【論文】小泉政権は本質的矛盾をどう解決すべきか(会員限定)

2001年8月13日

iio_j020425.jpg飯尾潤 (政策研究大学院大学教授)
いいお・じゅん

1962年生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専攻は政治学・現代日本政治論。埼玉大学助教授を経て、政策研究大学院大学に転任、2000年より同教授。著書に『民営化の政治過程』等。

「空腹時の食事がいちばんうまい」というのは、誰もがうなずく一種の真理であろう。そして最近の小泉純一郎首相の人気も、森内閣の反動という点からすれば、同じ原則の産物ではないか。


■ 小泉人気の「理由」とは

多くの人から見て、森喜朗首相には、政権運営の中心となる価値観も感じられなければ、目的に向けて説得していく能力も認められず、はては政治家としてのまじめさにまで疑問が投げかけられていた。一般の有権者は、とにかく「まともな民主的政治家」に飢えていた。それに対するカタルシスとなったのは、自民党総裁選挙における小泉候補の挑戦への「疑似参加意識」を多くの有権者が共有したことであった。そして、そこにはチャンバラ映画のように、最初は劣勢に見えた「正義の味方」が、最後には敵をなぎ倒すといった、ドラマティックな展開があった。

もちろん「空腹時だから、どんな食事でもうまい」というほど小泉首相に中身がないわけではない。意欲も技量もそこそこあるからこそ、人気が急落することもなく持続しているのであろう。何よりも、普通の人々に直接訴えかける自分の言葉を持っていることは大切である。有効なコミュニケーションなくして、民主政治は成り立たない。この当然の能力がある小泉首相の登場は、日本政治にとって好ましい変化であった。

また、ハンセン病訴訟における控訴断念といった出来事をみれば、この政治家には自分の考え方を形にする能力がありそうだという感じがする。「これまでの政治家」は、官僚から状況判断を聞いた段階で、それ以上の思考を停止することが多かった。

なぜなら、問題となっていることに関して判断基準を持たず、さらに別の可能性への想像力を政界生活のなかで失っているため、官僚の説明に従うほかないからである。逆に小泉首相は、自分なりの判断基準があるうえ、新鮮な想像力を失っていないらしいので、それが発言にも表れて、共感を呼んでいるのではないか。


■ 小泉首相は「並みの政治家」では困る

しかし、これだけであれば、先進民主主義国の基準でまずは普通の政治家ということであろう。こういうことすらできない政治家ばかりという日本政治の現状からは画期的であるが、小泉首相は、大規模な改革を断行すると主張してやまないのだから、並の政治家では困るのである。控訴断念で見せた判断は、比喩的に言えば、水戸黄門的パフォーマンスの成功という面もある。しかしこうしたミクロの政治判断で成功しているだけでは、大規模な改革はおぼつかない。

ここで意地の悪い解釈をあえてすれば、小泉首相は、何をどう変えれば、日本がこうなるという見通しを持たずに、ただ響きがよいという理由から「改革」を唱えているのかもしれない。具体案を示せといわれれば、身近な政治家やブレーンの提案をどんどん受け容れて、自分はかっこいいことを言うのに専念していると疑うこともできよう。

しかも、小泉首相は、そうした改革と相容れない政策を推進してきた自民党をはじめとする森内閣与党を基盤にして、しかも選挙による政権交代を経ずに改革をしようとするのだから、明らかな矛盾のうえに立っている。「小泉人気を背景に参議院選挙に勝利すれば、しばらく国政選挙はないのだから、後はどうにでもできる」といった「陰謀」の存在がまことしやかにささやかれるのも、根拠のないことではなかろう。参議院選挙後に小泉首相を引きずりおろすなどということは、非難ばかり受けて、何のメリットもないことであるが、守旧派が改革の中身を都合のよいように変えてゆくといったことは、当然予想されるのである。問題は、小泉首相がそうした事態の推移を許すのかどうかである。そのときになって、先の意地悪な解釈が、的はずれであったかどうかがわかるだろう。言い訳と保身が目立つようになれば、森政権時代へ逆戻りである。

改革を訴えてこれだけの人気を誇る小泉首相が、実は守旧派の傀儡であるということを想像するのはつらいことである。ものの弾みにせよ、ここまで進展してきた政治の流れを、なんとかうまく生かす方向はないのか。小泉政権が、日本の政策課題の解決のために何ができるのか、どういうアプローチをとること有効なのか。ポイントを絞って政治的なスタンスの取り方について考えてみよう。


