2011年8月26(金)収録
出演者:
立谷秀清氏(福島県相馬市長)
司会者:
工藤泰志(言論NPO代表)
第一部 被災者の救援とライフラインの確保
工藤:こんにちは。言論NPO代表の工藤泰志です。言論NPOでは3.11の震災から「言論スタジオ」と題して様々な議論を行ってきました。今日は、震災から半年が経って、被災地に問われている現状、課題は何かについて議論したいと思っております。ゲストは、福島県相馬市長として被災地で陣頭指揮を執っている、立谷秀清さんに来て頂きました。立谷市長、よろしくお願いします。
立谷:よろしくお願いします。
工藤:福島県相馬市というと、私も調べたのですが、東京から約300キロ、それから福島原発から相馬市の中心まで約45キロ。あと、津波のあった海岸線に面していまして、人口が約3万8000人という都市ということです。つまり今回の3.11では地震、津波、そしてその後では風評被害という形で追い打ちがかけられた。
立谷:原発と言うことですね。風評というのは4つめですよね。
工藤:その中で、陣頭指揮を執って被災地の救済、市民の救済、市民の生活再建に向けて動かしているのが立谷市長なのですが、この5カ月を一言で言うのは難しいと思うのですが、今どの状況に来ているという風に見ればよろしいでしょうか。
まず孤立者の救出、同時に避難所の開設
立谷:最終的な地域の設計、これは復興とか、地域再生、地域新生という言葉で表現するべきなのでしょうけど、その途上です。我々は短期的に何をすべきか、中期的に何をすべきか、あるいは長期的に何をすべきか、ということを考えてやってきたのですけど、中期的な目標としては、仮設住宅に全員入れるということだったのです。あるいはその仮設住宅でどうやって皆さんに生活してもらうかということなのですけれども、やはり短期的には、被災直後といいますと、今回は津波でしたから、孤立している人がいっぱいいたのです。孤立したというのは、例えば物資が届けられない、通信が思うに任せない、通信は全体的な問題でしたけどね。物資が届けられない、あるいはそこから救出できない、まあ救出できないということと物資が届けられないということはほとんど一緒ですが、微妙に違います。そういう方々が100人ぐらいいらっしゃいました。この方々の救出が一番ですね。それと同時に、避難所を開設しまして、避難所に入っていただいた方は一応助かりました。まあ、次のテーマも出てくるのですけど、とりあえず避難所に入っていただく。避難所には入れない方、入って頂いていない方というのは、孤立しているか、あるいは行方不明になっているか、あるいは死亡したか、ということです。
ですから、避難所に入っていただいた人達と、住民基本台帳を突合していくのです。そうしますと、突合して、そこから外れた人達は、我々としては今まだ問題を抱えているという認識です。その対応に追われたのが、最初の2日間ですね。孤立者がいなくなって、亡くなっているか、行方不明者かどちらかでしょう。孤立者が無くなって、一応考えられる人達はほとんど避難所に収容したか、あるいはご親戚の所に行っているか、それまで2日間ですね。
集落ごとに避難所に入ってもらう
今度は避難所の基本的な体勢を組むわけです。まず、できるだけ集落ごとに避難所に入っていただくということです。それから、次の問題としては、避難所にお預かりした以上は、そこから死者を出さない事が、直後の大きな目標なのです。ですから、その段階では相当、津波によって被災して、流通というか、お店か何かが痛んでいるわけです。ライフラインも痛んでいるわけです。そこで、避難所でスムーズに生活していただくには、どうしたら良いか。これは直後にやったことなのですが、集落ごとにまとまって避難所に入っていただいて、避難所は何せ被災者が多かったですから、市内の公共施設を全部使いました。全部使ってやっとくらいでした。
工藤:何カ所ぐらいでした。
