東京会議で私たちは何を実現したいのか明石康元国連事務次長、言論NPO工藤代表が
緊急対談

2021年3月19日

 言論NPOの工藤泰志代表と元国連事務次長で、言論NPOのアドバイザリーボードも務める明石康氏が来週に迫った「東京会議2021」にどのように臨むのか、緊急の対談を行いました。今回の対談の司会は、共同通信の川北省吾編集委員兼論説委員が務めました。

 まず、コロナの感染者が1.2億人となるなど世界的な人類共通の危機に、なぜ世界が協調して取り組めなかったのか、との問いかけに工藤は、米中対立の深刻化、さらには世界が国家対立や国家の視点で考える傾向が強まり、戦後作ってきた国連システム自体が世界の危機に対応できない状況だと強調。グローバルヘルスを含め、世界が直面する課題に対する国際協調の在り方に答えを出さなければいけない重要な時期だと指摘しました。

 明石氏は、国連が加盟国の連合組織であることに伴う限界があるとしつつも、「常に無能だったわけではない」と述べ、国連の理想と限界での模索はこれまでも進められてきたと語りました。ただ、今回のコロナの危機に世界中があたふたして対応が遅れたことに失望を示し、こうしたことが二度とないように人類は努めなければならない、と語りました。

 さらに工藤は、民主主義における主権者は国民であり、我々は統治を国家にただ委ねるのではなく、コロナのような危機に対応するために、統治の仕組みを改善していくこと自体が民主主義の修復に繋がると強調し、世界の民主主義国家のシンクタンクや世界のリーダーが個人の資格で集まり議論することこそが、国際協調や民主主義の修復のための流れをつくるのであり、それこそが今回の東京会議の目的であると語りました。


川北省吾(共同通信編集委員兼論説委員).jpg川北省吾:3月22日、23日に「東京会議2021」が開催されます、「国際協調と民主主義をどう修復するか」をテーマに、2日間にわたって議論が行われます。

 その中に、「新型コロナ―人類の危機に世界はなぜ対応を間違えたのか」というセッションがあります。冷戦時代に、こんな笑い話がありました。「他の星から異星人が攻めてきたら、米ソ両陣営が喧嘩していたのを一旦止めて、スクラムを組んで、共通の敵に立ち向かうだろう」と。ところが、今回のコロナという危機に対しては、世界は協力するどころかむしろ対立を深めている感があります。

 アメリカのシンクタンクの集計によると、今日(3月17日)現在、感染者は世界で1憶2000万人、死者は266万人を超えています。

 お二人に最初に伺いたいのは、このコロナ危機という人類共通の危機があったにもかかわらず、なぜ世界は協力をすることができなかったのか、ということです。


各国ごとにコロナ対策が大きく異なったことが、世界的な協調を遠ざける要因となった。バイデン政権で風向きが変わる可能性も

yakashi.jpg明石康:コロナという人類共通の危機に直面しているのに、なぜ人類はお互いに手を結ぶことができないのか。おそらく、コロナが宇宙のどこからか攻めてきたのであったら、人類は協調できる可能性もあるのではないかと思います。しかし、アメリカと中国という現代の二大超大国は、コロナ以前から相互に疑心暗鬼ですし、コロナの脅威が本格的に表れた頃、アメリカの大統領は完全にアメリカ一国主義で対処していた。また、コロナはそもそも、中国の武漢のあたりから発生したのではないか、という疑惑が、はじめからトランプさんの頭の中にはあったようで、トランプ政権のコロナ対策は当初からかなりアメリカ一国主義的だったし、トランプさんの中の全く個人的な思い付きというか、執念というか、そういうものでやっていたのではないかと思います。

 ヨーロッパのそれぞれの国なども、かなり国ごとに特色のある対処の仕方をしていました。ドイツはわりと教科書的・模範的な態度を当初はとっていました。イタリアやスペインはそうではない、というように文化・社会、その国の成り立ちの違い、医学のあり方の違いのようなものが反映されて、それが国ごとに異なる対処につながっていました。

