第1話 震災救助、医療の現場で何が問われたか
工藤:こんばんは。言論NPO代表の工藤泰志です。
さて、言論NPOでは3月11日の東日本大震災から「言論スタジオ」と題して様々な議論を行っています。今回は第4回目として、医療の問題を取り上げたいと思います。被災地で医療関係者はご苦労をされて、命を助ける救助がまさに行われましたが、現場で何が問われていたのかについて話をしてみたいと思います。
それでは早速、出演者を紹介したいと思います。まず、東京大学医科学研究所特任教授の上昌広さんです。よろしくお願いします。
上:よろしくお願いします。
工藤:そして参議院議員で、民主党副幹事長、内科医でもある梅村聡さんです。よろしくお願いします。
梅村:よろしくお願いします。
工藤:さて早速ですが、もう震災から2カ月が経ちましたが、震災直後は医療関係者を含めて、支援を含めて様々なドラマがあったと聞きましたが、どういう風な動きがあったのでしょうか。まず、梅村さんお願いします。
梅村:私は3月11日は、自分自身が交通手段を確保するのに精一杯でした。最初にSOSが来たのは、医療関係で言えば、水がほしいということと、電気が止まっていますので油がほしいということでした。これは医療だけには関わらず、本当に人間の根源的な要求でして、とにかくこれでバタバタしていて、個別で色々上がってきました。
翌日、当時は官房副長官ではありませんでしたが、仙谷さんに「直ぐに官邸に来てほしい」と言われました。「何をやるのですか」と聞いたら、「とにかく省庁の壁があるのだ」と。しかし、現場からは次々と要望が来るのだけど、厚生労働省はいいといっても、財務省はうんと言っていないので駄目だとか、まだ予算が付いてないので搬送できないとかいう状況があるかので、その壁を打ち破るために、省庁の壁を越えたチームを作ってほしいと言われました。そこには色んな要求がきました。
工藤:それは現地からですか。
梅村:現地からです。これはモノもそうですが、産婦人科の方がお産のセットを送付してほしいとか、それから薬ですね。薬が切れていると。これは救急だけではなく、例えば、常時飲まないといけないホルモンの薬とか、そういう個別の案件がどんどん来ました。
2、3日くらいから、あとで上先生の話でも出てくると思いますが、私は阪神大震災も経験しましたが、今回違ったのは、現地では医療ができないから、患者さんを外に出せ、ということが3日目くらいからのミッションでした。だから、最初の3日間位で要求というか、必要なことがめまぐるしく半日ごとくらいに変わっていきました。
上:私は震災当日、埼玉の行田市にいました。その日から翌朝にかけて、東京に戻ってくるので精一杯で、情報なども分かりませんでした。その時、ツイッターを使用して少し状況が分かりました。携帯でツイッターを見ていれば、現地の情報がパラパラ分かりましたが、何か想像を超える災害が起こっていると感じました。
2、3日目ぐらいは、正直、何が起こっているか分からない状況でした。医療分野でいうと、阪神大震災の教訓を糧につくられたDMATという救急医療のチームが、自動的に被災地に送りこまれます。そういう部隊が、現地で対応しているのだなと思いました。ただ私のところには、梅村さんとは違って、何が起こっているのかという具体的な話については、土曜や日曜には入ってきませんでした。平日ということもあったかもしれませんが、週が明けた月曜日くらいから、色々な状況、かなり悲惨な状況だという情報が入ってきて、また、非常に情報が混乱していて、人によって言うことが違うし、伝言、伝言で、伝わってくるので話が変わってくる。14日の月曜日くらいから、どうやら具体的なものが分かり始めましたね。その段階で私たち個人が考えたのは、被災地に直接ネットワークを持っている人、この情報がやはり重要なのですね。福島県出身者、宮城県出身者、岩手県出身者、あるいは向こうの友達と直接やり取りができる人。こういう方の情報を集めようと思いました。
震災後の医療のニーズは何だったか
工藤:それで情報を集めてみて、どういった状況か分かりましたか。
