第2話 「新しい公共」と強い市民社会
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参加者:小林陽太郎氏(元経済同友会代表幹事、言論NPOアドバイザー)
山本正氏(財団法人 日本国際交流センター理事長)
小倉和夫氏(独立行政法人 国際交流基金理事長)
司 会:工藤泰志(言論NPO代表)
工藤 鳩山首相の国会の演説では「新たな公共」という概念が打ち出されています。つまり、何でも政府にお任せするのではなくて、市民なり個人が、「公(おおやけ)」を自分たちで担っていくという社会であり、政府の役割は、政府として必要最低限のところにしっかり取り組むというものです。この考え方自体は私も共感していますし、市民を強くする言論、という私たちの問いかけも同じ考えの延長にあります。ただ、考えてみれば、自民党政権でもそういうことを言う人はいました。ただ、この設計を怠ってきたのも、また日本の政治だったわけです。
鳩山政権がこれまでの政権以上にこの「新たな公共」にこだわっている姿勢は評価できるのですが、まだ上からの抽象的な発想であり、そうした担い手をどう増やすのか,雇用の吸収をどうできるか、というレベルにとどまっていると感じてしまうのです。公助だけで公共サービスを賄うことはすでに限界がはっきりしています。それを共助や自助に軸足を移すならば、それにともなう様々な公共サービスの設計も変える必要がありますし、民の負担も避けられないという問題も当然出てきます。
しかも市民がこうした公というものに対して、どう気づいていくのか、そういう市民側の動きが、こうした「新たな公共」の動きの前提になる必要があります。そこまで日本の社会を本気で変えようと思っているのでしょうか。
小林 鳩山首相が「新しい公共」という言葉を使う際に何が新しいのかということを、きちんと自分なりに定義しておられるのかどうかということは私にもわかりません。ただ自民党政権の時代から、政治家だけではなく我々も含めて、「公」というものがあたかも官の独占物であるかのように思っていたけれども、実はそうではないのだということが言われていました。企業やNPOやNGOなどもその面については責任があるし、できることもたくさんあると。
先ほど、「効率を無視して、効果重視でどんどんモノをつくっている企業がうらやましい」という声があったと申し上げましたが、雇用の問題などもその公の議論のひとつであると思います。日本の企業が「雇用第一」と言っていたときに「それは政府がやることだ」と堂々と反論する人がいました。「なぜ民間企業が雇用の保障までやらなくてはならないのか」と。それは「公」は中央政府に任せろという発想だったわけですが、今改めて考えてみると、そういうルールについては、民間企業側にも当然責任があるだろうということで、新しい「公」―英語ではcommonという言葉になりますが―という感覚は一般にもかなり広がりつつあると思います。
その中で鳩山首相が、あるいは民主党が打ち出す新しい公共概念とは何なのかということは重要になってきますので、「友愛」ということと合わせて、もう少しきちんと定義していく必要があるでしょう。
工藤 この「新たな公共」は、そうした概念を市民側から提起できる社会こそが、日本の政治を本当に変える、のだと思います。そうした社会を実現するためには,何が大切なのでしょうか。
山本 馬鹿のひとつ覚えみたいですけれど、絶対的に必要なのは、NGO・NPOというかCivil Societyというか、市民が一緒になって公のことに取り組もうという社会です。個々人がみな参加しようと言っても、何か手立てがないとできないということもありますから、Civil Societyの役割は非常に明確だと思います。それも単なる趣味の集まりではなくて、彼らの中で、あるいは外と、喧々諤々の議論が行われないといけないと思います。ですから、Civil Societyはその触媒なのかもしれません。
政治への参加には、責任が伴う
小倉 私も山本さんのご意見には大賛成で、NPOやNGOなど市民団体的なものが増えてくることが、民主主義のインフラをつくるための重要なポイントだと思います。ただ、その前提として申し上げたいのは、政治への参画は責任を伴うということです。市民の参加は結構ですが、参加する以上は責任を持ってもらいたい。今「脱官僚」などいろいろなことが言われていて、それも大いに結構なことだと思いますが、何か起こるとすぐに「お上が悪い」ということになるのでは困る。たとえば人が川に落ちたときに、「ここは危ない」という看板を立てておかない区役所はおかしい、というのであれば、民主主義は成立しません。落ちた自分にも責任がある、そういう意識を持ってもらわないと。何かが起きたとき、なんでも役所が悪いということになれば、区役所なり何なりは物事を行う際に必要以上に慎重にならざるを得なくなってしまうわけです。これがある意味で官僚化を招いてしまう。
