2011年7月22(金)収録
出演者:
武田徹氏(ジャーナリスト)
司会者:
工藤泰志(言論NPO代表)
第1話 日本のメディアの原発報道をどう評価するか
工藤:こんばんは。言論NPO代表の工藤泰志です。さて、言論NPOでは、3月11日の東日本大震災以降、「言論スタジオ」と題して、様々な議論を行っています。今夜は、少し形式を変えて、対談方式で「原発報道とメディアの役割」ということについて、議論したいと思います。ゲストは、ジャーナリストで大学でもメディア社会学を教えていらっしゃる武田徹さんです。武田さん、今日はよろしくお願いします。
武田:よろしくお願いします
工藤:実は、「原発報道とメディア」というのは、武田さんが6月初めに出された著書のタイトルでもあります。ただ、私自身も非常に関心のあるテーマで、ぜひ対談を、ということで、今日の対談が実現しました。原発の存在について、これまで意識的にその存在を、考えないようにしてきたのか、忘れているような状況だったのですが、3.11を境に、危険な存在であるということを改めて思い知らされました。原発を巡った報道というのが、膨大な量で色々な形で出されて、私も戸惑うことがかなりあったのですが、多分、こういう報道を契機に、私たちが考えなければいけない問題について、改めて考える機会になったのではないかという風に思っているわけです。
そういう点で、原発報道を通じたメディアの役割というところまで、今日は話を進めていければと思っております。
さて、早速、武田さんにお聞きしたいのですが、この震災、原発事故以降、報道はきちんと真実を伝える努力がなされていたのか、あるいはしていたのか、その辺りについてどう総括されていますか。
真実は伝える努力はしたが、適わなかった
武田:そういう文脈で言うと、真実を伝える努力をしたけどかなわなかった、という言い方が一番いいのではないかと思います。その場合の報道というのは、マスメディア報道もそうだし、ネットメディアもそうだったのではないかと思っています。
工藤:それは、どうしてですか。もう少し詳しく教えてください。
武田:それぞれに、自分の手の届く範囲で事実を確認しようとした。ネット上ではマスメディアは情報を隠蔽しているとか、色々と言われていますが、そういうことがもしあるのだとしたら、今後出てくるかもしれないとも私は思っています。それは、検証を待ちたいと思っていますが、その話を置いておいて、マスメディアの中にも、ちゃんと取材をしている人が間違いなくいて、その人たちは真実を伝えようとして、努力をしていたと思っています。ただ、原子力関係の報道には、独特の難しさというものがあって、やはりあのような事故になってしまうと、サイトの中は防護服がなければ近づけないような状況です。実際に、マスメディアが自前の取材ができたかというと、それはできないわけです。
それで、東電や政府なりの発表からそれを解説するというところから、報道を始めざるを得なかった。それは、マスメディアの限界であって、そのレベルの中で真実を求めようとしても、やはり届く範囲、リーチできる範囲には限界があります。そういう問題が、マスメディア側にはあったと思います。
一方で、ネットメディア側というのは、自前の取材力があったかというと、ガイガーカウンター等を持つ人は増えてゆきましたけれど、正確に使えていたかどうかとか、あるいは、ガイガーカウンターの数値の意味をどういう風に解釈するかとか、そういうことは、かなり難しいレベルの話でありまして、そういうところまで含めて、うまくいったかというと、まだまだだったと思います。もちろん努力はされているし、凄く誠実に作業されたことに対しては、私は本当に敬意を持っていますが、マスメディアも、ネットメディアを通じて発信する市民ジャーナリストも、それぞれに弱さみたいなものが見えてきたというのが、現状ではないかなと思っています。
工藤:確かに、メディア報道を見ると、記者会見をベースにしてやらざるを得ない状況があったのですが、政府なり東電を含めて、発表の仕方そのものが後手に回ってしまった。当日、ある程度の状況証拠から、専門家から見れば、こういう事になっているのではないかとの観測はできたのですが、数ヶ月ぐらい経ってから、初日から燃料棒が露出して、炉心溶融が起こっていて、下に落ちて「メルトダウン」しているという、かなり大変な事態が、「後から分かった」という状況になりました。
「メルトダウン」の言葉はなぜ後から使われたか。
