間では硬直化している問題が、民間レベルでは本音で真剣に議論されるのです。

 私たちがこうした「公開性」にこだわっているのは、対話の内容が両国の国民だけではなく、世界に伝わることが大切だと考えているからです。私たちがこれまで毎年行っている日中共同世論調査では国民間の相互理解だけではなく、両国についての基礎的な理解も不足していることが明らかになっています。背景にはお互いのメディア報道や教育などの問題もあります。この状況を少しでも改善していくためには、お互いの考え方や主張を実際に見たり聞けたりする環境が不可欠です。しかもそれは専門家同士によるクローズドの会議ではなく、国民に開かれ、メディアによって周知されることが大切なのです。さらに言えば、それだけでも不十分で、多くの人が当事者として両国の困難に向かい合い、その解決のための作業に取り組んでいること自体が広く理解されることが必要です。

 多くの人たちが課題を乗り越えるための当事者として対話に参加し、その対話が両国の世論に対して影響力を与える、そうした対話こそが両国の間に必要であり、両国間の危機が深まれば深まるほどそうしたオープンな対話が状況の改善のために意味があると私たちは考えました。そのためには、日本と中国の国民に、両国の紛争を回避するための自発的な民間の取り組みが始まったこと自体を伝える必要があったのです。

 その日行った全ての対話で両国のパネリストたちが、いまの状況を改善させるためにはどうしたらいいか、政府間外交が動かないなかで民間として何かできるのか、ということを議論していました。私はその対話を横目で見つつ、別室で「不戦の誓い」(「北京コンセンサス」)という合意をまとめることに集中していました。しかし、協議は最初から暗礁に乗り上げました。政府間外交の対立が民間の対話にも色濃く影響し、文面がまとまらないのです。


"言葉のゲーム"に陥ってはならない民間外交

 この「不戦の誓い」を合意するに当たり、私たちは政府の言葉は絶対に使わない、と決意していました。政府間交渉とはまさに言葉のゲームだからです。お互いの立場を主張し、それが妥協できてもそれぞれの国民が納得できる言葉をどう見つけるか、ということが政府間外交の交渉です。その中に民間の外交が巻き込まれてしまうと、政府間外交の対立を民間も背負ってしまうのです。我々は政府間外交の言葉を一切使わないと同時に、あくまでも紛争を回避するために、両国の国民が納得できる普遍的な言葉、共通の言葉で「誓い」をまとめなければいけないと考えていました。日本側が最初に用意した素案では、「両国はどんなことがあっても戦争に道を開く手段はとらない」という「誓い」に合意しようということになっていました。中国側はそこには理解を示したものの、2つの問題にこだわっていました。

 1つは、日本政府は紛争の存在を認めていない。紛争の存在を認めていないのに、どうして平和解決できるのかということでした。つまり、紛争の存在を認めろということです。

 それから日本側の政治家が相次いで国交正常化の原点を覆すような発言をしていることに対する歴史認識についての言及、この点が書かれなければ合意はできないと言ってきました。

 私たちは、その言い分について理解はしましたが、文書そのものを中国側が言った通りにつくれば、それは政府間の対立に民間が巻き込まれてしまうと考えました。私たちは政府間の代理戦争を行うために中国に来たわけではない、民間側の「不戦」に合意することにより、政府間外交が進展する環境をもう一度つくり直すために、努力をしている、と何度も主張しました。私たちが意識しているのは世論なのです。多くの人たちに理解してもらい、賛同してもらうためには、一般の人たちが納得し、共感でできる言葉や論理をつくり上げる必要があります。交渉に参加した日本側の実行委員会の武藤敏郎副委員長(元日銀副総裁)が第1章でその経緯をかなり詳しく説明していますので、詳細についてはそちらを参照してください。

 この交渉には私や武藤氏のほか、明石康日本側実行委員長(元国際連合事務次長)と宮本雄二副実行委員長(元駐中国特命全権大使)が参加し、中国側の趙啓正氏や主催者の中国日報社副編集長などと協議を行いました。中国側は同じホテルに部屋をとり、関係者が集まって連絡を取り合いながら動いていました。