ですから、公に参画する人には必ず責任を持ってもらわなければ困るのです。批評家では困ると。そういう市民をどう育てるのかということです。山本さんがおっしゃったNPOやNGOなどは、それ自体として社会の役に立つと同時に、人材を育てるという役割も担っていると思います。責任ある個人を育てるという意味でも重要だと。そういうことに取り組んでもらわないと、いくら市民、市民と言ったところで、みんな評論家で、誰も責任を取らないようでは何も始らないと思いますね。
フランスなどを見ていますと、すぐにデモやストが発生して、高速道路を閉鎖するなど滅茶苦茶なことをやるわけですけれども、なぜ一般市民は怒らないか、と。これも私は不思議に思って聞いたのですが、要するにあれは市民のひとつの意思表示だというのです。それを認める代わりに、その結果に対して自分たちが責任を取る、ということです。私が今の日本を見ていて思うのは、参画することは結構だけれども、やるからには責任を持っていただきたいということです。
工藤 私たちは、それを「当事者性」と呼んでいます。評論家的に、テレビなどを観劇しているように好きなことだけ言うのではなくて、それを自分の問題として考えていかないといけないということです。
小林 おっしゃる通りだと思います。ひとつは、参画やその結果に対して責任を持つという時には、個人であるか、NGOというかたちであるかは別にして、基本的にはパブリックな政策形成の過程において、アドバイザーとか、外から発言を求められるのではなくて。かなり見えるかたちでポジションを得るということです。
例えば、会社で言えば、取締役会のメンバー、社外重役のうち、ひとりは必ずNPOから選ぶようにするとか。取締役になれば当然、法的な責任も問われるようになります。そういった公的なポジションをもっと積極的に求めていく、あるいは社会としてもそういった市民代表等にそのチャンスを与えていくことが重要だと思います。
外にいていろいろ発言をするというレベルの参画では、おそらく責任も取りようがない。そこは一歩も二歩も進める必要があると思いますね。経済界には結構、抵抗があるかもしれないけれども、一般論として見れば、社外重役制についての理解は少しずつ広がりつつある。政府においても、今事業仕分けなどが話題となっていて、仕分け人は「見当違いな発言をしている」と言われていますけれども、事前にいろいろ勉強をして、ご自分の責任でもってきちんと発言している方もいます。
山本 突拍子もない意見だと思われるかもしれませんが、やはり市民社会には、知的なものが絶対的に必要なのです。今までは「知的」と言うと馬鹿にされるようなところがあったように思いますが、民主主義の根本とは、やはり知的なダイナミクスがあるということなのではないかと。そういう視点で見てみると、日本ではそれが決定的に欠落しています。アメリカなどでは、多くの人が市民と一緒に活動しながら方向性をつくっていくということがありますが、日本ではいまだに、何かをつくろうとはせずに「偉い先生が何かを言ってくれるのを待っている」というNGOも多いわけです。ですから、私が日本のNGOの方に勧めるのは、外国のNGOなどと一緒に議論をしながらやっていってはどうかと。日本では、シンクタンク的なものもだめだし、知的なオルタナティブを出すという仕掛けがないのです。
行政との距離の置き方が、日本ではまだ未成熟
小林 小倉さんが大使を務めていらっしゃった韓国では、市民としての民主主義に対する参加のあり方とか、考え方はいかがですか。もちろん、韓国の民主主義形成のプロセスは日本とは異なると思いますけれども。
小倉 私が一番感じたのはやはり、労働組合の強さですね。労働運動というものがまだ非常に政治的で、その中に参加することで、政治意識や市民の意識というものがかなり育ってきているという印象です。それから、もうひとつは学生運動ですね。日本では、我々の学生時代には政治運動が盛んで、イエスかノーか自分の考えを主張することが求められましたが、今は学生がノンポリですからね、学生時代に政治に参画していくという機会がほとんどないように見えます。韓国では学生運動が依然かなり盛んで、それが政治へのつながりのひとつになっています。それから宗教団体も、日本に比べると非常に政治的です。そういった労働組合とか学生運動、宗教団体などが自ずと政治への登竜門のようなものになって、そこから市民の意識が生まれているのでは、という印象です。
山本 韓国などでは日本と比べて、個人としての主体性がより強いのではないですか。
