阪神大震災と比べ なぜかくも政府の対応が遅れるのか
震災から2ヵ月がたったにもかかわらず、被災地では依然、20万人近い人が実質的な避難生活を余儀なくされている。
政府の取り組みの遅れは、阪神淡路の震災時と比較すると分かりやすい。被害の規模や広がりは異なるが、被災地の「命の救済」という点で、政府に求められる時間は同じなはずだからだ。
政府は被災地の出口として、瓦礫処理や仮設住宅でも8月目処の達成を明らかにしたが、それがそのまま実現するとは現段階では判断できない。
例えば、瓦礫の処理では阪神淡路では2ヵ月時点で約80%が処理されたが、今回はその規模は2倍程度とされており、阪神淡路のときのような埋め立て地もない。このため5月2日時点で岩手が16%、宮城が2%、福島は4%に過ぎない、という。
また仮設住宅も、阪神淡路では2ヵ月後に3分の2は完成していたが、今回は目標の11%程度しか現段階で完成していない。
復興に向けた取り組みも、阪神淡路の際には復興の関連法案が2ヵ月の時点で16本成立しており、プランに基づいて実行する仕組みが具体的に起動している。今回は復旧を主体とした補正予算は成立し、復興構想会議での議論が始まった。
が、それを受けて実行する仕組みが未だ出来ておらず、いまだ復興に向けた動きは議論の段階で事実上停止している。5月13日、国会にようやく提案された復興法案では、実行機関の「復興院」は1年以内に検討、とされている。
先日、石原信雄元官房副長官ら3氏による緊急の公開座談会を行ったが、こうした震災対応の遅れに対して、3氏は口を揃えて「原発の処理に追われたのは分かるが、政治家のパフォーマンスが目立ち方針も決定できず、官僚を使いこなせていない。政府全体の動きになっていない」と、手厳しかった。
被災地では避難の長期化から関連死の増加が続いている。原発処理の先行き不安から人生再建の目処が付かない人も多い。対応の遅れは直接国民の命に関わる問題なのである。
米国の9.11ではブッシュ大統領はテロ攻撃という危機に際して、その解決に強い意志を示すことで、与野党の合意と国民の高い支持を得て、国土安全省まで創設している。政治のトップは最悪の事態を想定し、その解決に責任を果たし、その決意を国民と共有する必要がある。これは人的災害や自然災害でも、危機下では同じはずである。
民主主義が揺らいでいる
その不安感はどこから来ているか
では、日本ではこの2ヵ月あまり、そうした政治の責任あるリーダーシップがあったのか。
政治は一致してこの危機に向かうどころか、民主党は事実上分裂しており、野党の協力も取り付けられない。政権に対する支持は各種世論調査でもそう上がらず、むしろ政権の維持自体が危うくなっている。
なぜ、日本の政治は機能しないのか。今こそ私たちも政治を、自分の問題として考える時期なのではないか。
「日本の民主主義は揺らいでいるのではないか」。今年の初めから、私はこんな議論を言論NPOのウエッブサイトなどで行っている。
なぜ、今民主主義を問うべきなのか。本来、民主主義では、政治は有権者の代表として機能しなくてはならない。だが、政治が今なお行っているのは、選挙に有利かどうかの権力基盤を維持するだけの争いであり、この国の未来を競うものではない。この状況をどうやって変え、日本の政治に新しい変化を起こせるか。
その答えは、もはや政治家にではなく、自分らの代表を選ぶ私たち市民側にある、のではないか、というのが、私の問題意識である。そのためにも、民主主義という問題の基本に立ち戻って考えよう、と思ったのである。口火を切っていただいたのは、元東大総長の佐々木毅学習院大学教授である。
工藤 民主主義というのは人間が本来持っている基本的人権とか平等とかそれに適合する政治の仕組みとして位置付いた。ただそれを機能させるためには様々な知恵が必要で、みんなの意見をそのままの形ではなく「代表」という形で機能させることにした。つまり代表制が機能して結果も出さないとならない。
佐々木 みんなの意見に耳を傾けるべきだと。ただ実際にはそれを絞り込んでいくわけで、代表者を通して政治を行うという代表制民主主義のスタイルが導入されることになる。大統領制や議会制というのはその一つの枠組みとして生み出された。
問題はそういう民主主義を担う国民と、国民に向かい合う政治家集団との間で、この向かい合いがうまくいくのか行かないのか、という点に焦点が絞られてきて、それが民主主義が揺らいでいる、という不安感になっている、日本の場合は政治家や政党自体の機能にも疑問が出され、工藤さんのような問題意識に繋がっている。
工藤 民主主義が機能するということは、社会が直面する様々な課題に成果を出すこと。それができないとすると民主主義のどこに問題があるか、考えなくてはならない。
佐々木 やはり結果を出せないで内閣だけがぐるぐる代わる。これは政治家のための政治。政治家のための政治ゲームとしての民主主義になってしまうと、長期的な視点に基づく施策で結果を出すことは脇の方に追いやられてしまう。
工藤 まさに今の日本がそういう状況。有権者には何が問われるのでしょうか。
佐々木 やはり政治は「未来」から目を背けてはいけない。未来と今の現実から目を背けないということを国民はしっかり見ているのだぞ、ということが強く伝わるような世論を望みたい。
意識は政権交代への期待から
国家危機の段階へと変化
私がこの国の政治の先行きに危機感を覚えたのは、昨年12月末に菅政権の100日時点で行った有識者アンケート結果からである。アンケートには500人が回答したが、今の日本の政治の現状に関して、43.7%もの有識者が、「政治の統治が崩れ、政治が財政破綻や社会保障で課題解決をできないまま混迷を深める国家危機の段階」と回答したのである。
