中央集権の無責任体質
北川 都市再生の問題でも、最近は中央から見て判断するという議論が多過ぎるのではないかと思います。
片山 ええ。最近の国土政策、都市再生もそうですが、全体を見る視野がなくなっていると思いますね。このごろ、東京にビルがいっぱい建っているでしょう。汐留とか、江東区の工場が撤退した跡地など、不良債権処理で土地が出てくると、ビル業者、マンション業者が開発する。数年後、東京は大量の貸ビルスペースができ、そうすると賃料が下がって、さらにどんどん集中すると思うんです。国土のあり方としてそれで本当にいいのかどうか。
工藤 マンションのミニ・バブルがまた起きただけです。
片山 国土政策がそれを目指しているならいいのですが、このまま放っておくと、首都がすごく脆弱になると思うんですよ。われわれにとっても重要な首都ですから、きちっと自立する首都であってもらいたいのですが、本当に乱開発ですよね。汐留というのは、人があそこに住まない、集わないことを前提にしているはずで、その上で新橋とか周辺の都市計画が立てられている。それがある日突然、あそこが大都市になって、大丈夫なのかどうか。江東区など、今、小学校が足りないというので、マンションの開発を禁止したり、トラブルが起きている。そういうことを本当は国土交通省なんかが考えなきゃいけないのに、結局、規制緩和でその土地を有効に使うにはどうするかという、非常に小さな視点から今の政策が行われている。その結果は、乱開発とバブルですよ。
増田 土地利用を収益還元的に考えることが、ずっと続いているんですよね。まもなく建て替えの時に出る建設廃材はどうするかなどということが大問題になるでしょうが、そういう負の部分は都市再生の中でほとんど議論されていません。新しいものをどうするか、そのところだけを議論している。
工藤 そういった議論を内閣府の幹部としたことがあるのですが、今の国の経済政策のプライオリティーは都市再生ではなく、経済の立て直しなわけです。一番は経済再生であって、ここまで経済がへたっていると、何でも特区をやって、そこで容積率も上げてという形をつくらないと駄目だというところにまで追い詰められている。以前なら、中曽根民活時には都市計画をどうするかなど、激しい議論がありましたが、今は全くない。それほど日本政府は、経済で追い詰められています。
林 しかも自分の世代だけ見ていますね。次の世代はもっと困るわけです。
工藤 国のグランドビジョン、それから地方分権――今後の日本をどういったイメージでとらえたらいいのでしょうか。
北川 地域の特性に応じたことを地域が決定して、責任を持つということにしない限り、今のままの中央集権ではみんな無責任体質です。まずマネジメント部門から分権にすべきで、権限と責任を明確にし、情報公開をしなくてはなりません。透明な組織で透明な運営ができるようにする。そうすると、その町をどう考えるか、住民の参画意識を生み、投票率が上がる。自分の収めた負担に対してどれだけの受益があったか、それをわかりやすくするために、権限をできるだけ基礎的自治体へ持っていく。そういう仕組みから考えていかないと駄目で、経済効率だけとか現世代だけの視点で見てはいけない。
増田 何をするにしても、負担を自らはっきりと認識できるような形にしないと駄目だと思う。その時に他者に全部決められているのでは、いつまでたっても「自立」も「自律」もできない。そういう意味では基礎的自治体を非常に大事にしたいし、それは今の日本で言うと市町村であり、場合によっては県であるかもしれません。とにかく負担とか自立が意識できるようなまとまり、単位で地方をつくっていくことが大事ではないでしょうか。
私は地方の自立を考えている知事であればあるほど、高速道路の問題に反対してこだわると思います。あまりそういうことを考えずに、「国が決めた範囲でそこそこやっていこう」というような知事は、高速道路があったらいいなと言いながらも、こんなものかと思って、あきらめてしまうのではないでしょうかね。