小倉 よく個人主義だと言われますね。確かにみんな当たり前のように職場をポンポン変えますし、日本的な意味での集団に対する忠誠心というものとは、また違うものがあるように思えます。
工藤 アメリカではハーバードなどを出て、新卒でNGOやNPOに勤める人がかなりあると聞きました。
小林 新卒でそのような分野にすぐ行くかどうかは別として、一般的に見て、アメリカでは若いときから社会に参画をしていこうという意識は高いと思います。やや皮肉な見方をすれば、最近ではビジネス的なチャンスも限られてきてしまっていますし。
ただ一般論としては、日本の若い世代の中にも、パブリックなところで何か仕事をしていきたいと思っている人は多いのではないかと思います。企業から見て「頼りないな」と思われるような人が、実は結構悩みを持っていて、そういうパブリックなところに少しでも貢献できないかと思っている。一方で「そんな愚痴ばかり言っていて、まともな会社員になれるか」という思いが、会社側には依然としてあるわけです。新たな公共のあり方も含めて、会社に対して何か新しいあり方を求めている若い人たちにしてみれば、それは不満でしょうし、会社から見れば「彼らはうちの職場になじまない」と。そういうところにまだ、ある種のせめぎ合いのようなものがあるのかなという気がします。
小倉 私の経験で申し上げますと、良い市民団体はすぐに、行政に横取りされてしまうわけです。たとえば文化交流などで、地域に根差して一生懸命やっているところがあっても、ある程度のところまでいくと、行政が「これは良い」ということで、また、活動している側でも、「行政が横取りしてくれた段階で、自分たちの役割は果たした」と思っているようなところがあったりします。要するに、Civil Societyで活動する人々と、行政との間の距離感が鍵なのではないでしょうか。アメリカなどでは確かに、公共サービスの一翼を担いつつも、行政や権力機構との間で適度な距離を保っているように思いますが、日本を見ていると成功するところは行政と一体化してしまって、うまくいかないところは大喧嘩してしまう、という具合ですから、行政との距離の持ち方が、非常に未成熟であるように思います。市民の意識を育てるというときには、団体と行政の間の距離の置き方を、もう少しうまく保っていけるようなしくみが必要なのではないでしょうか。
山本 まさにそうだと思います。アメリカなどでは、行政とCivil Societyとが、同じ課題の解決に向けて切磋琢磨しながら共同で取り組むということは、極めて自然です。日本の場合は、市民の側が行政などに対して劣等感を持っているようなところがあって、途中でギブアップしてしまう、というのが典型的な話だと思うのです。だんだん疲れてきてしまったというときに、行政からコントロール、と言ってはなんですが、そうなりがちです。そういう意味では、流れは随分変わってきたと言いつつも、法律面では「Civil Societyにどれだけ免税措置を与えるか」という話になりますから、どうしても行政が上位にあるかのようにみな感じてしまっている。それを打破しなくてはいけないということで、私たちも必死でやってきたわけですが、一般的に言って、日本では非営利・非政府の立場を保ち続けることは極めて難しいと思います。
議論を尽くす「強さ」を持った民主主義を
工藤 昔、私が小林さんに教えていただいたことは、民主主義には2つのタイプがある、ということでした。ひとつは直接的だけれども広くて表面的で、一瞬にして劇場型になってしまうような民主主義。もうひとつは、時間はかかるけれども、議論の積み重ねによって政治が動くような民主主義です。言論NPOは後者を目指しているのですが、そういう議論の空間はかなり狭くなってきてしまっている気がします。テレビ社会においては特にそういう傾向があるのかもしれませんが、直接的なものが影響力を持ってしまい、パフォーマンスばかりが行われている。こういった状況から、民主主義の質を高めていくには、どうすればいいのでしょうか。
小林 これは、先の小倉さんからの効率性のお話にも結びつくのですが、スウェーデンの政治学者が「民主主義には透明性、スピード、そして強さという3つの側面がある」と言ったときに、その中の2つを私は特に強調していました。ひとつはスピード、もうひとつは議論を尽くすという強さの問題だというのです。本来、その両方が必要になりますけれども、最近の民主主義はスピード、「黒か白か」という議論に極端に傾き過ぎている。本当は黒か白かよりも、灰色という選択肢もあるでしょうし、その中にも濃い灰色、薄い灰色があるわけでしょう。しかし、そういうことは関心を持たせない。