上:当日は混乱していました。あまりはっきりしたことは分かりませんでしたが、数日経ってくると、病院が機能していないことがはっきりしました。特に、命に関わるような疾患への治療が機能していない。これは大震災が起こって、私も初めて考えましたが、大量に患者さんがいて、やめると直ぐに命に関わるケースはそんなに多くはないのですよ。手術の最中に停電するというのは別ですよ。そういうのは誰が見ても分かるので運ぶのですが、生命維持に必須の治療というと、インシュリンの注射。これは止めると途端に命に関わります。他には、人工透析もそうです。こういうのは1週間止めれば命にかかわります。こういう患者さんが、大量に被災地にいることが3日目くらいにようやく分かりましたね。
工藤:薬が津波で流されてしまうとか、在庫が水浸しになるとか、そういう現実があったという話は私も聞きました。その結果、薬が足りないという形で情報が上がってきたわけでしょ。
梅村:そうです。それと薬が足りないだけではなく、例えば、インシュリンの針は輸入していますが、その輸入の検査をする検査場が福島県にありました。そうすると、インシュリンの針の流通が一気に減ってくるわけです。それを何とかしないといけなかった。普通に考えれば、別に福島県でなくとも別のところで検査すればいいように思いますよね。でも、厚生労働省の中では、福島県のこの検査場でなければならないという規則があったのです。そんな規則は止めて、直ぐによそでもできるようにしろ、という指示1つだけで、直ぐに流通が広がっていきました。また、甲状腺の薬は、工場が福島県にありました。福島県に材料もあって、作れなくなってしまった。どうするのかと。すぐに輸入の手続きをして1ヵ月後に解消しましたけど、だけど指示を直ぐに出すだけで、流れが変わるものはたくさんありました。
工藤:その指示は誰が出すのですか。
梅村:仙谷さんに呼ばれて言われたのは、実際、厚生労働省では、医政局指導課が指示を出していたのですが、話を色々聞けば個別に指示を出していました。薬の問題であれば薬剤師会に聞いたり、病院が駄目だとなれば病院協会に聞いたり、医師がいないとなれば医師会に電話をかけたりとか。自治体病院であれば総務省にかけたりしていました。そういうのは無くして、我々のところに情報を一元化しましょうと。ここに情報を一元化すれば、我々が厚生労働省なり総務省への司令塔になりますと。でも、兵隊は自分たちで出してくださいという組織をつくり、そこで仕分けをしました。これを3日目、4日目ぐらいから始めました。
工藤:それはどこにできたのですか。官邸ですか。
梅村:一応、仙谷さんの下にできたチームです。普段は色々な団体の方がそこに常駐していただいて、財務省や官邸を突破しないといけないときは、そこから上に情報をダイレクトに上げていく。そこまでいかないものは、チームから直接、省庁に指示を出す権限をもらいました。行政を動かすための権限をもらうのがすごく大事だったと思います。
工藤:なるほど。でも、先ほどのDMATがまず動くわけですね。それだけではなくて、一般のお医者さんも現地にどんどん入っていく、という流れだったのでしょうか。
梅村:結局、供給過剰になります。それから、指示を出す人がいなくなった。その点については、県に指示系統を一元化する。県で突破できなかったものは、東京のこっちに持ってきて下さいと決めました。反省する必要はないかもしれませんが、今回の反省点を挙げるとすれば、今回は支援をする医者が非常に供給過剰だったということです。自治体は役所が流されたりしているので、受け入れる力がありません。同じような状況は、ボランティアの受け入れということでもありました。今もそういう状況はあります。せっかく来ているボランティアを受け入れる力が無い。その点については、今後どうしていくのか検証していく必要があると思っています。
工藤:県はどういう風にするのですか。地域の中にある病院で、医者が足りないという場合に、県に情報が上がってくるのですか。
被災地の現場で医師たちはどう動いたか
梅村:そうですね。国がやっているDMATという組織があります。その後に、日本医師会がやっているJMATが組織されました。つまり、出している母体がバラバラなのです。ですから、医療関係者を含めて、県の本部にまずは参加してもらい、そこに色々な情報を集めてきて、その情報で動いてもらう。ただ、そこでカバーできるのは、大体8割ぐらいで、どうしても漏れてしまう部分が出てきます。その漏れた残りの2割については、国から見たら解決のしようがなかった。その2割の部分には、ツイッターとか上先生がつくられた「地震ネット」というメーリングリストで、支援が入り込んでいった、ということが、今回、非常に新しい試みですね。
