山崎正和 (評論家)
やまざき・まさかず
1934年生まれ。56年京都大学文学部哲学科卒業。京都大学大学院美学美術史学博士課程修了。関西大学、大阪大学教授を経て、現在東亜大学学長。劇作から文芸評論、社会論まで活動領域は広範囲。主な著書に『柔らかい個人主義の誕生』『大分裂の時代』『歴史の真実と政治の正義』等。
「周知のように、「ポピュリズム」という言葉の起源は19世紀の終わりに遡ります。1890年代に、アメリカの南部と西部の農民を支持基盤にしてポピュリスト党というものが形成され、それが「ポピュリズム」という言葉の語源になりました。このポピュリスト党は、東部、そして北部の豊かなアメリカに対して、開発途上の比較的貧しいアメリカを代表していたわけです。そうした不平等を感じている農民に対して、ポピュリスト党は高度の累進所得税、そして直接的な人民投票、さらに上院の直接選挙を提案して、一時は多大の人気を獲得しました。
■ 共通するポピュリズムの性格
すでにその発端から、ポピュリズムの性格はかなりはっきりしていました。第1に、人々の怨恨、嫉妬を刺激して、その支持に乗って、より恵まれた階層を攻撃するという形をとったことです。第2の特色は、いわば参加民主主義というか、草の根階層の声を政治に直接反映するという形式をとったことでした。このポピュリズム運動、ないしはそれに似た政治活動は、1930年代に世界的に広がりました。ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、ロシアのスターリニズムが代表的です。これらは、いずれも時を同じくして、1930年代にポピュリスト的な体制をとって始まり、やがて完全な専制政治という姿をとって完成しました。
興味深いことに、同じ30年代にアメリカでもポピュリスト運動が多発したということを、三宅昭良氏の『アメリカン・ファシズム』という本が見事に描き出しています。この当時、例えばアイオワ農民同盟を組織したミロ・リーノ、そして、ドイツ系アメリカ人同盟を結成して反ユダヤ主義を掲げたフリッツ・クーン、同じく、かなりファシスト的な姿勢を強く見せたウイリアム・ペリーの銀シャツ党などがきびすを接して活動を始めました。
昨今の日本の情勢に鑑みて面白いのは、当時、アメリカで名声を博していた小説家、アプトン・シンクレアがカリフォルニア貧困集結運動を起こして、あわや州知事に当選しそうになったという事件があったことです。
そうした流れの中で、とりわけポピュリスト的な性格をあらわにして成功した政治家に、ルイジアナ州の知事になり、後に連邦の上院議員にもなったヒューイ・ロングという政治家がいたことを、三宅さんは克明に描いています。
彼はセールスマンから身を起こして、やがてルイジアナの地方政治家として地位を確立した後、折から大統領の地位に近づきつつあったフランクリン・ルーズベルトの強敵としてワシントンで活躍した政治家です。彼の政治手法を一言でまとめれば、みずからを草の根民衆と立場を同じくして、言葉のうえでも、卑語、猥語などを含めた極めて庶民的な口調で扇動を行いました。
しかし三宅さんの指摘で面白いのは、彼は演説の際に、必ず難解な、普通の人々には理解しにくいことをわずかだけ足したというのです。つまり彼はこの扇動演説の中で、自分を民衆と一体化すると同時に、自分を指導者として差異化することに常に注意を払っていたといえるでしょう。
そして彼は、どの段階でも目に見える敵をつくりあげました。抽象的に金持ちとか、あるいは伝統的な政治家を攻撃しただけではなくて、その折々に具体的な民衆の敵を名指しして攻撃したのです。ルイジアナにおいて、その最初の標的になったのは電信電話会社でした。彼は、この会社の料金値上げの要求を機会として、さんざん会社を攻撃し、ついに電話料金の払い戻しをさせるという成果を得て、たちまち民衆のスターになりました。次の敵になったのは、ルイジアナで最大の企業であったスタンダード・オイル会社で、これまた特別課税を行ったりして、民衆の人気を博したのです。
やがて中央のワシントンに進出すると、彼は絶えずフランクリン・ルーズベルトのニューディールが生ぬるいという点を攻撃して、徹底的な富の分散計画というものを立てました。「シェア・オブ・ウエルス(SOW)計画」と呼ばれたこの法案が実現すると、500万ドル以上の個人資産を徹底的に分散することになったはずでした。