 わりと国土の大きな国ないしは連邦制をとっている国は、その分だけ難しさがあったと思います。中小国の方がわりと素早く対処ができていた。アメリカないしブラジルのような、巨大でしかも連邦制を取っている国、インドもここに含まれるかもしれませんが、こういう国々は図体が大きいあまり、国として統一的な対応はできなかったのではないかと思います。そういうわけで、コロナ危機に対して世界的な協調が見られなかったわけです。

 ただ、アメリカではトランプ政権からバイデン政権に代わり、風向きが変わってきました。米中関係もコロナ問題に関しては協調の路線ができるのではないか期待しています。


今回の世界的なコロナの被害は、世界の危機に世界が対応できない、その本質を我々に問いかけている

ykudo.jpg工藤泰志:この人類の危機に、世界がなぜ対応を誤ったのか。この論理立て自体が、実を言うと結構、勇気のいるものでした。「本当にそう決めつけていいのか」という指摘もありました。しかし、先程ご指摘がありましたように、感染者が1億2000万人、死者が266万人という、明石さんが理事長を務める国立京都国際会館がある京都府の人口に匹敵する規模の死者が出ている。これほどの被害が世界で発生し、しかもいまだに収束していない。この問題を世界は総括しない限り、次のパンデミックにも対応できないと考えたのです。

 これは、感染症に限らず、世界の今後について考えていく上で非常に重要なテストだと私は考えています。その重要な機会を我々は逃すわけにはいかない。とそう思ったのです。

 この問い、を考えていくといくつもの重要な問題が浮かび上がります。明石さんも言われたように、やはり米中の大国対立がその背景にあります。その中で私が考えなくてはならないと思うのが、WHO(世界保健機関)が専門的な機関としての役割をほとんど果たさなかったことです。感染への警告という初動から始まって、国境をどう開いていくか、各国の対応の調整などの課題に対してWHOは専門的な役割を果たしていないわけです。

 それはテドロス事務局長というリーダーの問題やWHOの機能の制約などもあると思うのですが、私が最も気になっているのは、戦後作ってきたグローバルヘルスの脆弱な構造自体なのです。今回の世界的な被害は、世界の危機に世界が対応できない、その本質を我々に問いかけていると思うのです。

 戦後の国際協力の枠組みは様々な分野で米国さらに英国が中心に作り上げてきました。グローバルヘルスのガバナンスも同じです。その中核的な国が世界の中でも比較的多くの感染者数と死者数を出し、国内の統治自体が問われ、コロナ対策で失敗している。

 トランプ政権はマスクの着用まで疑い、科学的な知見が全くないような対策で自滅している。その責任を感染症が見つかった中国に求め、人々の生命に関わる感染症が政治化されました。感染症の世界的な対応でリーダーシップを発揮する国もなく、本来、世界が協力すべき局面で世界の多くの国はそれぞればらばらに、内向きの対応に向かったのです。

 コロナ感染は世界の平和と安全の脅威になっているのに、国連安保理は沈黙を守りました。これは2014年のエボラ出血熱の流行の際の国連対応とは全く異なります。その際には、国連はエボラ対策のミッションを作り、安保理でも決議して軍まで感染のアフリカに派遣しました。しかし、今回は「中国発祥のウイルス」という表現自体をめぐって米中が対立し、国連や多くの国際機関もほとんど動けなかった、のです。

 国連は加盟国の連合であり、多くの国際機関が加盟国の拠出によってなりたっています。こうした国連システム自体が、世界の人命の危機に対応できないという問題に私たちは直面しているのです。しかし、世界が協力しない限り、パンデミックを阻止することは絶対にできません。ウイルスは国境を越え、世界に広がってします。そう考えると我々はグローバルヘルスガバナンスのあり方という大きな問題に対して、まだ答えを持っていない。しかし、答えを出さなければならない非常に大きな段階に来ているのではないか。それが、今回の「東京会議」で私の問題意識の出発点なのです。

