「2002.9.13開催 アジア戦略会議」議事録 page2

2002年10月08日

〔 page1 から続く 〕

福川 それでは、まだご議論は尽きないと思いますが、また後ほど。それでは、コールさん、お願いします。

コール 本当にすばらしい立派な話をされました。今の国分先生のお話は将来のことで、ヨーロッパのことはある意味で過去のことです。簡単にポイントを説明したいと思います。

まず、ヨーロッパ統合がどういう流れであったのかについてお話しましょう。

ヨーロッパ統合には、いろいろ細かい歴史があるのですけれども、一番大事なことは、1950年にヨーロッパの石炭・鉄鋼ユニオンをつくったとき、フランスの外相Robert Schumanが言った、ユニオンの目的は、フランスとドイツの間に戦争が絶対起こらないような構造をつくるということにある、ということです。1950年までの100年間で、ドイツとフランスの間には4つの戦争がありました。戦争の原因には、石炭と鉄鋼があった。だから、そういう哲学に対して、だれも反対が言えなかったということから統合がスタートしました。つまり「フランスとドイツの間に戦争を起こさない」というはっきりした哲学があったわけです。

これは実は今でも全く同じです。ドイツの若い世代でも、フランスの若い世代でも、年をとっている世代でも、このことに対して非常に強い合意があります。絶対戦争が起こらないような政策目標、国を超える政策目標をなんとしても見つけたいということがあるわけです。

1950年といえば第二次世界大戦が終わって5年ですが、ドイツはこれまでの歴史上、いつでも戦後国力が逆に強くなる。これはフランスにとって大きな問題でした。今回はドイツは戦争に負けたことだけではなくて、ユダヤ問題、アウシュビッツとか、今までの人間の歴史上考えられないようなことが起こって、大きな責任を担い、そしてけじめをつけた。その後、どうやって普通の世界、普通のヒューマンリレースに戻すのか。その1つの方法としてヨーロッパ統合があったわけです。だから、哲学は非常に強かった。

また、石炭・鉄鋼のユニオンが設立した1950年に、フランスの外相Robert Schumanはもう1つ、Europe will not be made all at onceと言っています。どうしてもステップ・バイ・ステップでやらないといけないということです。ヨーロッパの歴史には、いろいろセットバックがありました。例えば1954年には、EUは政治的と経済的だけではなくて、防衛のコミュニティも立ち上げようということになりましたが、フランスの国会は反対しました。これは非常に大きなセットバックだったわけです。そのとき、経済統合に再方向転換しました。

これは非常におもしろいです。そうしたセットバックはあったのですが、その後1958年にはEECが設立されました。これに対しては非常に大きな1つの目標があった。つまり、ヨーロッパ経済統合をどうやって世界のレベルにするかということになって、ヨーロッパ全体での関税の壁をつくった。そうすると、経済的交渉を米国と同じレベルでやることになり、EECが設立された。だから、これも非常に大事なことであったわけです。

その後は、ご存じのとおり、1963年には拡大問題がありまして、ドイツ、フランス、ベルギー、イタリア、ルクセンブルグ、オランダだけではなくて、イングランド、デンマーク、アイルランド、ノルウエーを入れましょうということになった。ド・ゴールはイギリスには反対しましたけれども、その後ポンピドー政権になりまして、1973年、イングランドも参加しました。その後はブレトンウッズ体制がなくなりまして、1974年からマネタリー・システムの勉強が始まって、EMSは79年に設立されました。

その次の段階は、89年、冷戦が終わったドイツの統合のときでありました。そのときにはドイツとフランスの合意によって、ユーロ通貨の統合ということになりました。その後のマーストリヒト条約とアムステルダム条約はみなさんご存じのとおりです。これは歴史の繰り返しです。

このような経緯でしたが、ここで私の個人的な経験を例としてお話したいと思います。私の父は1921年ドイツの生まれです。幼稚園時代からフランスに対しての非常に厳しい教育を受けていました。私はちょうど40年後の61年に生まれましたが、私の保育園時代には毎年1回、フランスの保育園とか小・中学校とかとの交流がありました。つまり、政治的目標や哲学的目標だけではなくて、ヨーロッパにおいては社会のあらゆるレベルにおいて非常に積極的な両国間の交渉がありました。これは特にドイツとフランスの間で積極的にありましたね。