最終的に彼はルーズベルトの前に政治的に敗れ、かつ暗殺されてしまったのですが、その政治手法は終始、典型的なポピュリストのやり方でした。当時普及し始めたラジオを使って、これで民衆を広く扇動しました。この演説にこたえて、富の分散計画に賛成し、そのパンフレットを求める手紙が何と700万通集まったとさえいわれています。
■ ポピュリストが採る政治手法
このように見ると、ポピュリズムのとる政治手法というのは、主に3つに分けられるでしょう。第1に、彼らは民衆の感情を刺激し、理性よりも情念に訴えるという形をとります。しかも、その情念は反感、あるいは嫉妬という点に絞られ、当然ながら、その対象として敵を必要とします。しかし、この敵の範囲を広くとりすぎると、今度はポピュリズムの側が孤立しますから、具体的には先ほどお話しした目に見える敵。適当な大きさを持っていて憎々しげに見えるが、自分の力で倒せる相手を選ぶわけです。
第2に、この政治手法は、やがてポピュリストが勝利をおさめていくと、いつぞや別の場所で私が述べたように、ナンバーツーたたきという形をとっていきます。抽象的にいえば、社会の中で中の上ぐらいの地位にいる人、あるいは組織の中でいえば、まさに後継者に当たるようなナンバーツーを執拗にたたくわけです。そうすることによって、草の根支持者は指導者と自分たちの中間の階層がたたかれるわけですから、そのことによって指導者と民衆が直結するという快感を味わうことができます。
やがて、このポピュリズムが勝利をおさめたうえで、法的、制度的な改編を行って、勝利の結果を永久化するとファシズムになります。
今、ここでいっているファシズムというのは、当然、ナチズムもスターリニズムも含んでいますが、そういう体制が形成されるところまでいくと、もはやこれはポピュリズムではなくてファシズムといえます。しかし、そこでもなおかつ政治的技法としてナンバーツーたたきが有効であったことは、歴史的にも世界中で証明されています。スターリンが、共産党の幹部を次々に粛清し、次いで将軍たちを虐殺したということは有名ですし、もっと近い例でいえば、毛沢東が、せっかく新国家建設に成功した後で再び文化大革命を起こして、林彪以下のナンバーツーを残らず粛清したということが挙げられるでしょう。
3番目の特色は、そのポピュリズムの形成過程において、目的は明確に立てるけれども、その目的を実現するための手続き、過程、制度というものを無視するやり方をとることです。無視するどころか、あらゆる制度、手続きというものを、むしろ目的の敵として攻撃するというのが特色です。したがって、そこでは、ある目的についての試行錯誤とか、再検討とかいったことは徹底的に排除されます。そして、やがて制度は、このポピュリズムが支配すると完全なマシーンに化して、リーダーの思うままに操れる道具になるということです。
■ ポピュリズムは民主制度の鬼子である
ところで、三宅さんも実感から述べているように、実はこのポピュリズムというのは、皮肉なことに民主主義、あるいは民主的政治制度の鬼子だと見ることができます。もっとも典型的な例ですが、ヒットラーが政権をとったのは、まさに総選挙という手段によってでありました。彼は正当な民主的手続きに従って首相に任命され、その地位についた後に制度を廃止して専制体制をつくりあげたわけです。
三宅さんは、それ以上の理論的な説明はしていませんが、実は民主主義というものには、4つぐらいの本質的な問題構造が秘められています。第1に、民主政治を行うためには、広く民衆、あるいは国民の参加を求めなければなりません。そのためには、民衆に対して常に政治的な情報を与え、政治的な感情を刺激し続けなければなりません。
振り返ってみれば、19世紀の終わりから20世紀の最初の30年間、世界的に情報化が進みました。大衆新聞も盛んになるし、何よりもラジオという新しいメディアが威力を発揮しました。それを通して民主政治化は面白いショーでなければならず、民衆の政治的感情を常に刺激していなければならないという状況が生まれたわけです。民衆の側からいえば、政治的に無関心であることは恥ずかしいことであり、極端にいえば反民主的であるといって非難される事柄になりました。
今の日本でも、例えば総選挙で投票に行かないことは、国民の権利の放棄というよりは義務の放棄とみなされる場合が多いのは事実でしょう。つまり近代の国民たるもの、常に政治に向かって関心を持つように、いわば道徳的な命令を受け続けているといえるのです。
ところで2番目に、この刺激や情報を得て政治的な感情を抱いてしまった国民は、それを匿名で表明することに決められています。近代の民主政治を支えているのは、一人一票の無記名投票という制度です。これは本来、国民の政治的意思形成の自由を守る手段であったわけですが、次第に匿名性が併せ持つ無責任というものを支えるようになりました。
