武藤敏郎(日本銀行副総裁)
むとう・としろう
1943年生まれ。66年東京大学法学部卒業。同年大蔵省に入省し、88年 銀行局中小金融課長、90年 大臣官房秘書課長、92年主計局次長、95年 大臣官房総務審議官、97年 大臣官房長、99年 主計局長などを歴任し、2000年大蔵事務次官、01年財務事務次官に就任。03年1月財務省顧問を経て03年3月から現職。
「開かれたアジア経済」の発展に向けて
日本銀行の武藤です。第3回北京-東京フォーラムにお招きいただき、まことに光栄に存じます。
本日は、地域統合が進むアジア経済の安定的な発展に関して、日本と中国が共通の戦略的利益を持つこと、そして具体的な発展戦略として「域外経済の成長ダイナミズムに対して開かれたアジア経済を実現」することが重要であることについて、お話したいと思います。
共通の戦略的利益
アジアでは、貿易と直接投資を媒介とした域内の生産ネットワークの広がりを通じて、経済面での地域統合が進んでいます。こうした統合過程について、当初日本では、工場の海外移転に伴う国内の雇用減少といったマイナスの面が強調されました。しかし、今日では、域内各国の持つ労働・資本・技術がより効率的に結びつく「分業」の進展として、積極的に捉えられているように思います。
また、こうした分業が進展する過程で資源の再配分が進み、日本経済の構造改革が促進されました。こうした効果は製造業だけに止まらず、比較的生産性の低かった流通などの非製造業の世界にも波及しました。例えば日本の小売業において、中国に自ら生産拠点を持ち、流通過程を短縮化することで安価な商品を消費者に提供するといったビジネス・モデルが注目を浴びました。
アジアにおける経済統合の進展は、各国がゼロ・サムではなく、共に利益を享受するという望ましい結果をもたらしています。相互依存関係を深めるアジア経済の中で中心的な役割を果たす日本と中国は、アジア経済全体が安定的な発展を図っていくうえで、共通の戦略的利益を持つと言えます。
開かれたアジア経済
アジア経済の域内統合と相互依存関係の深まりは、域内貿易比率の高まりに象徴されるように、着実に進んでいます。ただし、このことは必ずしもアジア経済が域内だけで自己充足的な安定成長を実現できるということを意味しません。確かに過去と比べると、域内で台頭する中間所得層による消費が増加するなど、域内需要を原動力とする自律的な成長の力は高まっています。しかしながら、域内貿易の内容をみると、最終的に域外への輸出に繋がっている中間財貿易の割合も決して小さくありません。
日本銀行のスタッフによる最近の調査では、2005年まで推計したアジア国際産業連関表を用いて、アジア各国の所得がどの地域の最終需要に依存しているかをみたところ、NIES・ASEANは中国などの域内経済への依存度を幾分高めている一方で、中国自身は米国を含めた域外経済への依存度を高めているとの結果が得られています。
このように、アジア経済は域内の相互依存関係を深めつつも、域外の成長ダイナミズムを取り込む「開かれた経済」として成長してきています。このことは、同じように近隣欧州諸国との統合が進む中東欧のエマージング経済の貿易構造と比較しても、より域外に対してオープンであるという意味でアジアに特徴的なものだと思います。
域外の成長ダイナミズムを享受していくためには、今後、貿易や投資の一層の自由化を図っていくに当たり、域外に開かれたかたちで進めることが重要です。WTOのドーハ・ラウンドが難航する中、アジア域内では二国間での経済連携協定(EPA)や自由貿易協定(FTA)交渉が活発に行われています。こうした取り組みは、アジア経済の発展を促進し、相互依存関係を一段と深めることに資するものですが、これが域外との関わりにおいて排他的な結果をもたらさず、グローバルな貿易・投資の自由化に繋がるようにすることが重要です。
以上を纏めると、今後、アジア経済が安定的に発展していくための鍵は、地域統合が進んでいく中でも「開かれたアジア経済」として域外のダイナミズムを成長の糧として取り込んでいくことにあると思います。
アジアにおける金融統合
「開かれたアジア経済」としての発展を図る際には、金融の問題も重要です。貿易や生産などの実体経済面とは異なり、金融面でのアジアの域内統合は EUなど他の地域と比べて進展が遅れています。例えば、アジア域内における銀行の活動をみると、欧米の銀行の方が域内の銀行よりも活発に投資を拡大しています。
その一方で、アジアのエマージング経済は、大量の資本流入と積み上がる外貨準備の先進国金融市場への投資といった双方向の資本の流れで、域外との繋がりを一段と深めています。アジア経済が金融グローバル化の恩恵を享受し続けていくためには、アジアと国際金融市場を結ぶこうした国際資本フローの流れが変調を来たさないようにすることが重要です。実際、最近のサブプライム問題に端を発する国際金融市場の動揺はアジアにも影響を与えており、資本フローを通じた繋がりの深さを改めて認識させました。