 その難題に世界10か国のシンクタンクや世界の代表的なリーダーで挑もうと考えているのです。

川北:今回のコロナ危機では国家の役割というものがものすごく前面に出てきて、EUにしても国連にしてもそういったグローバルな機構が、なかなか動けなかったということが非常に印象付けられた面があったと思います。

 日本で最初に国連事務次長になられ、長くご活躍されてきた明石さんは、この国連システムの限界について、どのように考えておられますか。

国連は加盟国の連合という限界はあるが、常に無能であり、何もしていないのか、というと決してそうではない。

明石:国連というものは、そもそも作られた当時から世界政府ではなかったわけです。工藤さんも触れましたけれども、国連を形成しているのは、国連の加盟国、国家なのですね。独立国家が196カ国あって、そのうち193カ国が現在国連に加盟しています。その他にも、パレスチナなどの国々が準メンバーのような資格を国連で与えられていますし、専門機関の中には、国としての待遇を与えている場合もあります。

 そういうわけで世界政府というものが存在する場合、もっと機敏に、もっと統一的な形で、行動することができたと思いますけれど、国連というのはその意味でできることも非常にたくさんありますが、できないことも数多い。

 感染症の問題は、それぞれウイルスによって脅威の度合いも違います。2002年の重症急性呼吸器症候群(SARS)の際は、脅威に直面した国もあれば、そうでない国もありました。上手く対応できた国もあるし、そうでない国もあった。このSARSの経験をもっと身近に感じられた国の場合、コロナ対応も多少は機敏だったのではないか、と私は考えています。

 今回のコロナに関してもやはり、それぞれの国の位置や大きさ、感染症対策の経験の多寡によって違ってきたということであって、人類全体がいつもこういう問題を解決ができない、そういう情けない存在では決してないと思います。

 他の課題を見てみますと、食糧問題には、ローマに本部がある国連食糧農業機関(FAO)とか、ノーベル平和賞を最近に受賞した世界食糧計画(WFP)などの組織が国連にあります。子どもの問題に関しては、UNICEFがありますよね。ここもまたノーベル平和賞を受賞し、子どもの問題に関しては世界的な権威となっています。それから、難民問題は、1990年代に大きな問題となりましたが、国連難民高等弁務官事務所がイラクなど中東で活躍したわけです。

 ですから、国連は常に無能であり、何もしていないのか、というと決してそうではない。それなりにやってきたわけです。WHOにしても、アメリカと中国の対立関係を反映して、今はちょっとばたばたしていますが、できることはやってきた。

 それなりにやってきたけれど、今回のような大きな脅威に世界中があたふたしている。工藤さんが言われたように、多くの人々が命を失った。しかも、最後の段階では家族にも誰にも会えないという悲惨な状況の下で亡くなっていく。これは現代においてあってはならないことです。その解消にこんなに時間がかかっている。対処が遅れているということは誠に残念なことだし、こういうことが二度とないように、人類は努めなければならないということだと思います。

川北:今、非常に本質的なことをおっしゃったと思います。国連というのはまさに名前の通り国家の連合なので、どこか大きな国家がトランプさんのような指導者によって一国主義的、あるいは強権的な国になっていくとなかなか上手くいかない、ということです。そこについては工藤さんはどう思われますか。


パンデミックという"本当のテスト"に直面している国連システムは、世界の危機に対応できる妥当な存在なのか

工藤:明石さんがおっしゃったように、国連の性格はまさに加盟国の組織です。加盟国の利害が対立したり、いろいろな政治的な動きに影響される、というのが国連の歴史だったわけです。ただ、その中でも明石さんをはじめとする多くの国連リーダーが世界の課題に現実的に挑み続けてきた、という歴史だということも理解しています。

