2002/10/27 毎日新聞
「言論NPO」というNPOを立ち上げてから、1年が経とうとしている。私が、議論を個人の参加によるNPOで行おうと考えたのは、多くのメディアの議論が、傍観者的な批判のための議論に終始していると思えたからだ。それまでメディアの一員だった私自身の反省でもあるが、当事者意識を持った、建設的な議論の舞台が、必要と考えた。それを大半はボランティアの小さなNPOで挑戦しようと思ったのである。
この1年間、私たちの議論形式は試行錯誤の連続だった。ちょうど、小泉政権の誕生後に発足した私たちは、この改革を1人の政治家に任せるのではなく自らの問題として向かい合おうと呼びかけた。経済の本格的な手術を行うためには、それを進める政治の強力なリーダーシップは当然必要だが、この閉塞状況を打ち破るには、どうしても我々の覚悟とミクロの挑戦が不可欠だからだ。
日私たちは、会員参加型のインターネットと雑誌を組み合わせ、可能な限り関係者にヒアリングを重ね、対立点や見解を公表し、それに基づいて論点が建設的に積みあがるように議論を行ってきた。論点はこの1年間、経済対策の問題から政治と官僚、企業の経営ガバナンスの問題と進み、政策当事者も含めて多くの方に参加していただいた。だが、痛感したのは発言者が限られ,なかなか議論の輪が広がらないことだ。
議論がより活発にならないのは議論の判断材料を十分に提供できず、発言者を開拓できない、我々の努力不足もある。だが、依然、多くの人は評論家的にしか、今の事態を捉えていないからではないか、と私には思える。当事者意識を持つということは、政府の政策に評論家のように感想を言い合うことではない。いわばリスクを負わない観劇が今なお、続いているのである。こうした論調は痛みが始まれば、政府を批判し、政治の舞台での対立だけを面白おかしく論じる。それを加速させているのが、一部メディアの姿勢だと思う。
こうした議論が成り立つのは、メディア関係者もそれを楽しむ人たちも本質的には困っていないからに違いない。日本は他国と比べても表向きは豊かであり、無責任に将来の世代につけを飛ばせば少しはしのげる。しかし、そうした豊かさを支えてきた経済が壊れ、新しいシステム転換と負の遺産の調整が避けられないのに、それが表立って見えないのは、ゼロ金利やペイオフの延期など、国民の実質負担で経済が保護されていることを忘れてはならない。
問題はそうした統制経済の維持は困難なだけではなく、深刻な歪みをもたらしていることだ。経済の中核をなすマーケットは死滅寸前に縮小し、リスク回避が定着している。我々の運動に参加するある経済人は「敗者と弱者は違う」というが、その全てを救済する仕組みは全般的なモラルハザードをもたらし、挑戦意欲自体を失わせてきたのである。
私は安易なマクロ依存、政府頼みの発想は捨てるべきだと思っている。デフレ下での構造改革の痛みは大きく、それに向かってマクロ政策の協調や弱者の保護は必要だが、患者が病気を自ら治そうと覚悟を固めない限り、病気は治らないからだ。
この一年間、私はさまざまなNPOや企業の設立を苦労しながら行ってきた人たちを数多く見てきた。リスクを取ろうとする民間側の動きはすでに始まっているのである。マスコミには危機を煽るだけではなく、そうした挑戦を適正に評価し、出口に向かっての判断材料を提供する義務があると私には思える。
小泉内閣は軸足を揃え、不良債権処理とその裏側にある企業の再生に向け、手術を断行することを決めた。マスコミの一部の論調はかなり批判的だが、今の日本にはこの方向しか残されていないのである。
恐らく経済の建て直しはそう簡単に終わるわけではない。むしろ、今回の手術は日本の将来選択につながる一連の改革の始まりだと考える。これからの議論が日本の将来を決定づけるとしたら、決して批判のみの傍観者ではいられないはずである。
2002/10/27 毎日新聞