小林陽太郎氏のご逝去の報に接して

2015年9月07日

言論NPO代表 工藤泰志


小林陽太郎さんの訃報を先ほど耳にし、信じられない思いです。
闘病されていたことは知っていたのですが、私にとってはあまりにも大事な恩人で有り、心に整理が付いていません。
私は14年前に言論NPOを設立しましたが、小林さんがいなければここまで活動を続けることは不可能だったと、思います。私と言論NPOにとって、小林さんはまさに創設者であり恩人だったのです。
14年前の出会いの日のことは今でもよく覚えています。
会社を辞めて非営利で言論を行うことの覚悟を固めていた私に、ある知人が小林さんをご紹介してくれたのです。
初めての面会は、とても緊張感あるものでした。支援をお願いする私の説明にも容赦がありませんでした。「言論の役割とは何か」「クオリティのある言論とはどのようなものか」。小林さんからの畳みかけるような質問に対し、私は十分に答えられず、激しい議論の応答になりました。
ふと、これは難しいな、と自分を情けなく思いかけたその瞬間に、小林さんは笑顔でこう語りかけてくれたのです。
「私も言論NPOの仲間に入れてくれないか」。予期しない言葉でした。今だから言えますが、涙が止まりませんでした。
私の言論NPOの挑戦は、まさにそのときに始まったのです。

「日本の言論をさらに活発にし、日本が未来のために動き出す環境を作りたい」という志のもとで活動を始めた私にとって、小林さんは最大の理解者でした。
設立当初、私は資金がなく、紙袋を手に喫茶店を転々としながら活動の準備をしていました。そんな私を見て、小林さんは「そんなことで日本を変えられるか」と、無償で事務所を3年間貸してくださいました。
小林さんは当時、経済同友会の代表幹事をしていましたが、私が、言論という非常に難しい分野で非営利の動きを開始したことを、自分のことのように喜んでくださいました。
そして、アドバイザリーボードの一員として、言論NPOの活動を直接支えていただきました。

150908_kobayashi01.jpg2005年、日中関係が困難な局面に陥った時、私は中国との民間対話に乗り出しました。
当時、小林さんは、政府が主導した有識者の対話である新日中21世紀友好委員会の日本側座長を務めていました。しかし、小林さんは多忙にもかかわらず、私たちの対話の日本側の実行委員長にも就任してくださいました。
小林さんの国際舞台での発言は、毎回、原稿もなくほとんどアドリブでしたが、きわめて論理的、かつ国際的な視座に基づいたもので、私にとっては生きた教材となるものでした。
彼のような、まさに代表的な国際人が日本の社会に存在し、しかも私たちの活動を中核となって支えてくださったことに、私は誇りを持つと同時に、光栄な気持ちで一杯でした。
残念ながら、その後、日本の国際的な発言力は低下し、世界の中ではジャパン・パッシングとまで言われるようになり、国際的な論壇で活躍する人も限られるようになりました。
そんな折でも小林さんは国際人として世界を回っていました。そして、多くの国際的な事業に取り組んでいました。
4年前、米国の外交問題評議会が設立した世界23カ国のトップシンクタンクの会議(COC)に私が日本側から唯一選出されたときには、「言論NPOの活動は苦しかったが、それが世界に評価されたことは誇りに思っていい」と、小林さんは自分のことのように喜んでくださいました。
その後も小林さんには、時間を見つけては報告に伺いました。
体調が悪くなり、かなり痩せられても、小林さんはいつも笑顔で私の話に真剣に耳を傾け、アドバイスしてくれました。
最後に小林さんの意見を伺ったのは昨年2月18日の言論NPOのアドバイザリーボードの会議の時でした。私が進める「民間外交」が外交に果たす役割を話し合ったときのことです。
私は、「民間外交は政府を補完してはいるが、外交はあくまで政府が行うものだと考えている」と、いくぶん自嘲気味に話しました。そのとき、小林さんは間髪入れず、「本当にそうなのだろうか」と疑問を呈してきました。
「民間外交は、ある局面では政府ができないことを実現し、政府より先んじて課題解決に取り組み、世論を喚起する役割がある、そういう思いで、工藤さんは取り組んでいるはずだ」。
気兼ねして腰が据わっていない、私の曖昧さを見透かされた、思いでした。小林さんの意見はつねに論理的で本質的な論点を突いてきます。私も小林さんの前にいるときは、いつも真剣でした。
小林さんは当時も体調が悪かったのですが、会議に出るとそれを微塵も見せず、絶えず本気でした。視野も広く、優しく、スケールの大きいリーダーでした。
そういう小林さんがいたからこそ、私は様々な挑戦に取り組めたのだと思います。

150908_kobayashi02.jpg今年、言論NPOは設立14年を迎えました。「日本の民主主義を立て直す」、そして「国際社会に日本の主張を発信する」という、私たちが初期に問うた二つの大きなミッションに、新しい挑戦を始めています。
もちろん、私たちはまだまだ力不足ですが、つい最近、ようやく本格的な勝負をかける体制が整いました。先月にかけ、新しい「4つの言論」に取り組む準備を始め、ウェブサイトを刷新し、新しいスタジオを開設したばかりです。
今月29日には、その新しいスタジオで初めてのアドバイザリーボード会議が開かれます。
小林さんにも来てほしいと連絡を取ってきましたが、返信はなく今日の訃報となりました。新しい舞台を見せられなかったことが唯一の心残りですが、小林さんはきっと「ここまでよく来たな」と言ってくださる、と思います。
小林さんは、私たちにとってなくてはならない恩師でした。これから私は、彼に教わったことを財産とし、言論NPOが小林さんと共に議論し、掲げたミッションを達成するため、平和なアジアと国際社会での課題解決、この国の未来に向けて、退路を断って取り組んでいきます。
最後になりましたが、小林さんのご冥福を心よりお祈り申し上げ、追悼の言葉とさせていただきます。