 協議を行っていて、私は、日本だけではなく中国も含めて多くの人がこの作業を見守っていることを実感しました。文案をまとめるということでは、私たちの気持ちは一致していたのです。

 当初、中国側は「このような日中関係が非常に厳しい環境下で、しかも北京でこのような対話を行えたこと自体が偉業であり、大変な成果。逆転ホームランは無理に求めなくてもよいのではないか」と話していました。しかし私たちは、「ここで『不戦の誓い』ができなくて何のための民間対話だ」と主張し、中国側も「結果に責任は持つことは難しいが、私も同じ気持ちで取り組んでいる」と互いの気持ちがつながり始めたのです。

 ただ、それでもなかなか溝は埋まりませんでした。その1つが日本と中国の言葉の定義や認識の違いでした。例えば、彼らは「正しい歴史認識」とよく言いますが、「正しい」とは何かと聞いたら、「正しい」という言葉の使い方が私たち日本人とは異なるようでした。それを言い換えて、私たちから「客観的」でよいのではないかと言ったら、「それでよい」となりました。「正しい」という言葉を使うことで中国が考える正しさを押しつけているわけではなかったのです。

 このように、同じ漢字でありながら日中で言葉の使い方やニュアンスが違いました。合意形成のためには、1つひとつ、意味を確認しながら照合するという膨大な作業が必要でした。しかし、どうしても中国側が譲らない箇所がありました。それが、政府間外交と民間外交に対する認識の違いです。中国側は厳しい国内世論を背景に、政府間外交で対立している言い回しを私たちの文章でも使うことにこだわりました。しかし、私たちは政府の交渉とは関係なく、民間の合意で、その政府間外交が可能になる環境を新たにつくりたいと考えていました。

 こうした違いを克服できないまま、発表前日の夜を迎えました。私は、中国政府と直談判するしかないと考えました。そして、その日の夜、私たちはもう1人のこのフォーラムの生みの親である王毅外交部長との懇談に向かったのです。


発表直前にようやく合意できた「不戦の誓い」

 王毅部長との懇談の内容をここで詳細に紹介することはできませんが、私は、日本を発つ前に、王毅部長に古い友人として日本の友人と会ってもらえないかと手紙を出していました。中国到着後、王毅部長への表敬訪問が急遽決まりました。私は、この懇談でストレートに話をしてみようと思っていました。

 そのとき、王毅部長から「工藤さん、何を悩んでいるのですか」と言われたので、「中国側がなかなか合意に応じてくれないのです」と相談しました。すると、王毅部長は「この対話は民間の対話ではないですか。工藤さんがやっていることに政府は口を出すべきではない。だから、工藤さんが思っていること、考えている方向でやったらどうですか。やはりコンセンサスはまとめるべきです」と言われました。その時、私は「コンセンサスはまとまるな」と確信しました。それから、王毅部長との懇談は2時間近く続きました。

 その後、私たちはホテルに戻り、協議を再開しました。時間はすでに午後11時になっていましたが、我々日本側はすでに覚悟を決めていました。民間として合意できないものは合意しない、仮に歩み寄れないのなら、コンセンサスの公表は止めようと思っていたのです。そのとき、中国側がまた1つの案を出してきて、再協議を求めてきました。それでもまだ私たちが同意できない部分が残っていたので、修正を提案しました。中国側に民間としての合意の意味を理解してもらい、彼等もようやく修正に納得してくれました。その後、膝詰めで文章の作成に入りました。26日の夜の11時から始めて、その後、コンセンサス案がまとまったのは朝の4時でした。それを日中双方が持ち帰り、最終的に合意したのは朝、全体会議が始まるのとほぼ同じ時刻でした。そして、午前10時に「不戦の誓い」は公表されたのです