民主主義が始まったといわれる古代ギリシャにおいて、政治的な意見の表明はアゴラで行われました。限られたエリートであったかもしれませんが、政治に参加する人間は、自分の顔を人にさらし、自分の名前を名乗って意見を表明したわけです。ずっと時代は下がって、初期のアメリカでタウンミーティングというものが政治を決定していたときにも、そこでは人々が自分の名前を名乗って、ひとつの人格的責任を持って意見を表明していましたが、少なくとも20世紀の民主主義では無記名投票によって事柄を決定することになりました。
3番目に、この無記名投票の特色は、人々の政治的な意思を極めて単純に抽象化するという機能を持っています。つまり本来複雑で微妙なニュアンスを含んでいるはずの政治的意思が○×式、あるいは黒白式の単純な二者択一の形に収斂させられるわけです。
われわれは総選挙の投票に出かけて、例えば半票だけ投じるということも許されませんし、その意思決定に至るまでの迷いとか、ためらいというものを一票に表現することも不可能です。このことが国民の政治的意思というものをも、また○×式の単純なものに変えていきます。そこには、いわば自己表現のカタルシスというものもないし、あるいは人間らしい感情の迷いとか、具体的に政治家との交渉ということも禁じられているわけです。
ということは、この政治的自己表現には双方向性がないということを意味します。これが4番目の特徴です。
実は人間は何であれ、意思決定をするときにはその過程で悩むし、迷うし、そして他者と意見を交換し合うことの中で自己を決定していくはずです。小さなコミュニティーであったり、あるいは組織の中の意思決定の場合、意見を問われれば、当然、その意見に対しては反論があるだろうし、その反論の中で意見の微調整ということが行われる、これが意思決定の健全な姿であるはずです。しかし、現代の民主主義、無記名投票というのは、それを根本的に拒絶しているわけです。
すると、どういうことになるかというと、一方では政治的感情を持つことを強制され、むしろ義務化され、しかも、その政治的感情を人間の感情ではない、黒白式の二項対立に整理することを強制される。しかも、整理の過程で他者と語り合ったり、自分を反省して修正したりという機会も奪われるというのが、民主主義の持っている最大の逆説でしょう。
■ 民主制度にはらむ病弊をどう制御するか
したがって、現在の民衆は常に根本的に欲求不満になりやすい状態に置かれているというべきでしょう。正義にかかわる感情を持てと絶えず要求されながら、その正義の感情にまつわる人間的な陰影というものを否定されている。すると、人々は自分が真に感じている以上に、あるいは自分が真に感じていることとはいささか違う自己形成を絶えず行うようになる。これが癖になると、他人、あるいは社会全体の世論に対して過剰適合するという結果を招きやすいのです。
つまり威勢よく一刀両断の答えを出して、しかも、その意見を他人と協調させるわけですから、自分を振り返って深く分析するというよりは、隣の顔を見て、その人の表情に自分を合わせるという結果になりがちです。ですから、民主主義というのは、絶えずそうしたポピュリスト的な行動を誘い出す、本質的な病弊を含んでいる制度ともいえるわけです。現在、われわれは、これ以上によい政治制度を知らない、あるいは思いつかないでいます。今後ともわれわれは無記名投票による多数意見、多数決によって社会を運営していかざるをえないでしょう。
しかし、大事なことは、この制度そのものの中に根源的な危険が潜んでいるということを絶えず知っていて、そして、それにブレーキをかけるという仕掛けをつくることです。私は、いうところの直接民主主義、案件ごとに国民投票を行うという政治は極めて危険だと思っています。それは、まさにポピュリズムに道を開くものであって、一定の目的に対して制度的な過程を無視するということになりがちだからです。しかも、過剰適合で左右に揺れる世論の波のままに、その時々の瞬間の決定で国政を運営するのははなはだ危険だということは、これまでたびたび述べてきました。
■ 最大の防波堤は議論の場の形成
実は直接民主主義とは全く違う意味で、私は古代のアゴラやアメリカ建国期のタウンミーティングのような政治的制度、あるいは仕掛けが必要だと思っています。それはどういうことかというと、要するに人々が集まって自分の感情形成を行う社交の場をつくるということです。