木村 本当にその通りだと思います。本気で自分のところを良くしようと思っていたら、何がインディスペンサブルか、一番よくわかるんです。それに、「公共事業」という言葉はやめたほうがいいと思う。その言葉の中に、物をつくることだけを自己目的化するような響きがあるんですよ。本当は公共事業だって地域づくりにすごく役に立つわけです。例えば公共事業の中に間伐材を使うとか、このあいだ岩手へ行って見せてもらいましたが、小学校を県産材で建てるとか、そういったことは公共事業というよりも地域活性化であり、高齢者対策でもあり、全てなんですよね。
事業官庁などという考え方も変えたらいいと思うんです。人間が生きていくために何が必要か、ということの中でいろいろやっているわけだから、こっちは事業官庁だ、あっちは物を考える官庁で、向こうは福祉をやる官庁だという発想自体、1つの仕分けではあるけれども、やはりおかしい。農林水産省のやる土木と、国土交通省のやる土木を一緒に考えたらどうかという程度にとどまるんじゃなくて、もっと大きく、公共事業という考え方の枠を外していかないと、いろいろなことの柔軟性が出てこないように思う。
北川 雇用の問題での地方自治体の反省ですが、地方事務官制度というのがあって、それにまるっきり任せて地域で雇用政策をしてこなかったんです。でも現在、高等学校への求人がすごく悪くなっていて、これなどはまさに地域政策ですから、地方自治体として敢然と取り組んでいかなければならない。
ところが、今までは農業土木とかハードをつくることが地方自治体の仕事だと思われていたから、そういうことを言うと余計な仕事になってしまうわけです。そういうことを本当にやっていこうとするならば、われわれが自立するということをまず持たなければいけない。町の構成はどうするか、人口構成はどうするかという地域政策も生まれてこなければなりませんから、木村知事がおっしゃったように産業別の省庁というのは、既に終わっている、古い考え方だと思う。だから、地方分権による自立、自己決定して自己責任をとる、ということにならなければという議論になる。320万人の地方公務員、この人たちが国の下請け機関として、唯々諾々としていること自体が問題なんですよ。
政府の治癒と地方の自立
工藤 地方分権を考える時に、そのイメージを皆さんはどのように考えているのでしょうか。
増田 「地方」のとらえ方はいろいろありますが、私は、例えば東北なら東北のブロック単位の話として、とらえています。国の地方支部の予算編成は何から何まで全く縦割りなので、むしろ害悪が大きいし、まずはそういうことをなくして各県がブロック単位でまとまったほうがいいのではないか。その時に、中央省庁の職員がブロック単位で牛耳るとか、いろいろな動きがあれば全部排して、身分も全部地方に移していく。私は今、財源と一緒に、県の職員を市町村にどんどん出していますけれども、そういうことを国が地方に対してやるべきでしょうね。
片山 私は、今の政府、中央省庁の持っている病理現象というものを治癒するのが本筋だと思う。地方分権は進めなくてはいけないけれども、進められないものもあります。例えば国防とか外交とか、民営化すらできないし、そういうのは相変わらず国に残るわけです。本当は政府がきちんと自立する、それだけの健全な政治のリーダーシップが必要だと思う。そこが欠けているんですね。
今、何が問題かというと、縦割りの中で自給自足的な人事をやっていることです。そうすると天下り先も全部、自腹で確保しなきゃいけない。だから権限は手放さない、補助金を持って影響力を行使する。ここが全ての諸悪の根源なんですね。国民のためよりも、自分たちの人事がうまく回るように天下り先を確保する。BSE(狂牛病)の問題だって、消費者や生産者のことよりも、天下り先の業界団体のことを考えるから、あんなことになる。そこを変えて、政府をきちんと自浄作用を持つものにする。その上で地方に移したほうがいいものはどんどん移してもらう。それが地方分権だろうと思う。国土のグランドデザインとか高速交通ネットワークなどは政府が考えるべきだと思いますが、機能麻痺が直らないならば、増田さんが言われるように、東北地方だとか中国地方ぐらいのブロック単位で委譲してもらったらいい。だけど、それはあくまで次善の方策だろうと思います。