■信念体系と改革のストーリーを示すべき

第1のポイントは、改革を支える信念の中身をつくってゆくことである。ここでいう信念とは「不退転の決意」などという形式的な信念ではなく、これから進める改革が参照する価値観の中身である。今のところ「改革」がきわめて危ういように見えるのは、それにストーリー性がないからであるが、ストーリー性は改革を導く価値観なしにはつくりだせない。

「改革」という言葉を使いさえすれば、すでに解決策があるなどという考え方には有効性がない。改革の過程では無数の選択肢が現れる。たとえば極度に単純化した新古典派経済学のモデルで物事を考え、それに沿って「解決策」を考えたとしても、現実の改革を実行する段階になると、何段階にもわたって再解釈と修正を繰り返さなければ、実現しないからである。

これに関して改革の背景にある基本的な考え方という点になると、小泉首相の発言は奥行きがなくなる。つまり改革における部分と全体をつなぐ基本的な信念体系がみえてこないのである。たとえばレーガン大統領やサッチャー首相が有能な改革者だったのは、彼らが冷静な分析者として優れていたからではなく、強固な信念の持ち主であったからだとされる。しかもその信念は、政治家としての経験によって鍛えられた社会的な信念であり、個人の生き方などいったものにとどまっていない。改革の過程で起こる、さまざまな状況に応用可能な信念でなければ、系統だった改革に必要な「トップの決断」はできないが、これはいろいろな政策問題について真剣に向き合って初めて生まれる。

現代日本の状況からいえば、「改革と言えば済む」という安易さと、信念体系の未成熟が、「ここをこう変えれば、その結果このようなことが起こり、ほかの改革と合わせて、こんな方向へ日本が変わる」といった、本質をついたストーリーを欠落させることになっている。もちろんこうした全体と部分をつなぐ信念体系や、改革のストーリーは、一朝一夕にできるものではないし、それがないから小泉政権はだめだといっては身も蓋もない。しかし大規模な改革の突破口を開く指導者として、小泉首相に一定の信念体系の開示と、政権として取り組み最優先課題についてのストーリーの創造を求めることは無意味ではないだろう。

これは「理念と具体性」との矛盾を解くことにもつながってくる。道路整備特定財源の一般財源化の問題にしても、「目的税が無駄を生んでいる」というだけでは、問題の一端を明らかにしただけだ。一般財源化は問題解決の手段の一つにすぎない。むしろ、どの道路を、どのような手段で整備すべきなのか、誰が「無駄か無駄でないか」をどのような基準で判断するのかといった課題に取り組まなければならない。そして、この因果関係がストーリーを生んでくる。

こうした改革の過程で判断基準となる理念が明確でなければ、ストーリーに一貫性がなくなるから、実のところ理念を持たない指導者は、こうしたストーリーをつくることを嫌い、ただスローガンやキーワードでものを説明しようとしがちである。しかしこれでは、整合性のある改革はできない。「具体的な提案をすれば理念がないといわれ、理念を語れば具体性がないと批判される」と政治家は嘆くかもしれないが、こうした改革ストーリーを語らないから、この一見矛盾した批判を受けるということを理解すべきだろう。


■「骨太の方針」を「改革」までどうやって昇華させるか

第2のポイントは、複数の異なった性格を持つ改革領域の特性を認識し、相互の関係をよく考えることである。近年「構造改革と景気」の関係がしばしば話題となってきた。これに関して小泉首相や竹中経済財政担当相の「景気が悪くなっても、構造改革を行う」という姿勢は、決意表明としてはよいかもしれない。

ただ漠然と景気対策を行いながら、いつまでも「景気がよくなったから、構造改革をしよう」という状況にならない近年の悪循環を打破するものだからである。しかし景気を規定している要因と、構造改革を規定する要因には、結果として大きな相互関係があるにしても、単純な二者択一関係にあるわけではない。

景気の極度の悪化を避けながら、構造改革を断行してゆくことは当然であろう。そうでなければ、昭和初期、浜口雄幸内閣による金本位制復帰のときのように、政治家の毅然とした態度が逆に恐慌を悪化させ、さらに有効な経済政策の展開を妨げるという悲劇を生むことになる。