 私も調べてみたのですが、グローバルヘルスも国際連盟の前の時代から、世界的な感染症、例えばチフスやペスト、スペイン風邪等の惨劇を受けて、世界的な対応に向けた専門家の努力がありました。そして、サンフランシスコ会議で国連憲章を作ったまさにその日に、この国際保健も議題になったわけです。そして、今のWHOの創設に向けた努力が始まり、国連憲章の第55条にも「保健的国際問題」の解決も国連の役割だと規定されたわけです。

 つまり、この国際保健の問題は国家だけでなく、いろいろな専門家たちの課題に向かい合う対応によって対策が作られていくという歴史でもあったということは忘れてはいけない、ということです。

 ただ、最近の国際政治は、こうした課題への取り組みよりも、全てを国家や国家対立という眼鏡で見る傾向が強まっている、ことに私は強い違和感を持っています。それが、人類の危機、人命の危機で浮き彫りになった。今回も、世界的な視野で対応を考える動きは、ワクチンの配分などの問題で動きましたが、こうした専門的な知見や情報の交流も政府間ではほとんど動きませんでした。

 なぜ、世界はここまで国家対立や国家の視点で考える傾向が強まっているのか。その中で国連システムは現実的に課題に対応する機能自体を失い始めているのではないか、これを私も明石さんに聞きたいと思います。私の疑問は、中国の台頭がその拠出額や影響力を通じて、戦後の米英を主体とした国際協力の仕組みやルールへの挑戦になっているのか、それとも、加盟国主体の国連システム自体が国家対立下で機能を発揮できない状況に陥っているのかということです。

 つまり、世界は共有の問題に対応する新しいガバナンスの在り方を模索する段階に入っているのではないか、と私は思っているのです。


国連の根底に流れているのはプラグマティズム。国連への理想と限界への模索は従来からあったが、そうした国連を活用する力を持つべきだ

明石:今や共産主義国家である中国という国が、国連の中で大変大きな存在になっている。世界経済の中でも第一位のアメリカに挑戦するような存在になってきている。それはいかにも新しい現象のようなのですが、中国という国は、実は1945年、国連がそれこそサンフランシスコというアメリカの都市で作られた最初から、国連という仕組みをどう作るかという作業に招かれており、意見も言うことができていた。国連安保理の常任理事国の一つにもなっている。それを推進した張本人がアメリカであるわけです。

 しかし、大陸でできた国民政府を打ち破って中国の政権を取った共産党が、中国の国連における議席を占めるようになったのは、かなり後の1971年ですよね。私はその時の国連総会の議場にいたので、アフリカの国々が異様に興奮して、万歳を叫んでいたのを覚えています。国際連合における中国代表権が国民政府から共産党政権に移ったということで、安保理における常任理事国の地位をそのまま引き継がれたわけですよね。ですからそこには、断続と継続の両方の部分があるわけです。

 以前の国際連盟は、アメリカのウィルソン大統領が主導して作ったのですが、それをアメリカに持ち帰ったら、上院が「そんなものに入るのは反対だ」と言ってアメリカは加盟しなかった。国際連盟が大アメリカに不利益なことをする際、それに対する拒否権を留保しないと加盟しないと。上院がそう息巻いたわけです。結局、アメリカは入らなかった。そういう嫌な思いを二度としたくない。そうしたくないがゆえに、国連の場合、5つの常任理事国が拒否権を持って、国連の中で戦うと。外には出ない、という意味では国際連盟に比べると、国連はかなり有効な存在として発足した。

 国連75年の歴史を振り返ってみると、冷戦期にはアメリカとソ連はお互いに国連の中で戦った。冷戦で戦い続けたのだけれど、朝鮮戦争の時などは、たまたまソ連が安保理をボイコットして、休んでいたので、その瞬間をとらえてアメリカは北朝鮮の侵略に対応することができたわけですね。ソ連が国連に戻ってきたら、今度はアメリカは安保理では行動できなくなったけれど、国連総会に問題を持ち込んで、朝鮮戦争も一応「国連軍」とされたけれど、実態はアメリカを中心に作られた多国籍軍が派遣されたと。そういう国連はプラグマティズムの精神でもって、いろいろな国際問題に対処してきたわけです。