増田 私は絶望感でもないんだけど、その病理現象をどこまで治癒する能力があるか、それはほとんど期待できないと思う。その重要性に気付いている人もたくさんいると思うのですが、しょせん小さな歯車になっていて、がんじがらめで動けないような気もします。 片山 例えば増田さんのところも、中央政府ほど大きな組織じゃないけれども、できるでしょう。私のところも、昔あった土木や農林の縦割りは全部やめているんですよ。だから、中央政府でも健全なリーダーシップを持った人がトップになれば、それはできますよ。
増田 公共事業を景気対策の道具としてとらえすぎましたね。それで10年、15年、そのような公共事業を目的化し、ただ量的に拡大するだけで、結局、生活を豊かにするということを考えてこなかった。だから、やめるものはどんどんやめて、公共事業で食べているような人たちについても厳しく反省を求めなければ駄目だと思うんです。それは官民、ともにですね。そういう意味でも、今まで政府のやってきたことに対する責任は大きいと思います。
片山 今の議論を敷衍しますと、私は「がんばらない宣言」を「文化を中心にした地域づくりをやろう」という違う言葉で言っているんですね。今までは物づくりを中心にして、いろんなシステムができている。補助金のシステムも、国の予算もそうです。実はわれわれの地方交付税もハード中心、物をつくるのにはすごく有利です、当面は起債でやりなさい、後で交付税で返してあげますよと。ところが、文化とか生活に密着したものについては、現ナマでないと仕事ができない。これを転換するためには、文化中心に大胆に仕組みを変えていったらどうだろうかということです。
文化というのは、われわれの生活を豊かにします。しかも、地域に根差した文化によってその地域の魅力は増すし、地域に自信がつきます。それから、自足という考え方も出てきます。非常に重厚な地域になると思うんですよ。従って、私は10年後を目指して文化立県にしようと、予算なんかも文化中心のものを考えようとしているんです。交付税の改革も、そういう視点でやったらいい。今までのハード中心でやってきたのを、ハードもソフトもイーブン、もしくはソフトも文化に重点を置くようにする。ところが、今、行われているのは、市町村は合併しなさい、合併特例債でハード事業ができるというので、何とかの一つ覚えみたいなことです。私は文化というのを1本の柱にしたい。増田さんの「がんばらない宣言」も同じことだと思います。
北川 同じように、私も2年後に松尾芭蕉の360年祭をやろうなどと考えているのですが、それは「経済に資するための行政」から「文化に資するための行政」へ、という方向転換が頭にあるからです。
私は、今の地方政府と中央は権限と責任を明確にしなければと思います。国はサブシディアリティーになり、補完性の原則に基づいて何をすべきかを決め、みんながはっきり見える形になれば変わっていくと思いますが、今はその制度設計ができてない。そういうことが重要だと、中央の病理現象に対してわれわれも発言して直していかなければいけないし、直らないのなら、この国は終わりだと思います。
片山 道路公団を直すためには、公団をこんなふうにしてしまった政府機構を直さなければいけないんですよ。公団と同様、国立大学は自主性がないと言われますが、その大きな責任は文部科学省、ないしは文部科学省の背後にいた、旧大蔵省にあるんですよ。だから、国立大学に自主性を付けようと思ったら、文部科学省が自己改革しなきゃいけない。ところが文部科学省はそれをしないで、国立大学に対して居丈高に「あななたちが自主性を付けるように私たちが指導してやる」という発想ですから、何も変わらないですよね。まず霞ヶ関を改革しなきゃいけない。
北川 中央の官僚は言うことを聞かせようと、財源を握り、「予算付けないぞ」などと平気で言う。局長クラスでもそうです。これで日本は法治国家かと思いますが、この哀れさを彼らに気付かせないと駄目です。裁判に訴えますよとか、制度をつくってやっていくべきでしょう。
しかし、われわれだって自立が足りなかった。私は地方分権のこととは別に平成9年と平成10年、市町村への基礎的自治体の権限移譲を先駆けてやろうと思ったんです。そうしたら、やっぱり駄目でした。それは「権限移譲だけやる」と言うからできなかったので、そもそもこの国のありよう、分権とは何かという大議論をした上で、部分最適じゃなしに全体最適なパラダイム・シフトをしないと、おりていかない。だから、今回の道路公団の問題も、民営推進委で議論することに対してはどうぞと思っているけれど、それに対して政府がどう応えるかということについて、われわれも議論していかないといけないのではないかと、こういうことですよね。
