東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」寄稿より/中国編・第10話 メディアの責任

2008年5月02日


共同世論調査から浮かび上がったメディア報道の在り方

 私がNPOを立ち上げた時に、「言論NPO」という名前を付けたのは、「言論」という言葉にある強い思いがあったからだ。
 「健全な社会には健全な言論が必要であり、それこそが民主社会のインフラだ」という思いである。言論側に立つ人間にはそうしたインフラをしっかりとしたものとする責任が問われている。そうした言論の役割を、非営利で取り組めないかと考えた。
 私が、日中の民間の直接対話の実現に取り組んだもう1つの大きな理由は、日中関係が最も困難な時に、メディアの報道が両国の対立に拍車をかけているのではないか、という危機感だった。
 両国のメディアは、日中両国民の相互理解を深めるどころが、不理解を増幅しているのではないか。これが、私たちが毎年行っている日中両国民を対象とした世論調査結果から浮かび上がった疑問でもある。

 前にも触れたことだが、直接的な交流が極端に少ない日本人と中国人は相手国に対する認識を、それぞれ自国のメディアの情報にそのほとんどを依存している。
 世論調査の結果で興味深いのは、自国メディアの報道の客観性に関して問うた設問である。中国人の6割が「自国メディアの報道が客観的」と考えているのに対し、日本人は自国のメディアが客観的と見る回答は3割に過ぎず、逆に「日本側に立った主観的報道」か「対立を強調している」と考える見方を合わせると4割近くになっている。
 この結果には幾通りもの解釈は可能だろう。ただ、はっきりと言えることは、自国のメディアを信用し過ぎるのも、信用できないのも、いずれも「健全な社会」ではないということである。

 「ジャーナリズムは平和構築の推進者になりえるか」。最近、こうしたタイトルの国際シンポジウムにパネラーで参加した時にも発言したことだが、私はメディアとそこで働くジャーナリストの役割は別に考えるべきだ、と考えてきた。
 メディアの報道はどうしても営利企業としての性質に影響されてしまう。その時に関心がある話題に報道は集中しがちだし、さらにステレオタイプで情報の解釈や処理をしてしまう傾向が強い。
 中国は社会主義で覇権主義的、日本は軍国主義的な傾向が根強いと、両国民はお互いの国を感じている。お互いの社会はそこまで固定的で単一的なものではないのだが、メディアはそうしたステレオタイプの傾向で情報を処理したほうが分かり易く、関心も集めやすいために、国家主義的なイメージを結果的に補強してしまい、対立を煽ってしまう。
 もちろん中国の体制と日本の体制は異なり、中国のナショナリスティックな傾向に驚かされることが多いのも事実である。が、これを国家のパラダイムでしか解決できないのなら、対立しか生み出さないのではないか。それを市民社会の次元で多様な関係を構築し、そうした多様な議論や見方を認め合い、尊重しあう関係を作り上げることが私たちの進めた民間対話の意味だし、そうした自由な対話が国境を越えて多面的に動き出すことでしか、この国家主義のパラダイムの転換はできないのではないか、と思ったのである。
 メディアが国家主義を補強する傾向が強いならば、ジャーナリストはこの多様な対話を生み出し、あるいはサポートする主体者になれるはずである。それこそが、ジャーナリズムの責任だと、私は思う。


フォーラムでの出来事と、明らかにかい離したメディア報道

 話を「東京-北京フォーラム」に戻すと、私たちの対話には、このフォーラムのミッションを共有した日本や中国の主要なメディアの編集幹部などが数多く、 個人の資格で参加している。個人的には多くのジャーナリストに手を貸してもらいながらも、この「東京-北京フォーラム」に関する日本のメディアの報道に関 しては、驚かされることが何度かあった。
 中国で反日デモが広がった2005年。このフォーラムを立ち上げた記者会見で違和感を覚えたのは、日本側の記者の質問だった。
 「靖国参拝を巡って日中間の議論は対立しなかったか」
 驚いたのは、会議のテーマが歴史認識問題でもなく、そうした議論展開にならなかったにもかかわらず、それを説明しても「そんなはずはない、対立したはずだ」とさらに食い下がる日本人記者がいたことだ。

 2007年8月に東京で開催された第2回フォーラムは、首相就任直前の当時の安倍内閣官房長官の発言で、日中の首脳会談が再開に向かう歴史的な舞台となった。そこでの新聞報道にはもっと唖然とした。
 私自身は、この日の夕刊を読んでいなかったが、会場の運営を手伝っていた学生のインターンから「新聞はなぜ嘘を報道するのか」という話を聞いて急いで新聞を見てみると、午前中まで全体会議で行われた会議風景とは全く異なる記事が1面に掲載されていた。
 そこには、「安倍官房長官と王毅大使が靖国でお互い譲らぬ論戦を展開、火花を散らした」
と書かれている。
 全ての新聞報道がそうだったわけではないが、安倍氏の発言の意味を理解していると感じたのは、わずか2紙だけだった。なぜ、こんな記事になるのか。多分、記者は目の前で起こっている事実を理解できず、予め用意した記事を何ら疑わず、それの裏付けで記事を完成させただけなのだろう。記者には安倍発言は文章で渡っていたはずだが、その内容の変化も気付かなかった。

 この日、全体会議には新聞社などの編集幹部も務める多くのジャーナリストが個人的に出席していたが、その友人たちとメディアの報道現場の意識は明らかにかい離していた。

 なぜ、日本のメディアはKY(空気が読めない)なのか。もちろん、記者の不勉強もあるだろう。だが、私が気になったのは外交や公共というものが、政府だけで動いていると錯覚し、政府要人の行動を追いかけることだけが仕事だ、と思い込んでしまっているメディアが多いことだ。 しかし、外交の舞台は政府だけにあるのではない。民間対話、トラック2の舞台でも外交は動くのである。公共を担おうとする民の活動はこの国でも確実に広がり始めている。


新しいインターネットメディアの形成を柱とした民間対話の夢

 この問題は、この日の午後に行われた「政治家対話」の分科会でも話題になった。
 民主党代議士の鈴木寛氏がこう切り出した。
 「先ほど安倍官房長官の挨拶を皆さんと一緒に聞いたが、いま配信された通信社の記事を携帯で見ると、安倍長官は靖国参拝で首脳会談を拒んでいる中国側を牽制した、と報じている。我々はまさに証人だが、あの発言に牽制の意図を感じた人がいたら手を挙げてほしい」 分科会に参加した100人を超す有識者の間から一斉に驚きの声が上がった。手を上げる人もなかった。その声が静まるのを待って、鈴木氏はさらに続けた。
 「このように日本の既存のメディアが報じてしまう現実を直視しなくてはならない。私はここで提案したい。このフォーラムから新しいメディアをつくるべきではないか」

  私は会場の騒ぎに駆けつけ、その光景を後ろから見ていた。議論はアジアの新しいメディアの形成に移っていた。ふと司会者で私の友人の周さん(牧之東京経済 大学教授)と目が合った。彼は、会場にいた中国側主催者のチャイナディリーのインターネット版の社長の張平氏に意見を求めた。
 「私はこのフォーラムを終わりのない両国の議論の場にしたいし、議論の内容を公開し参加もできるようなメディアにできないかと思っている。新しいインターネットメディアの形成がその柱だが、この構想はすでに工藤さんとも話し合っている」
 この分科会の合意は、フォーラム全体の共同声明にも書き込まれた。私たちの民間対話の夢がもうひとつ広がったのである。

東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」中国編