 朝鮮戦争の時のみならず、1956年の中東危機の時にも、国連憲章の中には一言もそのような軍については書かれていないのですけれど、国連緊急軍を作ってしまった。ですから、日本のように「それは憲法に書いていないからしない」というような変な教条主義的ではなくて、根底に流れているのはプラグマティズムなんですね。

 現状がそれを要求するのならば、人類は国連を通じて立ち上がるしかない、という大変な決意をもって、国連を動かしてきたのは、そういう政治家たちであったし、ダグ・ハマーショルド事務総長のような非常に優れた国際官僚であったわけです。ハマーショルドは、「国連というものは何も人類を天国に連れていくために作られたのではなくて、せめて地獄に行かないために作られた存在なのだ」ということをいみじくも言っていました。そういうものすごい面構えの人たちが、国連をいろいろな危機から救ってきた。

 私もカンボジアの二十数年の戦乱の後で、新しい民主主義国家として誕生する時に、国連から出かけて行って、それを助ける仕事をしました。日本のマスコミも含めて世界中のマスコミは、カンボジア国内で国連に従わないポルポト派のもの凄い抵抗によって、国連の手による民主選挙は必ずや失敗に終わるだろうという路線で報道していました。しかし、我々は歯を食いしばってカンボジアの人たちが自由選挙を望んでいたために、我々はそういう気持ちを踏みにじることはできない、ということで国連の手で選挙をやりました。その結果、カンボジア有権者の90%が投票するという大変な民主主義の勝利となりました。冷戦後の国連にはカンボジアだけでなく、モザンビークでも同じようなことがありました。東ティモールやエルサルバドルでも国連は良い仕事をしました。

 しかし残念ながら、ルワンダで種族と種族の血で血を洗う戦いがあって、国連の2、300人のPKOは手も足も出なかったという経験がありました。同じようなことがソマリアでもありました。アメリカの兵士が14名殺され、またパキスタンの兵士は24名命を失いました。国連は何もできないのか。私がカンボジアの後に行った旧ユーゴスラビアも3つの民族の血で血を洗う戦いに対して、国連の事務総長はPKOを送っても何もできない、といって嫌がっていました。しかし、ドイツを中心としたヨーロッパ諸国が主導して、無理やり行かされたというのが実態で、3民族の間の実際の戦いに国連が入っても、手も足も出ませんでした。

 ですから、国連はできることもあるし、できないこともある。アルジェリアのラフダール・ブラヒミ(前外相)という私が非常に尊敬するPKOの親しい友達でもありますが、彼が2000年に「ブラヒミ報告」を出して、国連にはできることもできないこともあるのだと。できることに予算や人員を与えてくれるのであれば、国連はそれなりの仕事ができる。しかし、それ以外のことを国連に頼むのは間違いであると彼ははっきり言っていました。

 これは国連の理想と国連の限界、現実というものを両方理解した人の言葉だと思います。

川北:国連の役割と国の役割があり、そのバランスが大事だと思います。工藤さんが最初に提起された今回、台湾のような例外はありますが、民主主義の国や民主的な制度を採用している国でコロナの感染者や死者が多かった、つまり民主主義は感染症に対して有効ではなかったという議論が起こっている。中国はそれを捉えて、我々のシステムの方が勝っているということを内外で喧伝しています。

 今までお話いただいた国連の話から、国家の役割に話を移したいと思います。民主主義国が効果的に対応できなかった理由をどう考えていますか。


コロナ対応で明暗が分かれたのは体制の問題ではない。民主主義の失敗は、統治が市民の不安に向きあうよりも迎合し、出口に向けた危機管理を遂行できなかったこと

工藤:明石さんの思い、そして国連への期待も私は同じ思いです。それも踏まえての話になりますが、私は世界の民主主義国の医療の専門家とも議論をしているのですが、彼らがよく言うことは「政府ではもう無理だ」と。そして、その「政府の連合である国連にも限界がある、ということが今回はっきりわかった」と、つまり、世界の危機に個人は自分で身を守るしかない、との統治への深い失望があります。