片山 私は最近、われわれの実践によって、国に多少なりとも変化の影響力を与えていると思います。北川さんが最初に始められた積極的な情報公開は、地方に浸透してきました。地方団体が情報公開することによって、政府も公開せざるを得ない。引きずられる面があるんですよ。だんだん国のほうも情報公開を迫られ、説明責任を求められる。ところが中央政府は天下りを機軸にして動いていますから、そのことを国民に対してきちっと説明する責任を果たせなくなってきているわけです。
「補助金をやらないぞ」と言う中央政府の官僚の話がありましたが、私はBSEの時に「国の政策はずれている」ときちっと言ったんですよ。そうしたらうちの担当の課長に「鳥取県には畜産関係の補助金をやらない」と言ってきましたよ。
北川 私のところにも言ってきました。中央省庁はまだまだ情報非公開の世界にいるんですよ。亀山市のテレビ工場立地について、シャープに対して上限90億円の支援を決めました。良いか悪いかは別として、もしも情報非公開だったら、そういうインセンティブ、思考回路は働かないでしょうけど、オープンにしたら出しましたよ。これで1万2000人の雇用が見込めますよ、国策に対してインセンティブを与えますよと言った。情報非公開のままだったら、私は逮捕されていたかもしれない。結局、道路公団の問題でも、透明性の問題に帰着するんです。
木村 中央と地方の関係も徐々に変ってきており、今が一番大事な時期だと思っています。BSEの政策のことで厳しいことがあったという話ですが、その一方で、例えば和歌山県でやっている「緑の雇用事業」には非常に協力的で、一緒にやっていきましょうなんて言ってくる。一昔前なら、そもそもこういった話自体がなかったでしょう。「地方の言うことなんか問題外」という形でやっていたのが、だいぶ変わってもきている。地方基準の公共事業のやり方についても、国土交通省はやっていこうという感じになっている。むろん、全然変わってないと感じる時もまだあるのですが、今が大事なところだから、この火を消さないように地方の側から言うことを言っていきませんとね。
北川 中央と地方が対等に、協力していくという原則が非常にいいんです。そのとき対立があっても歓迎なんですよ。これまでは対立した時に議論がなかった。補助金の話を持ち出されて、きゅっと締められたりしてね。だから、これからは対立したら堂々とオープンで議論しましょうということ。当然、われわれも自立しなければいけません。この際、そういうふうに変えましょうという視点がないと、道路問題その他、何事も語れないと思う。
大転換時に欠如する政府の構想力
片山 今の地方財源の議論1つとっても、実に視野が狭い。要するに来年度の予算編成をするために、どこまで交付税が削れるかとか、つじつま合わせのところから出発するんです。地方税源、地方財源の問題というのは、地方分権をさらに進めるために、どういう財源の割り振りであったら、より分権の実が上がるだろうかというところから考えること、それこそが構造改革なのです。しかし、そういうことは一切ない。地方分権という思想が今の政府にないからです。
道路公団の問題も同じ。去年は、国費を3000億円投入しているのを、どうやって召し上げるかという、その議論だけ。それが終わると、今度は本州四国連絡橋公団の破綻処理に国費を投入しないで済むにはどうすればいいかという、そこから議論が始まる。
今、単年度の予算編成からすべて議論が始まっているんですよ。だから、非常に近視眼的な視野の狭い議論になって、政府全体がそういう中で流されてしまっている。われわれ地方から見ていると、すごく危惧しますね。来年度の予算をどう編成するか、これはわれわれにも政府にも重要ですが、それとは別に、わが国のこれからのあり方を考えて、問題を構造的にどう解決していくかを考える視野と力量が欲しい。
北川 地方自治の6団体が、総務省の下請けをやっているようでは駄目ですよ。知事会議で発言したんです。「本当に自立をしていかないと」と。われわれ自身も自立をするという明確なメッセージを出して実際にやっていかないと、何も国に言えません。私はそう思いますよ。
