東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」寄稿より/中国編・第5話 相互尊重とケンカ

2007年8月28日


過去を乗り越え、未来に向かう議論の場としてこだわった8月のフォーラム開催

 日中の対話を8月に予定通り立ち上げることは可能なのか。2005年5月、北京に着いた私たちが心配したのはまさにその1点だった。反日デモの騒ぎを理由に「延期したらどうか」という声が中国から私たちのNPOにも内々で届いていたからだ。
 私はどうしても8月の開催にこだわりたかった。それには2つ理由がある。
 私にはこの日中対話をアジアの過去を乗り越え、未来に向かうアジアの議論の舞台にしたいという強い思いがある。そのためにはこの8月という日中にとっても特別な時期に、この対話を開催し続けること自体に意味があると考えていたのである。
 日本にとって8月は原爆の投下や米国の侵攻に敗戦を迎えた特別な時期ではあるが、アジアにとっては抗日戦争に勝利した時期である。私たちは8月の終戦時に太平洋を思うが、アジアの人は日本を考える。この戦争の2つの性格が、アジアの戦後に様々な後遺症をもたらしていた。

 さらに言えば、民間の自発的な活動を、政治の都合で変更することはどうしても避けたいという意地も私にはあった。仮に一度でもその前例を認めてしまえば、この民間主導の対話自体が成り立たなくなる、そう思えたのである。
 この決断は今でも正しかったと思う。ただ、当時の私は、日本の小さなNPOの力でこの8月の開催をどう実現できるのか、途方にくれるほど大きな政治の壁を感じていた。
 この8月こそ日中間は政治の季節であり、日本の首相の靖国参拝問題を巡って緊張感が強まる時期となる。反日デモと暴動の年に、しかもそのまさに政治の季節となる8月に北京で日中対話の舞台を立ち上げるのである。
 だが、最悪な時期だからこそ対話の意味がある。その結論はこの訪中で出すしかないと私は考えていた。

 私たちが議論提携したチャイナディリー(中国日報社)は独立したメディアであり、中国の4大メディアのひとつである。中国のメディアは自由な報道を行ってはいるが、事実上、政府の管理下にある。それを管轄するのが国務院(中国の政府)の新聞弁公室である。
 訪中した私たちの目的はこの新聞弁公室の担当大臣である超啓正主任(当時)に直接、協力を要請することだった。
 反日デモでさらに混乱した日中関係下で予定通り、この日程での日中対話の立ち上げを行うには中国政府、しかも直接の監督官庁の理解がどうしても必要なのである。
 会談はチャイナディリーがアレンジしてくれた。彼らも、政府がここで了承してくれないと動けないと言う。つまりは、この会談に8月の実現の成否は賭けられたのである。

 部屋には、新聞弁公室の超主任のほか、担当の幹部が揃い、私たち日本側とチャイナディリーと北京大学国際関係学院の首脳が向かい合った。
 最前列には中国式にトップが対面する形で作られた2つの席が並んでいる。その上座に背中を押されるように私が座った。
  相手は現役の大臣でしかも中国のメディアを管理する立場の実力者である。そして私は日本のNPO。場違いのような席の組み合わせに私の体はこわばった。雰囲気を変えたのは、私に同行していただいたアイワイバンク(現セブン銀行)の安斎隆社長と前マッキンゼー東京支社長で現在は社会システムデザイナーとして行動する横山禎徳さんの掛け合いだったと思う。


中国でも通じた自由な対話の重要性

 会談は2時間にも及んだが、その主役はある意味で安斎、横山のお二方だった。
 超啓正主任と私の挨拶が終わると2人が順番に立ち上がった。
 「工藤君の志は応援してはいるが、私がここにいるのは、彼が糸の切れた風船のようにどっかに飛んでいかないか、それが心配だからだ」
 「私も彼が心配で来ている。日中は友好でなく、本当の議論をすべきだ。そのため私もこのNPOを応援している」
  日本でもいつも私はお二方に怒られ放しではある。それを中国のしかも大臣との要請の緊張した場でずばずばと遠慮なく言われるとは思わなかった。が、それ以 上に驚いたのは、この中国の実力者の表情だった。ちらっと見ると超主任はまるで友人の会話を楽しむようにこの光景を見て笑っていたのだ。

 主任は反日デモの際に政府がそれを説得するのが大変だったこと、日本企業への不買運動などを抑えるために中国メディアを使って抑えさせたことを説明し、日本とのチャネルが不足していることで、こういう対応時に困ったと言っている。
 その話を黙って聞いていると、隣から声が飛んだ。
 「工藤君、日本企業についてきちんと説明しないとだめだぞ」
 それから、私はデモの対象となった日本企業がいかにアジアや中国の将来のための努力しているのかを、先生に怒られた生徒のように、多分、20分は話したような気がする。
 さらに話が中国に紹介したい日本文化の問題に移ると、お二方はその場に無関係に議論を始め、それを仲裁するのが私の役目になった。
 きっかけは実に単純な話で、中国に紹介すべき日本の文化について、武士道の精神について解説を始めた安斎さんに対して、横山さんが噛み付いたことだ。「江戸時代に武士が人口の何パーセントかを知っていますか。町人こそが文化を作っていた」。
 お互いの持論が飛び交い、もう手がつけられなくなった。が、横目で見ると、主任が大声を出して笑っている。

 よく考えてみると、私はこの日の会談の最大の目的である言論NPOのこともこの日中対話についてもあまり説明した記憶がない。あっという間に2時間が過ぎ、笑い続けた大臣がこう言って会談を締めくくった。
 「これまで日本からいろいろな政治家がやってきたが、これほど愉快で楽しい会話はなかった、これが言論のNPOということですか。自由な対話が重要なことはとてもよく分かった」
 私も、日中対話のあり方をその時、お二方に学んだような気がした。お互いを尊重して本音の議論を行えば、それが喧嘩となっても必ず分かり合えるはずだ、と。
 ふいに同席したチャイナディリーの張平氏がこう言って、手を差し伸べてきた。
 「工藤さん、よかったですね」。
 その手を握りしめながら、もうこれで後には引けないな、と私は覚悟を固めた。

東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」中国編