 国連の理想と限界という問題と、国家というものの理想と限界が非常に被さってきているという状況にあると感じています。

 私は初め、これは国家における危機管理の問題であり、体制の問題ではないと思っていました。しかし、結果を見ると国ごとにあまりに差が大きすぎる。アメリカは感染者が2,960万人、死亡者数が53.6万人、イギリスは感染者数が427万人、死亡者数は12.6万人。日本は相対的には良くて、感染者数が44.8万人、死亡者数は8625人です。それは日本が成功したのではなくて、日本の多くの市民が自分を守るために動いたからだと思います。

 しかし、ベトナムは死亡者数35人です。先日、日本とベトナムの間でビジネストラックが開始されましたが、それによって日本に来たベトナム人が、ベトナムに戻って感染を持ち込んだということで大騒ぎになっていました。中国は感染者数が90,062人、死亡者数が4,636人。シンガポールの死亡者数は30人という状況です。

 こうした数字を冷静に考えてみると、多くの民主主義国が危機管理に失敗している、問題はなぜ失敗しているのか、ということです。多くの国と議論していると、感染症の封じ込めではやるべきことは決まっています。感染者を早く見つけ、感染者と接触している人を速やかに把握して、その人たちを検査し隔離して、適切な治療を行う。また海外からの流入に関しては入国を制限して、適切なルールの下に管理する。それをやっている国が犠牲者は少ないのです。

 ベトナムの死者数がなぜそんなに少ないのか、ベトナムの人に聞いたところ、SARSの経験から、WHOは人と人の感染は報告されていないとしていた段階でも、中国からの入国を停止したということです。ベトナムは中国からかなり批判されましたが、入り口で抑えたことが、その後の成功につながったと言っています。

 私は、こうした世界の感染症の状況と取り組みを見て、感染症の"ベストプラスティクス"はあることに気づきました。自由意思に基づく体制である民主主義がなぜうまくいかないのか、それは統治側がこの危機を管理できず、市民の信頼を取り付けなかった、からだと思っています。感染症を封じ込むにはその出口に向けた長期的な危機管理のプランが必要ですが、市民側の信頼を得ない限り、及び腰にならざるを得ない。 

 つまり、やるべきことをやらず、自滅している国が多いわけです。その自滅も、例えばマスクをすることが自由の侵害にあたるとか、ソーシャルディスタンスをとることは、自分たちのような自由な国には無理だとか、そういう話まである。市民の不安に向かい合うよりも、あえてコロナが深刻ではない、とか安全を装うことで、市民の不安に迎合し、その被害をさらに拡大してしまう。

 これは民主主義そのものがおかしいのではなくて、民主主義の統治自体が信頼を失い、機能不全に陥っていたのです。この修復に私たちは、かねてから取り組もうと提案し、その作業を昨年から始めていました。コロナの危機はその時に、私たちを襲ったのです。

 ただ、私はこの先行きにそう悲観していません。日本がその典型ですが、多くの人は自ら行動を自粛し、マスクをつけソーシャル・ディスタンスを徹底しています。こうした自律的な行動は、不安に迎合するだけの統治には厳しく、世界の危機に苦しむ多くの人たちの思いを共有しています。

 国家もそうですが、国連も同じで、それに直面する課題を、むしろ、私たちが活用していくという形にならない限り、危機に対するガバナンスは機能しないと思っています。

 今回の「東京会議」で、全体テーマを「私たちは国際協調と民主主義をどう修復するのか」としたのは、実はそういう問題意識があります。

 これをただ国家対立や国家の問題として絶望するのではなく、私たちの問題としてその修復に取り組みたいのです。


民主主義を諦めたり、これが最高の制度だということで誉めつくすのではなく、民衆の思いを一番反映させた制度としてよりよいものにしていく

明石:私も工藤さんが言ったことに異論はありません。民主主義であるかどうか、ということではないのです。民主主義でない国の方が効率的に行動したのではないか、という意見に対して、私は民主主義と別の問題だと反論します。

