学生さんの声 4 / フォーラムを終えて

2008年8月29日

 始まりがあれば、終わりがある。当然のことだ。終わって初めて気づくことがある。そしてそれを嘆く人がいる。なぜもっと早く気づかなかったのかと。それは人間の驕りだろう。私たちは神ではない。物事の中にいる最中に全体を見ることなどできないのである。終わって気づくだけでも十分だ。たいていは何も気づかずに終わるのだから。今日、北京で行われた第三回北京--東京フォーラムは終わった。終わってみて何が見えたのだろうか。そして何が見えていないのだろうか。

 フォーラム二日目の始まりは、静か、だった。一日目のような派手さは陰を潜め、フォーラム二日目の挨拶は静寂に迎え入れられた。しかし、沈鬱ではない。皆一様に前日よりも柔和な面持ちで、話者の言葉を噛みしめているようである。その後は日中四人の講演が続く。雰囲気は変わらない。講演者の言葉はあたかも同士を讃え、いたわり、いつくしむ言葉にもきこえる。そして、前日、と同じ。繰り返し、繰り返し、繰り返し。講演者の言うことは同じである。しかし私の昨日の雑感を読めば分かるが、これは批判的な意味で言っているのではない。むしろ好意的である。つまるところ、人の心を動かし、何かを変える力を持つ人は、同じことを恐れずに、相手に伝わるまで何度でも言える人なのである。目新しいことを言うことは、本人に満足感を与え、聴衆もそれを好む場合が多い。しかし、そのような人は往々にして、強い信念を持ち合わせず、その場の自己満足に浸る偽善者である。私たちは本質を見極め、同じことを繰り返し言う人の勇気を讃えようではないか。それによってこそ政治は良い方向に向かうはずなのだから。

 ここでコーヒーブレイクをはさむ。もちろんホールでの議論は活発である。前日よりも政治家や有識者と一般人に近い人々との交流が多く見られる。オープンな議論の場としてのフォーラムの意義はある程度達成されているといえるだろう。

 全体会議の後半は、前日に行われた分科会の報告が行われた。もうお分かりだろう。繰り返し、繰り返し、繰り返し、である。その言葉は日中双方の心にしみ込む。また、この繰り返しは、日中の差異を改めて明らかにする。結局日本と中国に限らず、違う物は違う、のである。しばしば、差異は対立を生む。しかし、ここでは違う。差異があるからこそ、お互いに自らの意見を繰り返し述べ、相互理解を深めようとしているのである。差異は一生埋まらないかもしれない。日中が本当の意味で友好関係を築くことなど不可能なのかもしれない。しかし、多くの良識ある人々が同じことを繰り返し、繰り返し、繰り返し、述べているうちは、未来は明るい、はずである。

 分科会の報告後、言論NPO代表工藤氏によって共同声明が発表された。そして記者会見。もう一度言おう。語られたことは、同じ、である。

 そしてフォーラムは幕を閉じる。

 会場では片付けが進み、フォーラムの余韻は半強制的に消し去られる。寂しさを覚え、ふとホールに出る。そこには、立ちながら、昼食をとりながら、多くの人が何やら話し込んでいる。あぁ、まだこのフォーラムは終わっていなかったのか。その時、代表工藤の言葉がよみがえる。このフォーラムを契機に、今後も継続的な議論が必要なのであると。繰り返し、繰り返し、繰り返し。

 冒頭で私は言った。始まりがあれば、終わりがある。これは誰もが認める事実だろう。でもあえて言わせてもらおう。このフォーラムには、始まりがあり、終わりはない、のかもしれない。少なくともこの神の領域にも近いような言説を信じさせる、魅力、がこのフォーラムには、ある。


文責:林

 「第3回 北京-東京フォーラム」を終えて、ボランティアとして参加した学生さんの声を紹介します。