 私たちは「不戦の誓い」を民間レベルで合意することが極めて重要だと考えました。これは、政府間外交とは全く違うロジックなのです。私は、アジェンダを変えることだと思っていました。確かに、両国政府が主権の問題で譲れないことは当然のことなのです。我々も、中国側も尖閣問題で譲る気持ちはありません。しかし、アジェンダを変えないと紛争が起こる可能性がある。つまり、いま最も優先すべきは紛争の火種になるような偶発的な事故を回避する危機管理のメカニズムをつくり上げることなのです。それを我々はもっと頭を冷やして、民間の視点で世に問わなければいけないと思い続けました。

 私がもの凄く嬉しかったのは、こういう作業に日本と中国の多くの人たちが、まさに当事者として協力してくれたことです。明石さん、宮本さん、武藤さんは明け方まで協力してくれました。特に武藤さんの文章の整理能力は、若い官僚時代の辣腕を感じさせるものでした。皆さん、ご高齢とはいえ青春そのものでした。中国側にも非常に真剣な努力がありました。いろいろな人たちから、廊下ですれ違う度に「コンセンサスはまとまったか」と話しかけられました。課題を解決する、という当事者意識は国境や年齢も越えられるのだということを、私たちは実感することができました。私たちがここで提起している「言論外交」というものは、まさにそうした当事者たちの課題解決への努力なのです。その挑戦が多くの国民に共有され、共感を得られたときに、世論を動かし、政府間外交の新しい基盤をつくり上げることができます。多くの人の課題解決の意思が、外交の力に新しいイノベーションをもたらすのです。


中国側から提案された10回目以降の継続開催

 「第9回 東京‐北京フォーラム」の最終日、私たちは国務院新聞弁公室の蔡名照主任に食事に招かれ、その場で、蔡主任からある提案をいただきました。「政府として口を出す話ではないが、この対話が当初予定されていた通り2014年の10回目で終わるのは余りにももったいない。今日、日中間において信頼できる唯一の対話の舞台であるこのフォーラムを今後も継続し、発展させるために、ぜひ、11回目以降もこの対話を続けることを検討してもらえないか」という提案です。私たちが9年前の日中関係が非常に困難なときにつくりあげた小さな民間対話は、当面10年間行うことで中国側の主催者と合意していました。その対話が、いまや両国間において最も信頼できる唯一の対話として大きく機能し始めたのです。こうした「東京‐北京フォーラム」のプロセスそのものが、私たちが考える新しい民間外交のあり方、つまり当事者と世論をつないでいく、「言論外交」の実践であり、1つの大きな問題提起になったのではないかと思います。

 今回のフォーラムから帰国後、驚くべきことが分かりました。私の論考が外交問題評議会(CFR)のホームページに掲載されたその24日に、中国の7人の政治指導部、全閣僚、30カ国の大使を集めた周辺外交活動座談会が開催され、習近平国家主席がそこで重要な演説を行ったことが分かったのです。その発言は、まさに私たちが北京で「不戦の誓い」の作業に取り組んでいた26日に公表されました。そのなかで、いままで中国が表現していた政府の広報宣伝外交、すなわち公共外交、パブリック・ディプロマシーと並んで、初めて「民間外交」という言葉が公式に位置付けられたのです。周辺外交における「民間外交」の役割が、中国でも習近平国家主席の言葉として裏付けられました。

 「民間外交」とは民間が自発的に行う行動であり、政府が指導したり、活用するものではありません。しかし、政府間外交が機能しないなかで、当事者としての民間の役割は、東アジアの地域ガバナンスの安定のためにより大きなものになろうとしています。民間の外交は、政府間外交を動かすための「基礎工事」なのです。民間分野で始まったこうした外交の動きが、両国間のいまの状況を大きく変える1つの要因になりうるのではないかと私たちは期待しています。

 日中間ではその後、中国の東シナ海での防空識別圏の設定や安倍首相の靖国参拝など様々な問題が起こり、日中関係はより難しい状況になっています。しかし、困難を乗り越えるために、私たちは対話を続けなければなりません。

 私たちが合意した「不戦の誓い」の合意を両国で具体化し、政府間対話の再開に向けて雰囲気を整える必要があります。そして、東アジアに平和で安定的な地域ガバナンスを構築するため、私たちの取り組みは次のステージに入ろうとしているのです。
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