立谷:十数カ所だったと思います。学校から何から全部使いましたから。そうやって避難所に一応落ち着いていただいて、避難所での基本的な生活、これは仮設住宅が出来るまで続くわけです。もう1つは、市内のアパートを次の日にすぐに押さえました。また、旧厚生省関連のが作った雇用促進住宅というのがあったのです。古くて使わなかった住宅をこじ開けまして、そこも若干の手直しをしただけです。そこに5、60世帯だったと思うのですけど入っていただく。それから雇用促進住宅の様な集合住宅で使っていないところに入っていただく。残った方はやはり避難所に。避難所に入った方々のことでは、出口はどうなるのかと言うことを考えるのですね。最終的にはやはり、終の棲家ということになるのですけれども、それまでには2年とか3年かかる話になります。そうしますと、避難所で暮らす期間をできるだけ短くする。具体的には仮設住宅ということです。
ですから、被災した夜に仮設住宅が果たしてどのくらいできるものか。私は次の日が明けたら、仮設住宅の争奪戦になると思っていたのです。ですから夜中の内に。
工藤:被災した当日の夜に次のことを考えていたということですね。
立谷:当然、一晩あるわけですから。皆で無い知恵を絞るわけです。それで全部対応できたのかというと、これをやれば良かったというものが出てくるかもしれませんけど、あの段階では皆無い知恵を絞って、いま何をしなければならないか、いま何を準備しなければならないか。夜が明けたらということを考えながら、一晩過ごしたわけです。やはり早急に手当しなければならないのは、仮設住宅の申込みです。恐らく争奪戦になると思いました。それから、アパートと言いましたけど、市内のアパート、不動産屋さんにお願いして、全部押さえました。まあ、それでも抜けているのがあったのですけど、考えられるものは全部押さえた。ですから、ある程度仮設住宅というか、それぞれの被災者の方に竈を持ってもらうことですね。それを前提として、その間まで避難所で暮らしてもらいましょうということなのです。避難所にどんどん人が入っていくということは当然予想がつきますけど、何人になるかというのは、被災した夜の段階ではわからない。だんだん確定していくことになります。やはり地方自治というのは戸籍の番人です。それが基本です。つまり住民基本台帳と突合して、今、行方不明もしくは死亡している可能性がある人は何人かと。その数をだんだん小さくしていくわけです。ですから、被災した夜考えたのはそういうことだったですね。
工藤:まず避難所に入れて、それから仮設住宅に入って、仮設住宅を出るという全体的な行程のイメージがそのときにもうあるわけですね。
立谷:それは、工藤さんだって同じことを考えるでしょう。
工藤:でも、それ早い、かなり早い。
立谷:誰が考えてもそうなりますよ。だから、その後どうするのということを考えると、そこから戻って、いま何をしなければいけないかということだと思います。
工藤:リスクマネジメントそのものですね。
やはり必要なのは水、給水車を手当てした
立谷:ですから、例えばですね、その段階で一体何が足りないの、その結果どうなるの、というようなことを想像するわけです。ですから、被災した夜ですと、ライフラインが相当壊れていますから、仮に避難所に連れてきても、避難所の水道が止まったらしょうがないわけです。避難所で炊き出ししなくてはいけないのですが、その炊き出しするための水道がとまったら、これもできないです。実際そういう経験をしましたけど、ある業者におにぎりを夜の内に用意してくれと頼んだら、水道が止まっているから駄目だと。市内各所でそういうことがありました。そうすると、今度は給水車が欲しくなるわけです。給水車は相馬市に1台しかありませんから、福島県内の市町村に「給水車を貸してくれ」と電話するわけです。でも、みんな地震で駄目なのです。それで結局、姉妹都市である千葉県の流山市。それから、防災協定を結んでいる静岡県裾野市、それから東京都の稲城市、これは市長さんと友達。この3市から給水車をよこしてもらって、次の日の朝来てくれました。こういうのは、スピードが勝負だということはみんな分かっているのですね。結果として、給水車は全部で4台になりました。あの時のことを今一言で言えといわれても、なかなかできません。色んな事を考えたのですけど、やはり必要なのは水です。被災した人達にとって直近で必要なのは「水」です。後は、医療ということになるのです。