武田:その辺について、私は、単純化しないほうがいいと思っています。私は、震災当日海外にいました。情報的にはかなり制限されていましたが、海外にいてアクセスできる情報の中で、冷却水を失って、かなりの時間、空焚きの状態であったと聞いたときに、崩壊熱の熱量を考えれば、おそらく燃料棒はもうそれまでのかたちをなしていないだろう、ということは分かりましたよね。それは、ある程度、原子力発電のメカニズムを知っている人であれば、間違いなく想像できたレベルの話だと思っています。ですので、「後からわかった」というのは、ちょっと微妙な言い方だなと思っています。しかし、それを「メルトダウン」と言わなかったのは間違いなくて、そこに関しての議論は必要だと思うのですが、ここもやはり、隠した云々とは違う視点で議論も必要だと思っています。
要するに、「メルトダウン」という言葉が、ある種、強く刺激する言葉であるが故に、使えなかったというか、使いにくかったということは間違いなくあると思います。だからといって、使わなくていいのかということは、また別の問題です。ただ一般論として考えたときに、その言葉が使いにくかったことは間違いなくあって、もしかしたら、そのことを考えたという可能性も無いわけではないと思います。そんな可能性がある以上、何で使えなかったか、ということを考えるべきだと思っていて、例えば、東京の浄水場で、放射線量が発見されたときに、大人が飲料するには、ほとんど問題がない状況だったにもかかわらず、ペットボトルを、あんなにも買い占めるわけですよね。そういうような国民が背景にいるときに、「メルトダウン」という言葉を使えたか、という風に思うと、もし使っていたら、私は、都市機能が崩壊するようなかなりのパニックになったのではないか、と思っています。
もし、そういう風に想像できた時に、その言葉を使うか使わないかということについて、報道する側はかなり責任感を持って選ばなければいけないことだと思うので、もしその辺りの判断をしたのだとすれば、単に遅らせただけではないようなニュアンスがあったのかもしれません。ただ、それについては、ちゃんと検証するべきだと思っています。
工藤:今の話は、メディアが自覚的に報道しているのであれば成り立つのだけど、知らないかもしれませんよね。
武田:私は、単純化が一番危険だと思っていて、メディアの方もさっき言ったように、崩壊熱がどれぐらいかということについて、分かっている人がどれぐらいいたか、ということは、まず問題としてあります。原子力の知識を持っている記者が、どれぐらいの数、今の報道機関の中にいたか。報道で原子力の知識が必要とされたのは、ある意味で、東海村の臨界事故が最後の出番だったわけでありまして、それから10年以上経っているわけですから、おそらく現場で動く人の中には、放射線に関する知識を必要に応じて、仕入れてきたような経験がない人が多かったのではないかと思っています。だとすれば、そこの問題点があって、もしかしたら知識の不足によって、伝えられなかったということはあります。その可能性はもちろんあります。一方で、知っている人がいた時に、彼らがわかっていたけど表現で配慮したという、そういう仮説を立てられないわけではないので、その辺りは、メディアの現場の知識量がどうだったか、それは個々のメディアによって問われるべきであって、マスメディア全体という風に大きく括ってしまうと、見えるものも見えなくなってしまうと思います。
政府説明に対する「作為責任」と「無作為責任」
工藤:その話の以前に、政府がその状況をきちんと判断していたのか、ということもありますよね。それが無かったら、全然、何もわからない状況で慌ててしまうことになります。
武田:おっしゃる通りだと認めた上で、あえて分析的に話してみると、何か情報を提供する場合には、作為責任が問われる場合と、不作為責任が問われる場合というのがあって、たとえば危険を報道することの作為によって、何らかのある種の報道被害的なものが出てくる、あるいは、政府の場合も、発表することによって、その発表によって被害が生じる場合、作為責任が問われる場合がありますよね。一方で、報道しない、発表しないことによる不作為責任が問われる場合があります。わかっていたのに伝えなかっただろうと。
工藤:日本からの待避を伝えたフランスが作為ですね。
武田:フランスと日本の場合は、ある種、向き合った関係になると思います。でたとえばその生活から離れるということは、ある種のリスク源になる可能性があるので、危険を伝えて避難を求めことにはる作為責任が重く問われる。危険だと言ってしまうことによって、逃げてしまって、今の生活ができなくなってしまうという問題がありますよね。
