東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」寄稿より/中国編・第8話 ラストチャンス

2007年8月28日


第1回フォーラム直後に取り掛かった第2回への準備

 「東京-北京フォーラム」は北京と東京で毎年交互に行い、10年間継続することが決まっている。北京での立ち上げが終わると、私はすぐに東京での開催の準備に取り掛かった。大げさな言い方かも知れないが、私は北京での「民間対話」の立ち上げに、歴史的な意味を感じている。ただ当時の私にはそれが第一歩に過ぎない、という思いの方が強かった。
 民間対話の役割は政府間の対話を補完するものである。が、肝心の政府間の関係は首相の靖国参拝を巡り、ほとんどの交渉が停滞する状態であり、国民の間には感情的な反発も残っている。

 政府の関係改善が進まない中で、民間の対話をどう今後、発展させることができるのか。私たちに求められていたのも、まさにそうした課題の解決だった。
 東京開催は、北京での立ち上げ以上に深刻な問題を抱えている。
 2006年9月の総裁選で退陣が決まっていた当時の小泉首相は、その夏には靖国参拝を行う意向を示している。フォーラムはそのまさに8月の東京での開催なのである。
 そうした政治的な環境下で中国側の出席者が予定通り東京にくることは可能なのか、さらに民間の対話で何を実現できるのか。それが私の何よりの気がかりだった。

 年が明け、中国で旧正月が終わると、私は再び北京に向かった。全人代の会議が北京で始まっていたが、訪日団派遣の確約をどうしても取り付ける必要があった。
 北京では対外的な民間交流に責任を持つ中国対外友好協会の陳昊蘇会長(当時)が、私との面談に応じてくれた。会議を抜け出しての慌ただしい面談だった。
 陳会長は文化人らしい穏やかな笑顔が似合う中国を代表する有識者であるが、実はあの中華人民共和国の立役者の一人の陳毅元帥の息子さんでもある。

 一通りの挨拶が済んだ後、私は尋ねた。
 「8月の東京開催でも訪日は可能ですか」
 「民間の会議がいちいち政治の都合に影響を受けたら、会議が継続するのは難しいでしょう。訪日団は派遣します。ただ、現職の大臣が何人も揃うのは難しい」
 いつも通りの優しそうな口ぶりだが、判断は早かった。
 帰国後、私は8月開催に向け、日本側の有識者による準備会議を発足させた。
 会議には、2005年北京での立ち上げに参加した、小島明日経センター会長や白石隆政策研究大学大学院副学長、進和久ANA総合研究所常勤顧問、安斎隆セブン銀行社長、溝口善兵衛国際金融情報センター理事長(現島根県知事)、鈴木寛参議院議員などが集まった。(肩書は全て当時)


日中関係を好転させるための「ラストチャンス」

 第1回目の北京のフォーラムでは国民間にある基礎的な理解不足に関する認識を出席者が共有し、その解決に向けて話し合った。東京で行う日中対話では共通の課題解決についてもっと向かい合えないか、と私は考えていた。日中やアジアの将来についてのメディアや政治家の対話のほかに、歴史認識の問題や資源の問題である。
 準備会の打ち合わせで、それらが分科会のテーマとして固まったが、こうした個別テーマを越えて、私はあることを実現できないかと本気で考え始めていた。このフォーラムを、日中が関係改善に動き出す歴史的な転機にできないか、ということである。
 「このままだと日中関係は取り返しが付かない事態に陥るのではないか」。私の心の中ではそんな気持ちが高まっていた。それを痛感したのは、第2回の日中世論調査の集計作業の途中である。

 反日デモから1年が経過し、中国国民の感情にもやや落ち着いた傾向が出始めた。
 問題は日本側の反応である。国民の意識に中国の経済、軍事両面での脅威感が出始め、相手国を敵とみなすナショナリズムの傾向が、中国ばかりか日本でも見え始めた。
 中国の反日デモの光景は何度も日本側のメディアに登場し、様々な情報が放映された。情報の"期ズレ"ともいうべき現象が、日本側の国民感情を動かし始めたのである。
 私は、日中関係は水が流れない、水溜まりのようなものだと思っている。交流を失った社会は、水が淀むように活気を失い、将来への重大なリスクを抱え始める。
 東京開催のフォーラムはむしろその状況を変えるための「ラストチャンス」ではないか、と思えたのだ。

 ここからの話は関係者に迷惑がかかるため、現時点でまだ全てを明らかにするわけにはいかない。


フォーラム開催3日前に決まった安倍官房長官(当時)の政府挨拶

 私は次期総理が事実上固まっていた当時の安倍晋三内閣官房長官に、この日中対話の舞台で挨拶をお願いできないかと思っていた。会場には中国の有力者が参加し、議論の内容は北京など中国国内に直接報道される。問題は安倍氏がこの言論NPOという非営利組織からのボールを受けて、中国やアジアに投げ返してくれるのか、ということである。
 私は、安倍氏と面識もないし、安倍氏の持論が海外では若干、右寄りの領域にいると思われていることも知っていた。ただ、私には一種の確信があった。次期政権にとっては、個人の主張がどんなものであれ、空白のアジア外交を立て直すしか、この不安定な国際環境に日本が主体的に取り組む道は残されていない。安倍氏ならこの舞台を活用するに違いない、と。
 私が相談したのは当時の外務副大臣の塩崎恭久代議士(安倍政権下では官房長官)などである。そして多くの有識者に私の動きを後押ししていただいた。

 この過程で今でも印象に残っている2つの場面があった。
 1つ目の場面は、自民党の当時の中川秀直幹事長に分科会の基調報告をお願いするため事務所を訪ねた時である。無理を承知でのお願いだったが、開催日が8月3日だと分かると、手帳でその日の予定を確認し、出席を即決していただいた。
 2つ目は、6月頃、六本木の中国大使館にフォーラム開催で挨拶に行った際に、高官から「工藤さんは歴史を動かしましたね」と咄嗟には意味を掴めない言葉で話しかけられたことである。私が安倍氏の挨拶を想定して動いていたことは身内のごく限られた人しか知らず、中国側にも伝えてはいなかった。
 舞台は私たち非営利組織が用意をしようとしたが、私も知らないところで全ての歯車が、この舞台を中心に回り始めているように感じた。

 フォーラムまでの数カ月は、まさに胃の痛くなるような日々でもあった。
 日本側の参加者は当時の小池百合子環境大臣、町村信孝代議士(現官房長官)などの政治家や経営者やジャーナリストなど48人が固まり、中国側からも閣僚級の要人5人を含む26氏の来日が決まった。
 ただ、私が最後まで心配だったのは、安倍氏の挨拶のことだった。本当に安倍氏はフォーラムに来てくれるのか。また、この場で関係改善に向けたスピーチを行うのだろうか。もし、逆の発言になったら、フォーラムだけではなく、アジアの将来自体に深刻な影響が出てしまう。
 官邸サイドから、安倍氏が挨拶を行う旨の報告が正式にあったのはフォーラム開催のまさに3日前だった。大会のプログラムも直前まで挨拶の欄には、政府挨拶しか書かれていない。その空欄にその日、安倍官房長官の名前が書き込まれたのである。

 そして、フォーラムの当日がやってきた。

東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」中国編