 例えば、大変成功した国の一つとしてニュージーランドが挙げられます。民主主義であるにもかかわらず、様々な条件を整えたモデルとも言うべき国だと思います。シンガポールも民主主義国家としての体裁は取っています。失敗した国のトップとして挙げられているのはアメリカですが、アメリカもトランプとバイデンの戦いを見ても、これが民主主義の大先祖と言える国なのかと、我々は嘆息したわけですし、バイデンだってかなり僅差でやっと勝つことができた。4年後、トランプが戻ってくるとも言われています。

 私は1776年にフィラデルフィアに集まった老練な政治家たちが侃々諤々の議論をして作った米国憲法というものは、世界に冠たるものだと思います。また、人間というものは権力を持たせると、どうしても独裁者になりたがる傾向があります。だから、人間性の中の悪い部分もよく理解したハミルトンやマディソン、フランクリンという人たちが懸命になって議論して、作った三権分立の制度は学ぶべきものをたくさん持っているし、大きな国で連邦制度をとっているがゆえに、アメリカは政策決定に色々な労力を費やしている。それはその通りなのですが、世界中の国々がやはりアメリカを一つのモデルにしていることは理由のないことではありません。

 イギリスのジョンソン首相やブラジルのボルソナーロ大統領は、ポピュリズム的だとは思いますが、チャーチルが言ったように、民主主義は最悪の制度である、しかし他の政治制度を除けば、という皮肉に満ちた民主主義の見方、これは一つの大人の見方だと思います。我々は決して民主主義を諦めたり、その反対にこれが最高の制度だと誉めつくすのではなくて、民主主義は民衆の思いを一番反映させた制度であるならば、そういう制度としてよりよいものにしていく。アメリカのような大統領制度よりも議院内閣制の方が良いということであれば、そちらを選ぶ国も出てくるでしょう。

 私は、中国だって人民民主主義というものがあるし、武漢においてコロナが一昨年の12月に感染し始めた時に、武漢日記を書いた元武漢の作家連盟会長の女性の書籍は大変優れた本でした。それを読むと、中国は中国なりに考えて強権的な面は確かにあるけれども、それなりに全力を尽くしたことは認めてやるべきではないか、とも思います。ですから、民主主義対独裁主義といった単純な分け方をすべきではないと思います。

川北:工藤さんからは刺激的な問題提起があり、明石さんからは国連の問題にしても民主主義の問題にしてもコップに水が半分しかなくても、希望を持って楽観的にとらえていくことが大事だという非常に大切なことをご指摘いただきました。

 今回の「東京会議2021」のテーマである、国際協調と民主主義の修復ということですが、バイデン大統領は就任前に、一年目に世界民主サミットを主催してもう一度テコ入れする、ということを言っています。それに先駆けて「東京会議」は民間の場でこういった問題を取り上げようとして、5年前から開催されています。今回の議論にどういったことを期待し、成果を目指していきたいとお考えですか。


世界の自由や民主主義を守るために、私たちはどういう局面にいるのか。今回の「東京会議2021」では、それを本気で考え、問いかける

工藤:バイデンさんが言っている問題提起は本質的なものだと思いますが、その提起があたかも国家対立という形に収斂していくとしたら、それは残念なことです。

 つまり、米国の提起は、中国封じ込め、中国対民主主義の国、権威主義対民主主義のような形に現実的にはなっています。しかし、そうした構造を我々はきちんと押さえつつも、民主主義国家は投票によって成り立っているわけですから、私たちがどう受け止めるか、という点から始めないとこの問題の解決に向けた議論の土俵づくりはできません。

 中国の行動に民主主義国家は団結しよう、ということは図式的に分かりやすいのですが、この問題はそんな単純なものではなくて、今までお話があったように、民主主義国が人々の健康を守ることに失敗している国がなぜ多いのか、ということも私たちは考えなくてはなりません。