もう1つの例としては、ベルリンの壁がなくなり、東西ドイツの統合ができ上がったときのことです。皆非常に喜んだんですが、私の町の友達はこれを見て、何でみんなそんなにハッピーなのかと思った。ハッピーなことはハッピーなのですけれども、旧東独の人たちは、もちろん民族的にはドイツで、言葉もドイツ語ですけれども、我々戦後の世代の西独とは全然違う。どういう小説を読んでいるか、どういう映画を見ているか、どういう庶民文化があるか。むしろフランス人の方が西ドイツに近かった。旧東独は共産主義国だから全然私たちとは違う。もちろん、私のジュッセルドルフの町には旧東独と親族などの直接的関係のあった人が非常に少ないという事情はありました。大学もフランスに近いです。だから、もしかしたら特にそういう状況があったということはあるかもしれない。しかし、こういう現実は1度お話したかったわけです。

もう1つ、ドイツとヨーロッパの関係についてですが、ドイツの根本的な国際化は非常に速く、どんどんスピードアップしています。だからこそヨーロッパ統合はうまくいっているということではなくて、このことを特に現在の日本のチャレンジと比較する必要があると思います。お手元のチャート「海外直接投資:空洞化はさほど進んでいない」をご覧ください。左のグラフは米国とドイツ、日本の海外生産比率を示したものです。日本の空洞化が問題になっていますが、数字で見ると、日本の海外生産比率は15%ぐらいです。しかし、ドイツは35%近い。ドイツの国際化と統合化が非常に進んでいるということです。

35%のうちどのぐらいが対ヨーロッパのものでしょうか。実はヨーロッパ以外は15%しかなく、20%は対ヨーロッパなのです。いろいろ経済分析ができるのですが、要するに近い国と貿易するという、当たり前のことです。日本は確かに産業の国際化が、ある意味でドイツから遅れている。これについてはドイツと日本の産業構造の大きな違いがあります。もちろん、両国とも中小企業が大きなパワーになっている点では似ています。ドイツでは全工業生産の約8割が中小企業で、非常に日本と似た構造です。

しかし、ドイツでは中小企業が系列の中に入っていないため、自分自身の力で海外直接投資をやっているという点で日本との大きな違いがあります。例えば自動車部品メーカーはダイムラー・クライスラーと非常に深い関係があっても、イタリアのフィアットと一緒にチェコスロバキアで新しい工場を造ったりします。これは日本の中小企業の場合では考えにくい。なぜそういうことを言うのかというと、統合とか国際化の原点となるリーダーシップをどこかとるのかという問題です。ドイツの場合は、トップ企業だけではなくて中小企業も国際化や統合のリーダーシップをとっています。そして、教育レベルでも、スポーツレベルでも、社会のあらゆるレベルがリーダーシップとっているのではないかと思います。これが非常に大事なことなのです。

最後に、日本とドイツの歴史は似ているところが多いとよく言われますが、具体的にはどこが違うかということをお話したいと思います。これは歴史の判断の違いということです。どうやって自分の国の歴史を勉強したかというと、私の世代では、ドイツの国やドイツ民族が悪いことをやりましたよということ、すなわちアウシュビッツのことを初学年から教えられました。日本の場合は、アウシュビッツではなくて、広島であるわけです。ドイツと違います。ドイツの戦後社会では、ドイツ民族の歴史とユダヤ、キリスト教の歴史を何でも非常に積極的に勉強します。歴史に対しては、オブジェクティブな分析をすることが非常に重要な問題であるということです。

オランダ人のIan Burumaさんという人の「The Wages of Guilt」という本が、日本とドイツの歴史の比較論として面白いです。彼は日本人と結婚していますが、中国語もぺらぺらだと思います。彼は非常に現実的な分析をしています。

したがって、ヨーロッパ統合に対して、歴史上戦争の原因どこにあったか、ドイツとフランスの歴史はどうだったか......そういう繰り返しの問題は全然ないということです。過去のことは整理した、合意をつくったということです。統合の最終目的は、戦争が絶対起こらない構造をつくろうということです。それに対してのスタビリティーは非常に高いのではないかと思います。もちろん文化の違いなどはありますが、これについては非常にいいレベルで競争的にやっている。だからこそEUはつぶれるということは絶対ない。

