参加者:小倉和夫(国際交流基金顧問)
宮本雄二(宮本アジア研究所代表、元駐中国大使)
木寺昌人(元駐中国大使)
司会者:工藤泰志(言論NPO代表)
9月29日の「日中国交正常化50周年」を記念して、非営利シンクタンク「言論NPO」は28日、オンラインによる特別企画を開催しました。第一セッション「元外交官3人が語る日中国交正常化50年とは」、第二セッション「国交正常化後の日中関係の未来を考える」、第三セッション「民間外交は今後の日中関係にどのような貢献ができるか」──三つの議題に関して、「東京─北京フォーラム」ゆかりの日中両国の学識経験者、外交官らが活発な議論を交わし、100人を超す傍聴者が熱心に聴き入りました。
第一セッションには、日中国交正常化交渉時の外務省アジア局中国課首席事務官として奔走した小倉和夫・国際交流基金顧問、日中関係が最も悪化した2006~10年まで駐中国大使を務めた宮本雄二・宮本アジア研究所代表、2012年の沖縄県尖閣諸島国有化問題に対処した木寺昌人・元駐中国大使の三人が参加。司会は言論NPO代表の工藤泰志が務めました。
日本外交は日中国交樹立を通して何を実現しようとしたのか
冒頭、司会の工藤が1972年7月の田中角栄政権発足前後の国際環境に関して「日本と中国が外交樹立した50年前、直前にニクソンショックが起き、米国の外交政策が変わった。沖縄返還以降、日本外交はどのような目的で、日中国交樹立を通して何を実現しようとしたのか。さらに50年経った今、満足できる状況と言えるか」と問題を提起し、議論はスタートしました。
この点に関して小倉氏は、中華民国政府(国府)と中華人民共和国政府(中共)間の中国国連代表権問題(1971年)などを例に挙げて「当時の国際情勢に合わせて日中関係を正常化した。国際社会において日本が孤立してはならないことが大きい。さらに対ソ戦略、経済関係の安定化のために国交正常化しなければならなかった」と振り返りました。さらに四番目の理由として「対米牽制」があったと言及。「外交的接触は米国が先だったが、正式な外交関係の樹立は日本が先にしなければいけないという隠れた意識があった」と述べ、当時の外交当局の真意を説明。その上で「『関係正常化』は72年9月29日に一気にできたわけではない。正常化されたのは一つのプロセスであって、準備段階を含めて長い時間を掛けて、その後も少しずつ正常化がなされてきた。悪くなったり良くなったりという波がある。今も進行しており、皆が努力していかなければならないものだ」との認識を示しました。
宮本氏は72年の国交正常化の意義について「戦争状態が終結したこと」と強調。「1949年に中華人民共和国が誕生し、(中共からすれば)戦争状態が続いていた。普通の国同士が国交を持てたことは、日本外交にとって大きなメリットだった。その結果、克服しなければならない問題が幾つかあって、両国関係はギスギスするが、外交、経済、文化関係も普通にやれるようになったのは大変なブレークスルーだった」と語りました。
木寺氏は同様に「日本は中国と2000年以上付き合ってきている。その長い歴史の中で、新しい頁を開くことを可能にしたのが国交正常化だった。日本としては、何よりも安定した中国であることを望む」と述べました。
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