石原信雄(前「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」座長)
いしはら・のぶお
1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87年から95年2月まで内閣官房副長官。96年財団法人地方自治研究機構理事長、2006年9月より同財団法人会長。2006年11月より2007年2月まで「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」座長を務める。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
第1話 なぜ首相官邸機能の強化が必要なのか
首相官邸機能の強化については、我が国の内閣制度の成り立ちから考える必要があります。戦後、旧憲法を廃止して新憲法をつくる際に、わが国は議院内閣制になりましたが、現在の日本国憲法が当時の総司令部の強い意向を受けてできたことは間違いありません。内閣制度は、明治憲法の頃は天皇が直接統治するという形態のもとで、その天皇の統治行為を補佐する役割であり、輔弼という言葉が使われていました。そこでは、総理大臣も各閣僚も、いずれも天皇から任命されるポストでしたから、総理大臣は内閣の代表のようなもので、内閣を束ねる権限は与えられておらず、大臣の任命権すらありませんでした。
そのことが戦前の国の政策決定の上で色々とマイナスに働いたという反省があったわけです。我が国が非常に無謀な戦争に突入してしまったのは、結局、内閣が十分機能しておらず、軍部の独走を押さえ切れなかったという反省があります。そのことがあって新憲法では総理大臣に閣僚の任免権を与えました。そこで、議院内閣制ということで、国会で多数の支持を得た総理大臣が天皇によって任命され、その総理大臣が閣僚を任命して内閣を組織するという形にした。ですから、総理大臣の立場は戦前よりもはるかに強力になりましたが、議院内閣制というものから来る制約が残ったわけです。
総理大臣と閣僚の力関係については色々な議論が当時からありました。議院内閣制のもとにおける行政権は、合議制である内閣に帰属するのであり、その主催者である総理大臣に帰属するものではないわけです。内閣は合議体であり、内閣法でも、行政権は主任の大臣が分担管理するということが明記されている。一種の分業体制で、主任の大臣は所管行政については決定権を持っており、総理大臣にはありません。
このような、各大臣がそれぞれの担当分野について責任を持って行政を行う体制は、世の中が全て前に進んでいるとき、つまり、経済が右肩上がりのようなときには、非常にうまくいきます。それぞれの役所が責任を持って一生懸命やっていけばいいわけです。
1970年頃までは、今の分担管理による内閣制度が比較的うまく機能していたと思います。各省の政策遂行の実質的な責任者は官僚で、官僚機構と内閣との関係がうまく機能していた。世の中全部が右肩上がりですから、一種の政策の競争でした。軍隊にたとえれば、攻めているときとには各部隊にそれぞれ責任を持たせて競わせればいいわけです。
ところが、80年代から90年代に日本経済全体の成長率がピークに達して、行政の面でも守りの時代に入ってきました。特にバブル崩壊後は、行政を縮小しなければならない。言うなれば撤退作戦をしなければならない分野が出てきました。そうなると、各省の分担管理は非常に難しくなります。それぞれの役所は、みんな前へ進むことは得意ですが、自分の権限を減らす、撤退するのは、みんな苦手です。そのようなときには、行政全体、政治全体をにらんでいる総理大臣が、この省は撤退しろということを言わなければならないし、言えるようにしなければなりません。
例えば海部内閣のときの日米構造協議や、細川内閣のときのウルグアイ・ラウンド交渉など、撤退作戦をしてもらわなければいけない分野が出てきたのですが、撤退を命じられた省は猛烈に反対します。そうなると、分担管理の、各省それぞれお任せではうまくいかない。国政全体の立場で、内閣がリーダーシップを持って引っ込むべきところは引っ込ませなければならない。そういう時代の変化が分担管理方式の見直しを求めてきたと思います。
我が国で本格的に大統領型の内閣を目指したいと言い出したのは中曽根さんでしたが、その1つのきっかけは三公社五現業の改革、その中心になったのは国鉄の分割民営化でした。当時の国鉄や運輸省からすれば青天の霹靂ですが、モータリゼーションの普及に伴って、交通体系を根本から変えなければいけない。それを当時の国鉄や運輸省に自らの力でやりなさいというのは無理があった。これは内閣が前へ出ないとできなかった。そこで、中曽根さんは、総理大臣のリーダーシップをもっと強くしたい、権限を強めたいという思いを非常に強く持たれた。
それが最も切実な要求になってきたのは、バブル崩壊後の橋本内閣以降です。バブル崩壊で日本の経済成長力が落ち、税収も減り、それまでの行政水準を維持できなくなった。どうしても歳出削減、行政の守備範囲の縮小をしなければならず、内閣が前面に出ていかなければならない。それが時代背景としてありました。そこで、議院内閣制のもとにおける内閣の、特に総理大臣官邸の指導力を強化することをねらった改革の1つが橋本行革でした。当時は省庁の再編成が大きな関心を呼びましたが、あのときの改革の一番の重点は、内閣機能の強化であり、その1つの成果が、経済財政諮問会議でした。