その自信が本当なのかどうか。これはバルカン問題のコソボ紛争とき、ドイツ軍隊もヨーロッパの陰で参加したことで試されました。ドイツの国内理論でもフランスの理論でも全然問題が出なかった。EUでつくった構造は実際うまくいっているのではないでしょうか。

日本とアジアとの関係を考えていく場合も、最終目標と最終哲学を出していないとうまくいかないんではないでしょうか。例えば、日本と中国の間では、過去いろいろ戦争がありましたが、今後二度と戦争が起こらない構造をつくりましょう。そういう最終哲学を出さないと、私の個人的な目から見て、経済的な環境をあれこれ整備しても、結局国を超える戦略が不安定なものになるのではないかと思います。

以上です。

福川 ありがとうございました。それでは、皆さんのご意見をどうぞ。

安斎 私も本当に日本はどうしてそうなってしまったのかよくわからないのだけれども、敗戦なのに終戦にしてしまったり......、マッカーサーが物すごく日本に対して優しかったのだと思うんです。日本が経済力を持って、アジアを侵略しないようにというメカニズムを埋め込んだのですね。労働三法なんて、そんなに強力なものになるわけがないなどと言っていたけれど、結局あれが逆に作用して経済力を強めてしまった。

そういう過程で、我々の対外政策、アジアにおいてどのようにやっていくかについて、国民的コンセンサスがないままやっていくことになってしまった。時あたかもそこに朝鮮戦争が起こったんです。これがまたプラス。あそこで朝鮮戦争が起きなければ反省できた。ドイツにはああいうのがなかったですよね。そこが違うのだろうと思うんです。逆に言うと、そこがアジアから見ても、日本に対して物すごくじれったく感じるところですよね。

コール もう1つ、父、母や文化人といろいろ話していると、反米という意味ではなく、我々ヨーロッパ、我々ドイツ人は米国の文化を支えていない。ハリウッドが好き嫌いは別にして、自分の映画文化も育てていきたいという自信があるわけです。だからこそ哲学的には、どうしてもアメリカ型になりたいというところであれば、どうぞアメリカの移民になってください......これもヨーロッパの歴史であったわけです。戦争が終わって、防衛は、アメリカだけではなく、NATOの中は連邦的になりました。それでバランスは非常によくなった。これは自然にそうなったもので、バイ・デザインではないだろうと思います。ということであるわけです。

谷口 コールさんのお話はよくわかると同時に、ややないものねだりかなという感じがします。といいますのは、ドライなインセンティブの構造にこの議論を落としてみると、ドイツにはインセンティブがたくさんあったはずです。大変な失敗をしたわけですから。それを繰り返してはいけないというインセンティブがあった。だけど、日本にとってアジアと仲よくするインセンティブは80年までなかったんです。ようやく韓国が民主化した80年代にそのインセンティブが出てきたので、それまでは日本はアジアの中の掃きだめのツルですもの。アメリカしかつき合う相手がいなかったので、アメリカと仲よくするインセンティブが強烈に働いたわけです。

だから、今後の議論に持っていくと、アジアとどうやってインセンティブをつくっていって仲よくするかという議論だと思うんです。ここで僕はまたやや悲観的にならざるを得ないのは、先ほどの国分先生のお話にもあるように、中国が全く読めない。この中国にどういうインセンティブを持って仲よくしていくのかということがわからないです。だから、経済の議論しか起きていないというのは、そういうふうに考えていきますと、最適解なんですよ。

コール 読めないからこそ、建設的にプロポーザルを出さないといけないということもあるのではないですか。したがって、例えば国分先生が示してくださった読売新聞の日中関係の世論調査によると、やっぱり軍事的な問題の可能性はだんだん高くなるという意識が日本人にあるわけです。そういう対策はどうするかということになるわけですね。

谷口 それにしても、中国の軍事的な野心の考量というか、計算もできないわけですから。それは真っ黒に描くこともできるし、そうでもないというふうに描くこともできますよね。そういう非常に不確定なところを持ちながら、信頼を醸成していく手段も非常に限られてくるというのが現実ではないかという気がしますけれども。