「国家危機」という表現はそう簡単に言える話ではない。だが、こうした認識はこの1年で様変わりしたものだ。このアンケートは毎年行っているが、前年で最も多かったのは、「これまでの政治を一度壊し、新しい国や政府、社会のあり方を模索する時」の40.7%だった。
多くの有識者は政権交代に変化を期待したが、それが失望に代わっていく。その大きな理由は、民主党のマニフェストの実行が崩れ、その統治能力に疑問を感じたからだ。佐々木氏が言う「民主主義に向かい合う国民」と、「国民に向かい合う政治集団、つまり政党」との距離が大きく広がったのは、この頃からだと私は思う。
言論NPOが、政党のマニフェスト(政権公約)や政府の政策の実行の評価を定期的に開始したのは、8年前からである。有権者が自ら政治や政策を判断する。そのための一つの判断材料を提供したい、という思いで30人に近い専門家がこの作業に参加している。
マニフェストとは、選挙の際に政党が国民に提起する約束だが、日本の政治に導入された意味は、国民との約束を軸とした政治を実現するためである。その意味では約束を通じて、国民と政党が繋がることが目的となる。
しかし、評価の際に悩むのは、約束を軸とした政治がなかなか形成されないことだ。そうした政治に最も積極的だったのは、野党時代の民主党だったが、政権を獲った民主党のマニフェストは、今では意味を見いだすのが難しいほど形骸化している。
民主党のマニフェストの評価については、別の機会に譲るが、民主党政権下で政治と国民との距離が広がった理由は、政権交代を果たした際の一昨年の総選挙のマニフェストが、全面的な修正に追い込まれているにもかかわらず、その修正を国民に説明できず、修正をごまかし続けていることが大きい。
私たちの評価では、マニフェスト修正自体を否定していない。ただし、その修正が国民に説明され、新しい約束を設定しない限り、国民との関係は大きく崩れてしまう。
マニフェストで大事なのは、政治はこの国が直面する課題から逃げるわけにはいかない、ということである。超高齢化と人口減少という新しいパラダイムに合わせて、社会保障などの様々な仕組みを組み直すこと、新しい成長を生み出せる経済体質を作り出すこと、そして財政破綻を避けること。この3つがこれまでの政権に問われた課題だが、そのいずれにもまだ日本の政治は答えを出していない。
これらの解決には、国民の負担やサービスのカットが問われる。そのため、民主党のマニフェストでも、この点が明確には触れられない。それどころか、財源が曖昧なままのバラ撒きリストに過ぎず、課題解決を国民に問うよりも、選挙に有利かどうかだけの配慮が優先された。また、こうした政策立案は少数の政治家の間で行われ、党のガバナンスが機能したわけでもない。
さらに言えば政治主導で課題解決を行う力もなく、政治家が官僚の仕事を奪う形で混乱を招いた。
政治主導の柱と位置づけた
国家戦略局を断念
今回の震災復興では、学者などを主体とした復興構想会議の議論が始まったが、同じような会議が官邸に乱立し、個人的なつながりでの参与を多数登用した。同じことが政権では何度も繰り返された。政治家主導では政策決定が機能しないのである。象徴的だったのは、5月11日に政治主導法案を取り下げて、政治主導の柱と位置づけた国家戦略局を断念したことである。ある関係者の見方はかなり厳しい。
「昨年の参議院選の直後にすでに国家戦略室は、戦略の立案の調整はもういいからアドバイスをしてほしいと、みんなが首相に言われている。率直言えば、責任をもって課題を解決する政治家なんていない。それよりも未だに政権維持だけのパフォーマンスに明け暮れている」
菅政権はその後、財政再建などの差し迫った課題に強引に戻されるように舵を切る。財政再建に向けた取り組みやTPP交渉参加の検討や、社会保障と税の一体改革での消費税の増税の問題である。
が、これらも5月17日には、TPPの交渉参加が見送られ、民主党がかねてから主張していた最低保障年金でも増税を想定しなければ、それが適用される所得制限がかなり厳しいことが明らかになり、それを国民に説明できないため、モデルの年金受給者を個人から世帯に変えるなどの操作を行っている。
国民にはそれがマニフェスト修正かどうかは明らかにされない。マニフェスト修正はこれから秋にかけて検討する、という分かりにくい説明が行われたのみである。
いま行われていることが
国民に向かい合う政治なのか
問題は、こうした政治が国民に向かい合う政治なのか、ということである。
こうした政治は、今回の震災の対応でも見え隠れしている。被災地では復興の議論を優先する中央の動きと、意識の差が大きくなっている。多くの人はこれからの人生再建に不安を募らせているからだ。
原発被災で放射能の汚染の予測を国民に明らかにせず、被災地の住民の被爆の状況の検査もしない。海水への放射性物質の放出に際しては、周辺国への影響も調べて公表するなどもしない。私たちに問われているのはこうした政治を、どう変えていくかである。
はっきりしているのは、政治に安易に期待したり、お任せするような状況では、もう直面する課題にこの国の政治は答えを出せない、ということである。むしろ市民こそが、課題に挑み、政治にその解決を迫って行くべきである。それなしにはこの国の政治は変わるまい。
今回の震災は、多くの課題をこの国の政治に突きつけている。被災地の救済と復興、原発政策の見直しや、省エネルギー下での成長戦略の全面見直し。菅政権がここで国民との距離を縮め、合意に基づく政治を復権させるつもりならば、自らが考える復興対策で国民に信を問うべきである。