工藤:ありますよね。だから、本来、政策決定の人たちは、そういうことも判断して、その場合は、統治とかガバナンスがかなり効いているということが前提ですよね。
武田:前提ですよね。でも、その前提がどうかはわかりませんよね、それは。
工藤:分からない可能性が強いような気がしています。そうなってくると、それがかなり不安を煽って、メディア報道もそこに引きずられてしまうという問題もありますよね。
武田:ただ、分からないところからしか始めざるを得ないところがあって、確定的ではないのですね。そこが、少しやっかいかな、と思っています。
工藤:後から本質的な議論に入るので、まず、周辺の話をもう少し伺いたいのですが、最終的にメルトダウンが起こって、燃料棒が下に落ちていっているという状況がありました。あの時に、ひょっとしたら水蒸気爆発となる危険性があった。それこそ今だから、言える、という話かもしれませんが、そうだとすれば。よく、大丈夫だったなと。
震災当日のリスクをメディアは理解していたか
武田:可能性はあったと思いますよ。ただ、炉の温度については、センサーは始めの頃はかなり生きていたので、それを見る限りは、水蒸気爆発までゆくかな、という感じはしました。もちろん、ゼロではないと思いましたが、炉の中の圧とか、温度を見ている限りは、何とかなるかな、という期待をしながら、私は見ていました。もちろん、そこでも、非常に大きなリスクがあることは認めていましたし、そのリスクが現実化する可能性もあるとは思っていましたが、その先は、さきほどの作為責任、不作為責任みたいな話になると思います。私、大学で教えていたりしますので、一番近くにいて、守らなければいけない立場の人のことを考えたときに、たとえば東京の自分の学生のことを考えますよね。もう逃げろというべきか、もう少し様子を見ろというべきか。炉の温度とか圧を見たときには、私は、今の段階ならまだ大丈夫だという風にあえて言いました。それは、確定的な事実を言っているつもりはなかったです。ただ、そういう風に言う方に賭けるというか、その時点でどちらを言うにしても、賭けだと思うのですね。でも、その賭けが当たったときにどうか、はずれたときにどうか、という風に考えた上で、賭けているというレベルの話ですよね。
工藤:そこで、さっきの作為か不作為か。フランスはメールを流して、国外に出たらどうとか、80キロ圏は離れろ、とかいう議論がありました。だから、これについては、まだまだ解明しなければいけない問題があるけど。
武田:そうですね。遡って議論しなければいけないと思います。
工藤:ただ、今回は、かなり危うい判断が問われる局面だったわけですよね。
武田:臨界爆発に関しては...
工藤:それは間違いだということですよね。
武田:これは可能性はゼロではなかったと思いますが、水蒸気爆発の危険よりもかなり少ないと思います。で、何でその話が出ないのか、というところはよくわからないのですが、軽水炉の燃料の濃縮率で言えば、臨界はしにくいというのが、ある種物理的な法則性にありますから、確率的には低いことは間違いありません。では炉の構造が壊れたときにどうなるのかというのは、大抵は壊れれば、安全側に振れるのですが、壊れたときに、むしろ危険な状況が瞬間的にできて、臨界する場合もありますから、可能性としてはもちろんゼロではありません。ただ、新聞や夕刊紙などで書かれていたのは、ちょっとリスクを多く見積もり過ぎている感じはしました。ちょっと、ためにする報道のような気がしました。それに臨界ということが全然わかっていない原子力に関する知識がないにもかかわらず、臨界ということを書くのはなぜ、みたいなところは気になりました。本人達が、臨界のメカニズムを分かっているわけではないのに、こんなに大きな見出しで書くというのは、ちょっと無責任かなという気はしました。そこは、私は嫌でしたね。
工藤:それはそうですよね。メディア報道で、放射能がやってくるとかね、防護マスクを表紙に使った「アエラ」もあります。ああいうのも、違和感を感じます。
武田:でも、実は間違ってはいなかったというか、そこが厄介なのですが。ですから、この問題は、凄く難しいのですね。後で話がでるかもしれませんが、放射線だけを考えれば、人工的な放射線は当たらない方がいいのですよ。そこだけ考えられれば間違いはないのだけど、人間の周りにあるリスクというのは放射線だけではないので、その時にどう考えるかという話ですよね。
工藤:そこはまた、難しい問題がありますね。ここで、一度休憩を挟んで、次に続けたいと思います。
7月22日、言論NPOは、言論スタジオにてジャーナリストの武田徹氏をゲストにお迎えし、「原発報道とメディア」をテーマに対談を行いました。