鶴岡 ヨーロッパのことをアジアに投射して活用しようという、前から何回も行われている議論ですけれども、もちろん共通性のところに注目して学び合うことはあり得ると思うのですが、ヨーロッパとアジアでは余りにも根本的に違う。例えば今お話にありましたドイツ人の子供がフランス人の子供と遊ぶことが、日本から見れば当たり前に見えます。ヨーロッパの子供同士が遊んでいるという話がそんなに喧伝されるような一大事件かというぐらい、ヨーロッパは我々から見ると一つなんです。

ところが、インドネシアの子供と北海道の子供が遊んだことはありますか。これはまずあり得ないですよね。北京にいる子供がそれこそ大阪の子供と遊ぶか。しかし、例えば九州地方の学校の修学旅行先は韓国がどんどん伸びている、あるいは中国に行く人が出てきている。そういうこれまでは規制があった団体旅行客を中国は自由化しているわけです。そういうことで少しずつ動いてはきています。だから、流れを全体として見たときに、国と国のつき合いが一番基本にあって、そこが枠組みをつくった中で経済的な利益も目指して、先ほど国分先生のおっしゃられた社会的な関係が、別に中国との関係だけではなくて、かなりアジアとの間で進んできていると思います。

戦前の日本も例えば南方留学生のような国費留学生をつくって、当時やっていたことで今余り重視されていないのは、地方にアジアの人を受け入れるということだと思います。熊本工科大学を卒業したインドネシアの人が母国で今日本の留学生の事務局長をやっていますけれども、戦前の記憶をいまだ鮮明に持っていて、もちろん当時東京に来たこともあったと思いますが、やはりそういう素朴な日本人に触れた経験が何十年たった後も親日の基礎になっているんですね。

そういう形で、日本は東京だけでなくていろいろな地方を活用する。さっきお話にあった自治体同士の交流は非常に重要な友好関係の基礎を広げていく道具だと思います。今それで非常に伸びているのはJETという、英語あるいはその他の外国語を中学、高校で教えてもらうために、大学生、大学院生、あるいは卒業した人でも日本に招いて1年から2年教えてもらうプログラムです。この人たちは地方に行って、地方の公立学校で、フルの先生ではありませんけれども、補助員として語学の授業をやってくれているんです。この輪が随分広がってきています。

ただ、日本の政府なり日本の国がやることはやや中途半端なところがあって、それだけ広がっていけば、今度は同窓会組織をつくって、その人たちが例えば年に1回日本に来て総会を開いて、そのときにまたいろいろ交流を深めるとか、引き続き日本のことを勉強してもらうようにしたり。もし希望すればさらに研究の支援をするとか、そういう形で本当はつくった種を育てる部分に投資しなければいけないのですけれども、これはなかなか予算化しにくい話なんですね。我々もアメリカではかなりやって、例えば小渕総理大臣がアメリカへ行ったときにワシントンでJET総会を私の課長時代に企画してやったのですけれども、金がかかるからやめろという声が非常に強かったんですね。

そのあたり、優先順位をどこに置くかという議論を政府部内でやっていくときに、やはり伝統的には国と国のおつき合いを重視するのは政府の中では当然だと思いますが、恐らくこれからは意図する以上に民間なり、さっきの表現で言えば社会同士のつき合いが急速に伸びていくと思いますね。それは政府がやめさせようと思ってもやめさせられないし、できることはせいぜいそっと後ろから肩を押してあげるぐらいの支援にすぎないと思うんですが。とにかく邪魔しないようにさえしておけば、今のインターネット時代に加えて、国民同士が自由に交流できるだけの余裕が経済的にも少し出てきていますし、関心が国際的に向いてくる若者はどんどんふえていますから、全体の流れとしては必ずよくなっていくと思います。そのときに、今お話にもあったとおり、日本の若者も日本の今の国づくりの基礎にあったことをよく勉強することが大事だと思うんです。