今回の津波の被害の特徴は、これは法医学の先生方に色々と聞いたのですけれども、私も死体の検案所に行きましたけど、特徴としては、中等傷の方がいないのです。つまり、助かった方の中に、中等傷・重傷の方がいないのです。亡くなったか、軽傷か、どちらかなのです。というのは、やはりおぼれて溺死されたのではなくて、死因はたいがい圧迫死なのです。つまり、波の圧力です。瓦礫に挟まれて亡くなったような、そういうケースが多いです。従って、医療が、例えば重傷の方がどんどん来たとか、火災なんかだったらそうなりますね。中等傷、例えば出血で循環血液量が足りないとか、点滴しないといけないですね、そういう方よりも怪我をなさっている軽傷の方ですね。ですから、軽微な怪我をなさっているか、亡くなっているか、あるいは何ともないか、なのです。ですから、直近というか、すぐに医療を組み立てなければならないような状態ではなかった。
今回、相馬市内では、ライフラインは壊れましたけど、いわゆる都市機能は保たれました。被災というか、津波をかぶったところに、例えば病院とかですね、医療機関はなかったし、介護業者もいないのです。そっちのほうは波が来ないところで保たれていたのです。ですから、これは大きなポイントになっています。そうしますと、医療はその後から組み立てればよい。そうしますと、被災して避難所に入った方々の避難所に入れ方、集落ごとに出来るだけ纏めたい。仮設住宅ができるまでは、数ヶ月かかるだろうというのは想像がつきます。そうすると、それまでの数ヶ月間の暮らし方ということを考えたら、先ず被災地ごとに小さくてもガバメントをしっかりさせていかなければいけない。そのためには地域コミュニティを使うというのがやはり一番ですから、例えば原釜という地区は中村第一小学校に入って下さとか、そういう大雑把な振り分けるわけです。
反省としては、もう少し厳密にやってもよかったかなと思っていますけれども。ちょっとそこは難しかったかもしれませんけれども。我々で知恵を絞って何とかやったのですけれども。
工藤:これを聞いている人は、市長だけではなくて、職員も含めてきちんとした意思決定のガバナンスが機能していること、そういう形の動きをさせる仕組みになっていることに驚いている、と思います。たった1日ですよね。
なすべきことを1枚紙にまとめ、市職員すべてに周知
立谷:仕組みというか、これはやはり災害対策本部として方向性を統一しないといけない。ですから、被災した夜の朝の3時だったですけど、これからやらなくてはいけないことを1枚の紙にまとめました。その紙に書いてある現場の情報をみんなで共有したのです。対策本部には市の部長クラスが入っていますから、その部長さんが自分の部に持ち帰って課長さんにコピーして渡すのです。課長さんはその課の係長さんですとか、全員に渡すのです。それは自衛隊員にもいったし、消防にもいきました。ですから、1枚のシートで大体その方向性とか、情報とかを共有するという形でやっていました。そういうマニュアルがあったわけではないのですけれども、短期的にはこれをやると、長期的にはこういうことをやる。私が書いて、それを副市長が各課に振り分けるわけです。例えば、夜中にあれくれ、これくれ、と電話していますから物資が入ってくる。副市長が振り分けたのですが、その物資は教育部が担当しなさいと。教育部長が物資の受取を担当しなさいと。ライフラインだったら、水道ということになるし、例えば電気は企画政策部がやりなさいとかね。相馬市の副市長は生え抜きですけど、優秀な副市長で、人間もしっかりしているし、彼が仕事を振り分けるわけです。市長の言うことを聞くかどうかは分からないけど、副市長の言うことは皆聞く。ですから、じゃあこの副市長だったらみんな言うことをきいてくれるのではないかと、それで、一応やることを統一して、会議で機関決定して、勝手なことはしないでくれ、それには全員したがってもらうということです。
工藤:分かりました。ちょっとここで休息を挟みます。今、これまでの取り組みの内容が分かりましたので、それから課題の議論に入って行きたいと思います。
8月26日、福島県相馬市長の立谷秀清氏をお迎えし、被災地にとわれている現状、課題は何かについて議論しました。