 民主主義という制度は不完全な仕組みであり、絶えず改善していかなければいけない。そして、何よりもこの仕組みが、権威主義国と異なるのは主権者は我々、だということです。我々が、この国の課題を自ら考えず、権力を持つ統治にそれをただ委ねるとしたら、権威主義国と何が違うのか、ということなのです。民主主義が危機に対応し、我々の幸せに資する仕組みになれるかは、私たちにかかっているのです。

 私たちが、「東京会議」で今、世界はどんな困難に直面しているのか、我々が最も大事に考える、世界の課題での国際協力、そして民主主義、自由な経済秩序の修復を議論に題材にしたのは、それこそ、私たちが今、考えるべき課題だからです。

 世界の国が内向きになり、社会の分断が国民の連帯を壊しています。自由な経済とグローバリゼーションの将来も、私たちの民主主義に関わる問題です。こうした問題に真剣に向かい合うために世界を代表するシンクタンクや世界のリーダーも個人の資格で集まります。

 私たちの「東京会議」というのは、民主主義国が国家として連携するための会議ではありません。民主主義国にいる専門家や課題解決に挑む人たちが本音で議論してみよう、その議論を世界に提起して、世界が今の状況を考えるということに具体的な問題提起をしていこう、という会議です。

 そして、今回の「東京会議2021」でそれを本気で考え、問いかけることをきっかけに、世界の中で、世界の危機や民主主義や自由のこれからに、我々はどういう風に向かい合えばいいのか、それを考える大きな流れを世界の民主主義国に作れないか、と思っているのです。

川北:今、工藤さんが重要な点を指摘されました。明石さんが言われたポピュリズム、その根がどこにあるのか、ということを考えた場合に、格差の問題は避けて通れないような気がしています。この格差が労働者階級であったり、見捨てられたと感じているような人たちの怒りや絶望を醸成して、民主主義に対する忌避観、あるいは自国の政府に対する信頼を失わせているというような傾向が見て取れます。それがポピュリズムに繋がっているのではないかと考えるところもあります。

 民主主義を再生していく、社会的な連帯感を強めていくという上で、工藤さんがおっしゃった、自由主義経済、格差の問題をどういう風にして、私たちは考えていかなければいけないと思いますか。


民族と民族をお互いに尊重し合い、お互いの友人としての存在し続けることが衝突しないためのクッションになる

明石:その通りだと思います。経済的な意味での自由主義の問題、ないしは人権や自由の問題。これはそれぞれに非常に大事だし、人類の遺産というべきもので、国や民族に関わらず尊重されるべきものだと思います。

 まさに、アメリカや中国というように国籍と関係なく、我々は尊重すべき価値というもの、その中には良い意味でのナショナリズムも入ってくると思います。工藤さんが16年にわたって開催している「東京-北京フォーラム」で、初めからの協力者である中国人民大学新聞学院院長の趙啓正さんが、人民大学で私と一緒に中国人の聴衆の前で話をしたことがあります。趙啓正さんはそのスピーチの中で習近平さんがいう「中華民族の夢」を我々は見ていこうではないかと言って話を締めくくり、聴衆は拍手で湧きました。私もその後に、日本民族にも「日本人の夢」というものがあるので、それも忘れてもらってはいけません、といったら中国人の聴衆が私にも拍手をしてくれました。

 そのように、民族と民族をお互いに尊重し合い、お互いの友人としての存在し続けることが色々な国、色々な民族、色々な文化が余計な喧嘩や対立、衝突しないためのクッションになり得るわけです。そういう認識や思いやり、尊重の気持ちを持つことも、これからの世界では不可欠なことだと思います。

川北:まさに「東京会議」は、今話題になり始めている民主主義10カ国D-10の先駆けであるということを実感しています。22日、23日の議論を楽しみにしております。今日はありがとうございました。