下手をすると、太平洋戦争の相手方がアメリカであって、日本は戦争に負けたことを知らなかったりして外国へ行っちゃったりする人がいますから。そういう現代史を勉強するところをもう少し日本の教育課程の中でも重視していかないと、海外に出ていった人自身が、国際的に恥ずかしい目に遭ってしまうのだろうと思うんですね。そういうことを経験した外国人は、日本人は過去を忘れる国民だという烙印を一つ押して、あとはもうステレオタイプ化してしまって、それがいろいろな本にどんどん引用される。これが今一番不幸な問題だと思います。

実際は決してそんなことはない。過去の問題はちゃんと整理してあるんです。しかもそれについて日本は非難されるいわれはない。ただ、それを国民自身がもう少し自分の問題として主体的に理解するという工夫と努力が足らないですね。そういう努力不足は吉田茂もまさにそうでした。サンフランシスコ平和条約についても吉田茂は「寛大ないい講和である」と言って国民に売ったんです。どういうことかというと、当時、不思議ですが、あの条約には四十何カ国が署名しているのにもかかわらず、単独講和であると言われたんです。どこが単独かと思います。単独だったのは会議の席をけって出ていったソ連であるはずですが、ソ連が入らない講和をするのは間違いだということを当時のマスコミがこぞって書いたわけです。

そのときに、それでも国会をちゃんと通さないと条約が発効しないので、本来負けた国ですから条約の中身に文句をつけられるわけはそもそもないので、そこで独立するかどうかの選択しかなかったときには、国会に対してこの平和条約で受け入れましょうということを、できるだけ「いい条約」だという説明をしながら通したんですね。そのときに淡々と、もう日本には選択肢はないんです、負けた国なんだから与えられた平和条約に署名するほかないんですよということをもっと正直に説明するべきだったというのは歴史の後知恵ですけれども、本当はそういうことを識者がちゃんとそのときに議論して、それを基礎にして国際社会にどうやって復帰していくかという将来に向けた議論を組み立てるべきだった。しかし、当時はなかなかそういう雰囲気ではなかった。

ドイツの場合、世界大戦で言えば少なくとも2度戦争をしています。日本は1回なんですね。実は日本の平和条約の内容を見ると、日清、日露あるいはその後の国際連盟下の委任統治なんかも含めて、領土が広がった。よしあしは別として、当時の世界ではみんな自分の古来の領土以外のものを手に入れることで競争していたときに、それなりに日本も領土の拡大を重ねてきたわけです。それを1回の戦争で負けて全部失うというのはかなり高いコストを払っているわけです。

そういうことも言ってしまうと反対論者を力づけますから、やっぱり言わないで、これは大変ありがたい条約ですということで売ったんです。それを今に至るも皆さん信じているところがあって、だから、あれはありがたいものなんだ、ありがたいものだから後ろめたいというのが今度はコインの裏側に出てくるんですね。私はそこまで後ろめたいものでは全くないと思います。それは当時の国際社会の中で必要があって内容がつくり上げられた条約です。日本側には発言権はなかった、負けているんですから。そこのあたりの事実をちゃんと踏まえた上で、そのときの議論をもう少し今の歴史教育の中にも反映させて、そういう理解を持った人たちが国際社会ともより広いつき合いを進めていく。そういうことで社会的に底辺を広げていくというのは、時間がかかりますけれども、これからできれば意識的に努力するべき課題ではないかと思います。

国分 教育でいきますと、例えば国際政治学の教科書もそうですけれども、ウエストファリア体制が成立して国民国家がどうのこうの、すべてここが始まりなんです。緊張感がない。つまり、日本を中心とした近代アジアの世界でどういうふうに国民国家が問題になってきたのかとか、そういうことで始まるものはないんです。日本が中心になった国際関係論が描けていないし、そうした教科書も日本にはない。

鶴岡 それは日本が中心だけではなくて、中国が中心のものもなければ、韓国が中心のものもなくて、要するに白人の歴史が依然として世界史なんですね。

国分 そうです。

鶴岡 ですから、白人の目を通した太平洋戦争であり、ヨーロッパの戦争であり、冷戦であり、今のアジア情勢なんです。それに対して、言葉の問題もあるし、蓄積が不十分なためになかなか発信ができない。そうしたところが文化的、知的にも実はアジアはまだ途上国なんだと思うんです。いろいろなシンクタンクがシンガポールやマレーシアやインドネシアにもありますが、結局、彼らはアメリカで勉強して戻ってきて、そのPh.D.なり何なりを活用してシンクタンクを運営している。同窓会があると、アメリカにみんな集まっていく。日本人の学者でも同じような勉強をした人がそこに行っている。