工藤:DMATというのは、災害時に瓦礫に閉じ込められている人を救済するということですよね。今回は、津波で亡くなっている人が多くて、その中で救助される人もいらっしゃったのだと思いますが、あとは、お年寄りとかが慢性疾患で病気になっていた。DMATの動きと、現地のニーズはマッチしていたのでしょうか。
梅村:残念ながら今回は少しずれていました。例えば、300チーム現地に入ったときは、200チームくらいは、実際のDMATの働きをせずに、別の仕事をして帰ってきたところが多かった。
工藤:例えばなんですか。
梅村:例えば、高齢者のケアや避難所の医療行為とかです。阪神大震災の時には、建物の下敷きになっていたので、瓦礫を取り除けば当然患者さんがいるとか、あるいはクラッシュ症候群への対応など、DMATは非常に意味があったのですが、今回は津波の被害が大きくて、残念ながら亡くなっている人はもう既に亡くなっているし、助かっている人は、むしろそのあとの津波による肺炎とか、48時間を越えてきます。そういう意味で言えば、DMATにマッチしていなかった面が大きかった。
工藤:DMATは48時間で帰ってしまいますからね。
梅村:そうです。これは、阪神大震災と比べた一番の相違点ですね。
工藤:すると、被災地の中で、患者を助けないといけない場合は、被災地の地域の医者が機能しないといけない状況だったのですね。
梅村:一義的にはその通りです。
工藤:その点はどうだったのですか。
梅村:そこが結局、流されてしまいました。例えば、気仙沼の病院は看護師さん2人を残して、あとは全員いなくなった、という状況です。ですから、DMATは、いわゆる本来のDMATではなく、止血するという働きをしました。
工藤:すると、その地域で48時間以降も、きちんと医療行為が出来る支援の仕組みはどういうものがありますか。
梅村:今回は、そこに日赤とか済生会とかそれぞれの団体が独自に行きました。
工藤:コントロールしているのではなく、自発的に行った。
梅村:ええ。ただ、彼らは災害用のカルテも持っていました。今回、カルテも流されていますので、自分たちの災害用のカルテと診療所と薬部隊を持って行って、全部自己完結でできる団体は、役に立てた。
工藤:そのあたりはどうですか。地域での医療行為はどうなっていましたか。上さんも何かご存知ですか。
上:基本的には、現場ごとに違います。被災した直後は、DMATでも何でもいいのですが、現地に入るしかありません。しかし、起こっていることに柔軟に対応できるような人間や運用が重要でした。今回、先進国でこれだけの規模の津波や災害が起こったのは、実は史上初なのです。なので、結果的に誰にもわからなかった。今思えば、神戸の地震においては、海はつながっていて隣に大阪があるので、重症患者はどんどん大阪に運んでいたのです。そういう意味で見ると、神戸市民病院の先生が書いた手記には、透析患者は大阪に運んだと書いています。あの当時、我々はDMATの仕組みがうまくいったと思ったのですが、今回、現地に行った人はDMATでは限界があるということを感じました。病院も無いし、医者もいないからやりようがない。そういう中で、必要な人を後方に運ぼうとか、あるいは現地で診られるのであれば現地で診よう、という試行錯誤が行われました。多分、誰かが統制して、少なくとも現場を見ない人が指示をするのは無理だと思います。前線の人がそこで判断して、彼らをサポートする仕組みが必要でしょうね。
工藤:阪神淡路大震災の後に、災害医療に関してはDMATと、地域の中に災害拠点病院というのができたわけですよね。しかし、それが機能したか、という話は総括されていますか。
梅村:これからする必要があると思いますね。ただ、津波でやられたのは海岸線何キロですから、内陸はわりと早い時期に診療を開始しました。そういう意味で言えば、災害拠点病院は内陸では機能した。しかし、実際には海岸線が長いですから、今回は上先生がおっしゃったように、被災地で治療するのではなく、外へ出した方がいいというパターンが非常に多かった。それが今回の特徴だったと思います。特に福島などは、津波以外の要素がありましたので、そこは非常に難しい、実は今も混乱している真最中です。
工藤:それではここで休息に入ります。またあとで続けたいと思います。