資本フローとマクロ政策
増大する資本フローといかに共存していくかについて、各国はアジア危機から多くの教訓を学びました。ひとつの重要な教訓は、固定的な為替レートは安定的な経済発展にとって不可欠な価格調整機能を阻害するほか、投機的な資本の流入とその変調による混乱といった事態を招き易いということです。
こうした教訓に基づき、アジアの多くの国は、より柔軟な為替レート運営と国内物価の安定を主眼に据えた金融政策運営の組み合わせというレジームを次々と導入し、成果を挙げてきています。中国も2005年7月の為替制度の改革以降、この方向に向けて緩やかながらも着実に努力を積み重ねています。
今後は、こうしたレジームをアジア全体で定着させつつ、各国当局が政策の透明性とアカウンタビリティを高める努力を続けることが重要です。そのことによって、各国経済の先行きやマクロ政策面での対応に関する投資家の期待を一段と安定させることができれば、資本フローの変調を防ぐうえで効果があると考えられます。
ただ、こうしたレジームの下でも、近年の旺盛な資本流入への対応は容易なことではなく、アジアの当局は様々な問題に直面しています。多くの国で、為替上昇ペースを調整するために市場介入を行った結果、外貨準備が急速なピッチで積み上がっています。同時に、為替市場介入の結果、国内通貨建ての流動性が増大し、中央銀行はその不胎化を余儀なくされています。
こうした状況は、次第に中央銀行の財務上の負担となってきています。巨額の外貨準備は為替の増価によって為替評価損をもたらします。また、国内通貨建ての流動性を不胎化する際には、中央銀行債を発行する国が多くみられますが、この利払い負担も大きなものとなっています。
また、流入する資本は過剰流動性を生み、国内の不動産や株式などの資産価格が上昇するといった事象を招いています。このことは、長期的にみて物価安定への脅威となり得るほか、金融システムの安定に及ぼす影響という観点からも注意深く見守っていくことが必要です。
債券市場の育成
資本フローへの対応としては、市場育成や金融仲介機能の向上といった面での構造的な取り組みも重要です。アジア危機以降、資金の仲介ルートを増やし、資本フローの突然の変調に対する頑健性を高める観点から、債券市場育成に向けたアジア・ボンド・ファンド(Asian Bond Fund)などの地域協力が中央銀行や政府間で目覚しい進展をみせています。
こうした取り組みは着実に成果を挙げてきていますが、今のところ、アジア全体で直接金融が銀行システムと並ぶ信用仲介ルートとして確固たる地位を築くための道のりは、なお遠いというのが実情です。直接金融の信用仲介ルートを発展させていくことは、資本フローの変調に備えるだけでなく、資本のより効率的な配分を通じて経済発展を促します。また、既存の銀行システムの効率性を高め、経済全体の金利機能をより向上させる効果も期待できます。
世界的な保護主義台頭への懸念
「開かれたアジア経済」の発展に対するひとつの脅威は、アジアの発展に伴う摩擦として生じている世界的な保護主義の台頭です。中国との貿易不均衡に対する苛立ちが高まっている米国議会では、各種委員会において中国の為替柔軟化を促す法案が可決されています。こうした動きが今後一段と広がり保護主義の動きが本格化するようなことがないか、注意深くみていく必要があると思います。
これに加えて、最近では金融保護主義ともいうべき動きもあります。急増する外貨準備を背景としたソブリン・ウェルス・ファンド(Sovereign Wealth Fund)設立の動きに対して、こうしたファンドが有り余る資金を背景に戦略的に重要な企業や金融機関などを買い取ってしまうのではないかという懸念が先進国を中心に拡がっています。
こうした貿易と金融の両面での保護主義の動きは、中国だけの問題ではなく、「開かれたアジア経済」の発展を脅かすアジア地域全体の問題と位置付けられます。日本は、同様の保護主義の脅威に対峙してきた経験を持つほか、中国が直面する金融自由化や資本取引の自由化といった課題についても先行して取り組んできました。日本としては、こうした経験を活かしつつ、中国がこうした問題に取り組んでいく際のよき相談相手となっていきたいと思います。
最後になりますが、「開かれたアジア経済」の発展に向けて日本と中国が協力して取り組んでいくことは、まさに両国の戦略的利益に適うものです。この点を改めて申し上げ、結びの言葉といたします。ご清聴、ありがとうございました。