国分 上の方の世代がもつ東洋史の知識はもう異常なほどですよね。漢文の世界から始まって、信じられないほどの知識を持っている。ところが、戦後の世代ではそういう人はほとんどいません。学界でも歴史学は東洋史と日本史に完全に分かれてしまって、国際関係をやっている人たちにとっては、欧米世界が国際関係になってしまっている。東洋史や日本史を学習することが国際関係の研究にどういう意味があるか、そうなってしまったんですね。

しかし、我々を中心としたような国際政治とは一体何だったのかという研究をやっている人はこれまでにいないんです。日本をめぐる20世紀国際政治とか、そういう歴史観の研究のようなものは、冷戦下では非常に政治色があり過ぎて、あるいは党派性が強過ぎて、ほとんどまともな研究ができなかったと言われています。

コール でも、ドイツでは、反米とか反NATOとか、そういう議論はもう60年代から、学生運動に限らず、インテリでも勉強していました。そういう面では日本は自信がないのか、あるいは......。

国分 多分アジアを研究すること自体がみんな物すごく怖かったんですよ。だから、アジア研究者の数が相対的に減ってきた。つまり、戦前の研究を全部否定しないといけなくなったわけですから。

谷口 昔悪いことをしたという要素もあるだろうし、国分先生もおっしゃっているように、韓国を研究すること自体がイデオロギー性を帯びたんです。それは、いいと言うか言わないかによって本当に進歩派か右翼かの差になるわけだし、中国についてもそうだったでしょう。ですから、そういうものを離れた国分先生の世代が、最近やっと出てきたということではないですか。

国分 世代的に言うと僕自身が文革の最後です。文化大革命より上の団塊の世代に中国研究者は非常に多いんです。毛沢東に憧れて入っていったのが多いですから、みんな毛沢東主義者でした。それがみんな変わりましたけれどもね。

谷口 韓国という呼称を使うと直ちに右翼だと言われた時代が長かったです。南朝鮮と言わなければいけなかった。中共と言ったらそれだけで右翼で、中華人民共和国と言わなければいけないとか、そういうことが70年代半ばぐらいまでずっと続いていましたね。

国分 僕なんかはそういうところから離れたところから研究をスタートさせているので、非常に楽でした。しかし、上の世代はやっぱり大変でしたよ、どちらかに色をつけなければいけないから。そうしないと反動派というレッテルを張られたりしましたし。そういう政治色が余りに強過ぎたんですね。僕だって、キャンパスで共産党史資料集とか抱えていると、何やっているんだと言われた。だから、隠しますよ。そういう時代が70年代ぐらいまでずっと支配的でしたね。しかし、冷戦が終わっても依然としてアジアでは冷戦が終わっていないから。朝鮮半島も分断されたままだし......。

鶴岡 まさにそこが依然としてヨーロッパとアジアの間にある一番大きな違いですね。日本を狙うミサイルを開発している国がすぐ隣に幾つもあるんです。ヨーロッパではもうそういうことはない。そこが冷戦が終わったか終わらないかということを極めて明確にあらわしている具体的な事実なんです。しかし、日本国内は伝統的に白を白と言わないという手法を持っていますから、そういうことはなるべく言わないことになっているんですよ。そうすると、さっきからお話があったように、本来、客観的な事実を明確にして共通の理解を持った上で、それにどう対応するかという政策が出てくるはずなんですが、その部分はちょっとおいといてということから始まるものですから、当然積み木はその上に重ならないんですよ。

谷口 だけれども、鶴岡さんが一方でおっしゃっているように、社会レベルのつき合いがふえてきた。ポップカルチャーも浸透度がふえてきている。ようやく今本当に、さっきの僕の言葉で言えば、仲よくするインセンティブが別の意味から出始めている。ようやく今だと思いますね。