ここで重要なのは、いわゆる構造改革は中期的課題を扱っているのであって、その改革の進め方は時間的に幅があるのに対して、景気対策はまさにタイミングが重要だという違いである。このことに着目すれば、構造改革の関わる諸政策に関しては、枠組みをきちんとつくったうえで、実施時期には一定の柔軟性を持たせることができよう。景気対策に関しては、金融政策を主眼としながら、構造改革が対象としている政府支出が持つ景気刺激要因を考慮し、柔軟な構造改革という形で、どれぐらいの景気悪化が受容できるのかに関して、慎重な判断をすることが必要になる。

また、構造改革とひとくくりにして論じたもののなかには、いくつか性格の違う要素が含まれる。たとえば、不良債権の処理や財政健全化といった課題は、景気と密接な関係があるので、柔軟な実施時期の調整が必要となるが、セーフティーネットの整備を通じた雇用慣行の改善であるとか、IT対応社会の構築や都市構造の改革といった課題に関しては、マクロの数字よりは、ミクロの改革が重要になってくるので、おのずと違った処理の仕方が可能であろう。

こうした問題は、経済政策の観点からは、むしろ自明かもしれないが、政策過程的には難しい問題をはらんでいる。それは「最終的にどこまで改革を進めるのか」という課題と、「いつまでに、何を変えるのか」という課題が、現実の政策過程においては混同されがちであり、むしろ意図的に両者がリンクされることも多いからである。

つまり、改革を進める側は、後戻りできない状態にまで改革を促進しようとするし、改革に抵抗する側は、とりあえず改革の結果が現在の利害関係に及ぼす影響が遠くになる程度まで改革の速度を落としておけば、巻き返しのチャンスがあると認識するのである。しかしそうしたせめぎ合いのなかで、ぎりぎりに形成される改革案は、まさに柔軟性を欠いてしまう。

こうした難問を解くために、改革案のアウトプットを、具体的な予算処置や法律の細目にわたる改正だけで表現するのではなく、基本的な方向性を示す決定(基本法的な決定でもよいし、内閣が基本方針をなんらかの形で掲げ続けることもできよう)を行って、具体的な政策決定を導く基準を明確化する仕組みに対する検討をすべきである。

現代日本の改革を考えるとき、経済財政諮問会議が掲げた「骨太の方針」にある項目は、項目としては、多くの提案と一致するはずである。問題は、それをどのような手順で、全体として改革と呼べる形に仕上げていくのかということであって、その意味では改革課題の仕分けと、取り扱い方の区別は重要なポイントである。


■ 「官僚内閣制」を打破せよ

第3のポイントは、改革を進めるために必要な政治・行政体制を整備することである。首相がどんな方針を示しても、それと無関係に日々の政策が決定されるという「官僚内閣制」的状況では、改革ができないのはいうまでもない。近年この問題は大幅に改善され、行政府内における首相および内閣の優越的な地位は確認されつつある。たとえば、経済財政諮問会議の活況ぶりは、橋本行革の成果がある程度実ったものであり、首相のリーダーシップ発揮を助ける手段となっている。もちろん、「民間」(非国会議員)側ばかりが頑張って、竹中大臣以外の閣僚の活躍が伝えられないのは、本来の姿とはいえないという問題はあるが。

ややみっともない例ではあるが、外務省における田中眞紀子外相と外務官僚との対立も、内容的に外相にいかに非があったとしても、外相の勝利に終わらざるをえない構造となっている(その結果として国益が損なわれたとしても、内閣あるいはそれを支持する国民の責任となるのが民主政治の基本原則である)。

残る障害は、官僚内閣制と対になった「政府・与党二元体制」である。「与党の決定がされていないのに、内閣が勝手に政策を決めるのはおかしい」などという声が聞こえるようでは、議院内閣制の運用が確立していないといわざるをえない。議院内閣制とは議会の多数を得た政党(複数でもよい)が、代表者によって構成される内閣を通じて、行政府までをも統制する仕組みである。その仕組みのなかでは、政権を担う諸政党の幹部はまさに政府を担っているはずであり、政府と「与党」は一体化していなければならない。先ほどの「与党の決定がされていないのに」という部分は、まさに「政府と与党は別」という感覚を前提としているので、せいぜい「与党議員の話を幹部はもっと聞いてほしい」という言い方に訂正すべきであろう。

現状では、分野ごとの政策の責任者である大臣と、政権を支える議員との意思疎通が悪い面があるから、その点でなんらかの工夫をしてゆくこと(たとえば政務調査会の部会で、大臣が議員の要望を聞くといったこと)も大切であろう。この問題は、できるだけ「与党」を内閣側に吸収して、責任を持った一体性をつくってゆくという方向を軸に調整が図られるべきである。