極端に言えば、そういうことにとらわれるのは、弱さの象徴であり、「リーダーたるもの、決断は早く下さなければならない」という風潮が、経済やビジネスの世界にあるわけです。社会も全体として、テレビを代表的に黒か白かを選ぶ風潮に行っています。だから、政治だけが変わるというのもなかなか難しいとは思います。世の中の大部分は灰色なのだから、それでものを考えていくという方向にどうギアチェンジをしていくか、これは政治に限った問題ではないし、戦後60年をかけてそういう風潮がつくられてきたわけですから、急に元に戻れといってもなかなか難しいかもしれませんが、目に見えるところで、考えるということの大切さと、その結果の価値の大きさを、より多くの人に見せていくということが非常に必要だと思います。
海外を幅広く見ているわけではありませんが、私が比較的よく触れているアメリカでも、確かに極端なところはありますが、テレビだけをとってみても、考えさせる場、考える場というものがたくさんあります。ヨーロッパも同じではないかと思いますが。
教育現場を見ても全然違います。特に高等教育に進む直前から大学くらいまでの教育の中身を見ると、海外では人間的な力を備えるための高等教育というものが非常にはっきりしています。若干乱暴な言い方になりますが、日本の場合は下手をすると、かつての職業訓練所がそのまま大学になったような感じで、how toのところを一生懸命に教えています。しかしその基礎となる、物事を広く考えていくということについては、フォーマルな課程の中ではかなり軽視されてきたということなのではないでしょうか。
工藤 日本では何かがあるとオセロゲームのようにどちらか一方に急激に流れてしまって、きちんと発言する人も少なくなってしまいますし、それが非常に危ないなという気もしているのですが。
山本 お話を聞いていて私なりに感じたのですが、要するに日本ではanti-intellectual(反知性主義)という側面が非常に強い、ということではないのでしょうか。
工藤 全体的に見て今の日本は、言論もそうですが、知的なマーケットが弱体化しているように思います。大学も含めて全てが。
小林 戦後のある時期に、経済成長にプライオリティを置いたのは極めて正しい選択だったと思います。ただ、いつまでもそのままではいられませんから、どこかでギアチェンジをするタイミングがあったわけです。それについては経済界の責任が重かったと思います。 経済界は、大学に対して即戦力を求め続けてきました。実際には「大学の教育など当てにならない、人間教育は会社に入ってからやるものだ」と、よく考えてみるとかなりの驕りというか、そういう考えが多かった。本来は「基本的な人間としての教育は大学でやってもらいたいけれども、how to のところはわが社に入ってからやります」ということです。
ただ、本当ならば、職業のフレキシビリティも高まってきているので、「入社してくれた以上はうちで仕事をしてほしいけれども、うちを出たら全然通用しないというのでは困るから、少なくとも人間的な部分はどこに行っても通用するようなベースを、大学ではつくってほしい」と、そのくらい言ったっていいと思うのです。
工藤 つまり、政治は大きく変わったけれども、民主主義の基盤は脆弱だというのが今の日本の状況ですよね。そこをどう変えていくのかというところに、先ほどの市民社会の話がひとつの鍵になっている、ということですね。
小林 いずれにしろ今回の政権交代という経験は、日本の民主主義を、元の木阿弥にしないようにするための重要なきっかけだと思いますね。いろいろ戸惑いや試行錯誤を続けているのだろうとは思いますが、これを本格的な政権交代がある程度定着するような方向へ持っていくためにはどうすればいいのか、非常にチャレンジングな状況に今の日本はあると思います。
小倉 山本さんのお話についてですが、他に代わるものがない社会だから、そういうことになってしまうのだと思います。政治の分野で言えば、健全野党がいてAとBが常に対立・競争していれば、そこには知的な議論が生まれざるを得ない。そういう状況がなかったから、知的な議論がそもそも必要なかったということです。これからがまさに勝負でしょう。民主主義のためには野党に頑張ってもらわなければならない。ですから今の日本の最大の問題は、逆説的にいえば、民主党ではなくて自民党なのだと思います。野党が健全でなければ、いくら民主党が頑張っても、民主主義は育たない。
山本 そうなると、やはり大きいのはメディアの役割なのではないでしょうか。何でも面白おかしく書くか、権力を批判するかということで、知識人の不信の原因をつくっているのがメディアなのではないかと思います。そういう意味では知的な関与というか、絡み合いが非常に弱い気がして仕方がない。
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