鶴岡 もう1つ、私がいろいろなところで見ている中国の人たちの間でこのところ若干出てきている、多国間での政治や安全保障問題が話題になる場における態度というか傾向は、自分たちを脅威として見てほしくない、というものです。中国脅威論をすごく嫌うんですね。中国は全然脅威じゃございません、平和愛好国家でございますということを常々言います。そうすると、それでは軍事予算などをきちんと透明性を持って、どういう戦略を持っているかぐらいは出したらどうかといったやりとりになるのですけれども、もちろんそれはやらないんです。

少なくとも今お話のあった共通の目標という点からすると、表面的かもしれませんが、お互い脅威ではないことを訴えたいということが、少なくとも公式の発言で随分出てくるようにはなっている。恐らくどの国も、はい、私はあなたにとって脅威ですと言ってくることはないと思うんです。お互いの脅威感をさっきの世論調査にもあらわれているような形で国民が持っているとすれば、それを少なくしていくことは、不安定な国と国との関係を安定化させるために最小限必要な努力です。先ほど国分先生がおっしゃられたパーセプション・ギャップみたいなものも、客観的な事実に基づいた認識があって、それが正しく相手をとらえているのか、あるいは幻想なり誤った感情的な思い込みの結果、張り子の虎的な幽霊のようなものに見えてしまっているのか、それをはっきりさせることでしょう。

そのあたりのことも脅威を持つか持たないかということにつながっていく話ですから、お互いの脅威感を減らしていく。日本の場合は、いろいろな形で軍事大国にならないとか、総理がいろいろなところで平和国家としての理念を繰り返し述べることについては、少なくとも国民がそれを支持するということで、アジアの国からは歓迎されています。多くのアジアの国は、今は日本が軍国主義だということを真顔で議論してくる人はいないですよね。政治的な思惑がある人がいろいろなことを言うというのはもちろんありますけれども。例えば、そういうことを積み上げていくための議論の機会を日本からも提供しながら、平和を強化していくための基本的な戦略の説明を各国に首脳部に求めていくということも意味があるのではないでしょうか。

もちろん、そういうときに、私はあなたのところを征服したいんですと言う国はあり得ません。ただ、今の社会では言ったことが記録に残って、公表して、文書としてそれが国民に対して示されれば、そこから後戻りするのはなかなか難しくなっている。時代の変化と民主主義の進展によって国民の重みがそれぞれの国の政策に及ぼす影響が大きくなってきていると思うので、そういうものを目指した外交の展開がアジアの中でもこれからもっともっと必要になってくるんじゃないでしょうか。

安斎 簡単にみんなナショナル・インタレストの実現なんて言う。僕は、先生がおっしゃったように、やっぱり不安があったら不安を率直に向こうに言って、それを解消する説明なり何なりを求める。これが外交なんだと思うんです。簡単に仲よくするとか何かではなくて、必ず不安がある。いつでも不安をぶつけて、それを解消するように努めてくれ、それから説明を求める。これが外交の基本のような感じがしますよね。

鶴岡 例えば台湾問題について、日本がなぜ台湾問題について発言するかということについて、「ためにする」議論を展開する人は、日本が台湾をもう1度日本に編入しようと思っているからでしょうという難癖をつけるんですね。逆に、そういうことを指摘されたら、絶対そういうことはありませんと言えるいい機会を提供してくれたと思って、だれもがそこできっちり反論すればいいんです。なぜなら、これから台湾を日本の一部にしようと思ったら、日本の安全保障は破壊されます。そんな愚かなことをするはずがないんですね。

議論をもっと重ねていくことが、このような初歩的なことについてもまだ十分ではないと思います。アジアはそういう点においてはまだまだ未熟です。

福川 議論は尽きないのですが、少し議論の軸も見えてきたような気がします。きょうはありがとうございました。


以上

会議出席者(敬称略)

福川伸次(電通顧問)
安斎隆(アイワイバンク銀行社長)
加藤隆俊(東京三菱銀行顧問)
国分良成(慶應義塾大学教授)
イェスパー・コール(メリルリンチ日本証券チーフエコノミスト)
谷口智彦(日経ビジネス編集委員)
鶴岡公二(政策研究大学院大学教授)
松田学(言論NPO理事)