■ 小泉首相の本質的な矛盾

ここまでは一般論だが、冒頭で論じたように、小泉内閣には固有の問題点がある。それは党員投票の結果、圧倒的多数で自民党総裁に選ばれた小泉首相ではあるが、一朝にして自民党の政策や利害が変化していない以上、政権の基盤となる政党の政策的方向性と、首相の政策的方向性にズレ(どころか反対の方向性)が見られるからである。いやむしろ、自民党を批判することによって自民党総裁になった小泉首相は、本質的な矛盾を抱えた存在なのである。

その点からすれば、小泉首相が本当に閣僚の行動を指導するほどの能力を持っているのかどうかも重要なポイントになる。今のところ、首相が打ち上げた政策課題に対しては、首相の超人気もあって、閣僚も政権政党幹部も沈黙を守っているようだが、少なくとも閣僚の間に一致した了解を築くことは、小泉首相にとって重要な課題であり、「事前によく説得してから、発表する」(説得するのであって、意見を聞けば何もいえなくなるというのとは違う)というのは、基本的な手順であろう。

しかし、この政策をめぐる政権のねじれは、小泉首相が完全に自民党を押さえ込めるか(たとえば参議院選挙の公約を根本から見直すとともに、参議院選挙の候補者の差し替えや選別を行うが必要だが、これはできなかった)、あるいは政策的に近い勢力を支持基盤とする政権基盤の組み替え(当然政界再編を伴う)を行うかしなければ、この矛盾は解決できない。そうでなければ、支持基盤と改革の方向が違うという矛盾のために事態が混乱し、結局改革はスローガンに終わるという結末が予想できよう。

そこで、このように矛盾に満ちた状況では、超党派的な合意を利用することも一つの選択肢になってくる。特に、不良債権の処理や財政健全化には一定の大枠における合意があるし、景気対策に関しては、対立は量的な調整に収斂する性格のものである(景気はよければそれに越したことはないが、やむをえなければ、いずれかの水準で我慢するしかない)から、先に述べたような大枠における判断基準を、与野党を通じた大多数の勢力で形成することは、日本の危機に鑑みて許されるべき選択肢であろう。問題は、どのぐらいまでは合意ができるのかという枠組みの選択である。


■ 徹底した討論こそが小泉政権を意味あるものに

以上、3点に絞って、小泉内閣が改革を推進するためのポイントを指摘したが、日本の政治が「創造的な破壊」過程が促進される段階に入ったと見るならば、政権のねじれも時代の不可欠な流れの1コマであるように見える。この過程を推進するためには、小泉内閣の矛盾は、むしろ拡大される方向へと推し進められなくてはならない。

その意味で、本当の意味で試されているのは相変わらず野党(反対党)のほうである。確かにねじれ状況のなかで、小泉政権との関係をうまく構成するのは骨の折れる仕事である。しかし妙に政権にすり寄ったり、逆に「まず反対してみよう」という態度では、野党の「一貫性=信用」が確保できない。「こういう条件であれば協力するが、それができなければ協力できない」といった態度で、政策の近い小泉首相との関係を調整しながら、それとはねじれた関係にある政権政党への断固たる批判を行うという課題に成功しなければ、現在野党となっている政党の将来が暗いのはもとより、日本政治自体の緊張感まで失われてしまうのではないかと恐れる。

またもう一つ指摘しなければならないのは、小泉首相の超人気の陰で、何か大政翼賛会的な雰囲気が生まれているとすれば、二重の意味で危険だということである。多くの人が指摘しているのは、言論の自由が実質的に制限され(政権批判をすれば、脅迫されるというのでは、自由な言論は展開できない)、政権側が機に乗じて何でもできるという態度に出ることである。それも危険であるが、もう一つ改革にとっても「なんとなく全会一致」というムードは有害である。「何と違うから改革に意味があるのか」という問いかけなしには、改革の中身が焦点を結ばないからである。そして焦点のない「改革」は、実質的には総花的になって、有効な改革たりえない。その意味で政治は、健全な意見対立を前提としなければ有効性がないことが、再び思い起こされる必要がある。「みんなが賛成するから、改革ができる」というのは正しくないのである。

小泉内閣の改革路線が意味のあるものとなるには、その中身をめぐって、もっと議論が活発に行われなくてはならない。超人気に恐れをなしている改革に反対する勢力も、政策の類似性と相手の超人気で立場をつかみかねている野党も含めて、徹底した討論こそが、この政権を意味のあるものにするだろう。〈了〉