工藤 議論には時間軸の問題があるので聞きにくいのですが、もう一度高速道路の問題、カネがなければ他のカネを回してでもやるべきだと、本当にそういうふうに思っていますか。
木村 起債を起こさない、借金をしないで道路をつくるという仕組みの中で、この問題を解決していこうとしたら、どうしてもパイの取り合いみたいな形になって変になってくる。しかし、国土の骨格としての高速道路をある程度のスピードでつくらないといけないわけだし、そういう時には借金してでも早めにつくるという仕組みがいるのではないか。今までの料金プール制を御破算にするというなら、もう1回、建設国債みたいなものを特別に道路のところに入れ、現在の金利も低い時に、長い後年度負担の中でつくってしまうという発想も必要だろうということ。私はそう思います。
北川 二者択一、二項対立の話ではなく、同じテーブルで議論しようということですね。林先生が言われたような地域政策論も含めて議論しないと、結果はまとまらないのではないでしょうか。
工藤 ただ、現実として国の借金は厳しいでしょう。今の国の予算を見ても、回せるところがそんなにありません。
片山 それについては、こういうことが言えると思います。非効率な団体とか非効率な仕事をしているところへ補助金を出すことが今までの政治行政の仕事で、そういうサプライサイドの議論があって、それで族議員ができた。族議員ができたということは、省庁も共同正犯ですよ。そして、お互いが力をそこで発揮して、不透明な中で動いてきた。結局、非効率なところへ補助金を出そうと思うと、何かの政治力が働かなければいけない。それが族議員の役割であって、無理があるんですね。だから透明性を確保して、その部分を思い切ってカットして、新しい地域政策とか雇用の政策へ回す、その付け替えが大きな要素になると思うんです。
工藤 今までの高度成長の時につくった計画、それを見直そうということですか。
北川 全部、見直せばいいじゃないですか。それは当たり前の話ですよ。
工藤 そういう議論がきちんとできればということですね。
片山 ただ、見直しといっても、その分野だけで見直したらダメですよ。港湾計画は港湾計画だけで見直す、農業基盤整備は農業基盤整備だけで見直すとか、今の日本の政府は、すぐそれをやりますね。そうではなく全部を見渡した上で、これはやめよう、こっちはぐっと伸ばそうということをやらないといけない。それが今、できていない。
結局、それをやらないまま、たまたま高速道路というタコつぼの1つを見て、これは不要だ、あれは不採算だなどとやっているものだから非常にずれてきて、今回のような議論になるわけです。地方から見たら、他の事業に比べて高速道路は一番優先なのに、何でそれほどたたかれるのか。高速道路に使うカネがないなら、別の事業を削って持ってきてくれたらいいのにという疑問があるわけです。高速道路から農業基盤整備、港湾、治山、治水、林道まで全部見渡して、その結果、国民的合意で「高速道路の優先順位は低い」となれば、みんなあきらめると思う。だけど、今の実感はそうじゃない。いろいろなものに比べて優先順位が高い。だから私には、ものすごい違和感があります。
林 国全体として目標というのが全くはっきりしないから、ジャッジできないのでしょう。30年代から40年代にかけては成長極理論みたいなものがあって、いろんなところをやってきたから、非常に強くなれたという面もある。いずれにしても、その時代、国は何をやるのかということを示していましたね。今は、そういうジャッジをする柱がない。
片山 そういう意味では今、予算編成のつじつまさえ合えば何でもいいということになっている。高速道路もそうでしょう。何が必要かは言わない。採算が合っていればいい。進捗率が早い方がいい。哲学も理念もない話です。
北川 全体の国としての構想力がないんですね。いわゆるパラダイムシフトで目指すべき方向というのが戦後はあったと思いますよ。それをギアチェンジして、政府はどのような大構想でいくのかということを国民に見せる。今はそこがないから、この議論も煮詰まらない。
工藤 今日の議論を契機に、更にいろいろな議論を試みます。ありがとうございました。
(聞き手は工藤泰志・言論NPO代表)