人間の感情などというものは極めてもろいもので、うつろいやすいものです。それが一つの確信にまで形成されるには、実は相互の援助が必要なのです。つまりお互いに語り合い、批評や反論をし合いながら自己を形成していくというのが本来の健全な姿です。しかし、現在の民主制度の中では、そういう場所が用意されていない。そして19世紀の末以来、情報は一方的に流れてきて、多くの民衆はそれを受け止めるだけという状況に置かれてきました。つまり情報の双方向性というものが場所を失った。そんな意味から、私は政治的な会話が行われる、他人を認知しあう場所というのをもっと増やさなければならないと思っています。
かつてイギリスには民主化運動であり、かつ労働運動でもあったフェビアン協会というものがありました。このフェビアン協会が他の政治運動と非常に違っていたのが、その中堅のリーダーたちの間にたゆみない社交的な会話があったということです。ここには劇作家であり、有名な皮肉屋でもあったバーナード・ショーが参加していて、この運動に加わってくる人たちを夕食会の席、あるいは屋敷のスモーキングルームで知的に教育しました。それは何も政治運動の理念を説くというのではなくて、会話をするスタイル、そこで交わすべきジョークの質に至るまで彼が教育したといわれています。
そういう場があったので、フェビアン協会は、他の労働運動がとかく左翼的ポピュリズムに走ったのに対して、非常に健全な動きを示しました。そして、むしろイギリスの中流以上の階層、特に官僚の中にたくさんの支持者をつくって、社会改革を具体的に進めることができたのです。ですから、私は今、そうした、いってみれば政治的対話のフォーラムが生まれ、それが知的に洗練されていくことが、ポピュリズムに対する最大の防波堤になるだろうと思っています。
■ 小泉ブームはポピュリズムか
このたびの小泉内閣に対する非常に大きな支持というのは、私は必ずしもポピュリズムの表れだとは見ていません。これは第1に、ポピュリズムがとかくやりがちな感情刺激ということをやっていないからです。
小泉氏が自民党総裁立候補に当たって言ったことは、聖域なき構造改革という一つの政策でした。彼は、これに反対する人間と戦うと言いましたが、これはいわば意見、あるいは思想と戦うと言ったのであって、特定の階層、特定の職業的地位と戦うと言ったわけではありません。先ほど言った、目に見える敵というものをつくる作戦ではなかった。結果において、自民党のある種の政治家たちを非難したとしても、その非難された政治家は説得されて立場を変えればいいわけですから、つまりヒューイ・ロングが攻撃したようなスタンダード・オイルとは、わけが違うのです。
それからもう一つ、彼は今のところ、いわゆるナンバーツーたたきをやっていない。彼の追随者の中には官僚たたきをやっている人がいますが、私は、まだこれが構造的に定着するとは見ていません。
したがって、今度の小泉現象というものは、私はポピュリズムではなくて、国民の自己嫌悪が一転しただけのことだと思っています。それまであまりにも長く、極端にいえば、第二次大戦以後、継続的に自国の政府は悪いもの、自国の指導者は愚かなものというイメージを定着させてきたのが、日本のジャーナリズムでした。小泉氏の直前の森総理に至っては、人格的な否定を受けるほどジャーナリズムが攻撃して、その結果、国民は自国の政府、あるいは指導者といえば悪いものというイメージを持ち続けましたが、実はこれはあまり快い状態ではなかった。
できることなら自分が属している国家の指導者はまともな人間であってほしいと、どこかで国民は願っていたはずです。それに強力なサインを送ったのがやはりジャーナリズムで、今回はなかなかよさそうだという報道をした途端、今までの自己嫌悪が手厚かっただけに、その感情は一気に逆転して賛嘆というところまではね返ったのだと思います。
そして、私がもう一つ申し上げておきたいことは、彼が言っている構造改革という政策の中身は、かねて多くの政治家、官僚のみならず、学者たちがいろいろな角度から展開してきたことであって、十分に内容のある話だということです。ですから、この政策を進めていく過程の中で、私は小泉人気はどこかに軟着陸するはずだと見ています。ただ、近年、いくつかの知事選挙を見ていると、そこにはポピュリズム的な萌芽があったことは否めませんし、われわれがしかるべき対策をとらなければ、あるいは、まだわれわれが知らない次の指導者がポピュリストとして現われてくる可能性はあるでしょう。そのために、私は新しい政治的対話のフォーラムとして「言論NPO」に大いに期待しているのです。〈了〉