テレビ朝日のメールマガジン

2008年8月14日

 毎日暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
 北京オリンピックで連日熱い戦いが繰り広げられていますが、僕は一か月後に迫った「東京-北京フォーラム」の準備で、毎日汗をかいて飛び回っています。
 さて、先日、友人に頼まれてテレビ朝日のメルマガにこんな文を書いてみました。皆さんのご意見をお聞かせください。


「国民は抵抗勢力なのか」(テレビ朝日a-friends 報道ブーメラン 第442号に掲載)

 僕たちが、日本の政党のマニフェスト(政権公約)や政府の政策実行の評価を始めたのは、最初が2003年11月の小泉政権下での総選挙だから、もう5年にもなる。この間、4回の評価を公表してきたが、そのたびに評価はかなり厳しいものとなった。

 評価が厳しいのは、僕たちの評価がSMART基準(明確性、測定可能性、達成可能性、妥当性、期限明示)などの評価体系と基準にもとづく真面目な評価を行っているからで、逆から言えば、政党の公約がまだ国民との約束、あるいは契約と言える内容になっていないからに他ならない。


 マニフェスト運動を主導した北川正恭氏から、かつて「お前みたいに厳しいと誰もマニフェストを書けなくなってしまう。運動にならない」とからかわれたこともある。が、内容が伴わないものは国民との契約とはいえず、内容のひどさに目をつぶることは、どうしてもできなかった。

 ちなみに、マニフェストの評価と同時に公表した政府の約20の政策分野をまとめた評価は、小泉政権の第1回目の評価が60点、2回目が36.1点、3回目が44.1点。安倍政権が39.5点と、小泉政権の初期を除いて、いずれも50点にも至っていない。

 こうした作業には各分野の専門家も交え毎年、のべ100人近い人が参加する。最近、評価作業を行っているとこう疑問を呈されることが多くなった。

 先日も日本評価学会の政策評価の分科会でマニフェスト評価の講義をした際の質問で、いきなりガツン、ときた。「政党は約束を履行する意思もないのに、こんな作業、むなしくないですか」。こんな時には、いつも「有権者との政治の間に緊張感がなかったら、日本の政治はただのお任せ政治、そんな日本でいいのだろうか」と、言うことにしている。だが、内心はかなり複雑な思いが高まっている。おっしゃる通り、この数年、日本の政治は「約束に基づいた政治」にこだわっているように見えない。ただ選挙をどちらに有利に展開するか、つまり自分の生き残りだけが専らの関心に見える。

 選挙に基づかない政権が2つ続き、いまそのそれぞれで約束された課題は、例えば基礎年金への税金の負担の引き上げや、財政再建のプライマリーバランスの達成なども、反故にされかけている。これでは、何のための評価かと問われても反論のしようがない。でもこうした評価を通じて思うのはむしろ、今の日本は政治全体、いや政治家に対する不信感はかなり大きく、多くの人には日本の将来はどうなるのか、見えなくなっているのではないのか、ということだ。
 

 今年の6月後半、日本の政治は信頼できるか、というアンケートをメディアの新聞記者も含めた有識者200人に緊急に行ったことがある。驚いたのは、94%が日本の政治家が課題解決に責任を果たしておらず、また取り組んでもいない、と答えたことだ。政権交代に期待はあるが、民主党の政策を支持する人はわずかに過ぎない。思い出せば、この十数年、政治改革の動きは、2大政党制と政治主導の仕組みを作り出すことが目的だった。小選挙区が導入され、また公務員制度の改革も始まった。

 だが、政権交代がいよいよ目前になったのに、政党間で日本の将来に向けた課題解決で競争が始まったわけでもない。国会では党首討論を避ける党首があり、選挙目当ての足の引っ張り合いとサービスの競い合いが繰り返されている。日本の未来に向けて負担を国民に提案できる覚悟もない。つまり、今だけにしか視野が届かず、未来を語れない政治の姿が、今の日本にある。

 では、何が間違ったのか。様々な理由があるが、僕がここで敢えて問いたいのは、そうした政治を選んだ僕たち民側の問題である。当然、メディアの問題でもある。先の有識者アンケート調査の後の大手新聞の現役の編集幹部らと座談会を行ったが、その議論の際に胸に引っかかった発言があった。「こんなに政治不信があるのに、なぜ韓国のように国民は怒らないのか。韓国ではメディアも襲撃された」。未来が見えないのに、怒れない民とは何なのか。そこにもう一方の日本の問題がある。

 かつて日本の政治はポピュリズムだ、と言われた。この国では政治は仮想敵を作って、それを叩くことで国民の人気を煽る傾向がある。小泉さんは官僚と族議員を主体とする抵抗派という仮想敵を作った。でも、官僚を叩けば溜飲を下げられる時代から、今は政策自体が問われる時代、政策のポピュリズムに進化した段階なのである。その進化に乗り遅れているのが、テレビメディアだと思う。

 道路特定財源の一般財源化の時にテレビを見て違和感を覚えたのは、「ガソリン代を下げろ」の大合唱がテレビの場面で繰り広げられたことだ。国民が自分の財布を意識して税の使い方を考え始めたのはかなりの進化である。それがただ、「ガソリンを下げろ、道路は無料で計画通りに作れ」で終わっては、国民自体が抵抗派と言われてもやむを得まい。

 実は道路財源の一般財源化と言いながら、揮発油税のある部分は臨時交付金で始めから地方の道路建設のために間引きされている。ガソリン税の負担を下げろと言うのであれば、本来は道路網の整備の見直しこそがこのアジェンダなのである。

 国民の財布を揺るがす負担とサービスの水準への決断は、高齢化が急速に進む日本の未来では今後も様々な局面で問われるだろう。にもかかわらず、未だに敵を作ることでしか、議論を作れないとしたら、メディアもその存在理由を問われるだろう。

 
 日本の政治が未来を語れず、マニフェストの約束にこだわらないのは、政治や政策に真正面から向かい合えない民間側の弱さも背景にある。民(たみ)は政治を変える改革派なのか、それとも抵抗派となるのか、それこそ、問題なのである。