東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」寄稿より/中国編・第11話 喧嘩ができるほど仲がいい関係

2008年6月12日


体制の違いを乗り越え、喧嘩できるほど仲がいい関係を目指して

 日中の民間対話はその後、北京に戻り、そして今年(2008年)は北京五輪直後の9月に第4回目の対話を再び、東京で開催することになっている。私はその準備で東京と北京の間を今なお忙しく飛び回っている。
 この間、日中の政府間関係は改善に向けて大きく動き出した。私たちがこの民間対話を生み出すために走り回った2005年のあの反日デモに見られる深刻な状況と比べると、様変わりのように見える。
 首脳会談は再開され、政府首脳の相互訪問も何度か実現し、今年春には胡錦涛国家主席も訪日している。
 しかし、本当の関係構築はこれからだ、という思いが私にはある。政府間の関係改善は動き出しても、国民同士の直接の交流はまだあまりにも少なく、私たちが毎年行っている世論調査でも明らかなように、ほとんどの国民はお互いをよく知らず、自国のメディアを通したイメージしか持っていないからである。
 私の中国や中国人への認識もかつては同じようなものだった。私自身も一般の日本人同様、当初はこの体制の異なる強大な国に、漠然とあまり親近感を感じていなかった。ただ、私の中国への認識はこの5年間で大きく変わった。私は多くの中国人と何度も議論をし、たまには激しく喧嘩もした。そこまで真剣に中国と向 かい合ったのは、この民間対話をどうしても成功させたかったからである。
 かつて「東京-北京フォーラム」の趣意書を書くときに私はこんな言葉を書き込んだことがある。
 「表面的な友好を繕うのではなく、考えは違ってもお互いを尊重し、本気で共通の課題の解決のために議論する。喧嘩ができるほど仲がいい。そんな関係を目指したい」
 「喧嘩ができるほど仲がいい」。そんな関係が本当に可能かは当時はまだ想像もできなかったが、作業を共有する中でいつしか私は彼らを「仲間」と感じている自分に驚いたことがある。お互いを日本人や中国人であることを忘れるくらい、親しみを感じていたのだ。
 もちろんそうした感情はすぐにできたわけではない。体制の違いからくる障害を感じたことも何度もある。が、彼らは中国政府から指示された話でもないのに、このフォーラム成功のために私と一緒になって政府関係者を説得し、作業でも手を抜かなかった。

 私たちが「友好」という文字をこのフォーラムであえて使わないのは、日中間やアジアに多くの課題がありながら、それから目を反らし友好だけを主張しても、アジアの未来に向けて答えを出すことはできないと思うからである。
 歴史に学ぶことは大事だが、過去だけにこだわるのではなく、未来に向かって新しい関係を作り出す。そのためには、民間で多様な真剣な議論が行われ、それらが国民に公開される。その積み重ねこそが大事なのである。
 日中の民間対話は最も日中関係が深刻な時期からこれまで3回行われた。議論の内容は明らかに変わり始めている。
 フォーラムを立ち上げた当初、私はよく、中国側は政府や党で決められた発言しかしないし、議論が噛み合わないだろう、と言われたものである。が、ほとんどの分科会では真剣な対話が行われ、その議論もお互いの立場の言い合いから、次第に本音の議論に移り始めている。


本音の議論が積み重ねられるつつある「東京-北京フォーラム」

 毎回、「東京-北京フォーラム」では常設の「メディア対話」や「政治対話」のほかに、環境や安全保障、歴史問題などその時に議論すべきテーマ別の分科会を設けている。かなり議論が白熱するのは、この常設対話の「メディア対話」と「政治対話」である。
 「メディア対話」には、日中の世論調査を材料に両国のメディア幹部や有識者が参加する。お互いの国の報道に関する考え方の違いが、この議論の場で激突する。 たとえば、中国では報道に自由がない、という日本側の問いかけに、中国側は日本には報道の自由があるというが、作っている新聞の一面はどこも同じではない か、と反論するという具合である。

 私も毎回、この分科会には出席するがいつもはらはらするのは、両国のメディアが主張を譲らず平行線になり、喧嘩に近いことも起こるからである。2回目の東京でのメディア対話ではこんな議論もあった。
 このセッションに参加した日本側の実行委員長でもある小林陽太郎氏が、2005年の反日暴動を例に出し、メディアの独立性に関する問いかけをしたのである。
 「この時に中国政府として謝罪があってもいいのでは、という記事を書いたメディアは中国であったのでしょうか」。
 中国側から直接の回答は最後までなかった。が、範士明北京大学国際関係学院准教授がこう政府批判を行ったのだ。「対日デモとそれが暴徒化したことは分けて考えるべきだし、その点でのメディア管理では政府のやり方に問題があったと感じています。特に外交部のスポークスマンが謝罪しなかったことが問題でした」。

 昨年、北京大学で行われた第3回目の「政治対話」では、日本の中国研究者まで驚くような議論が飛び出した。
 中国人大学生が「日本はODAでも中国に多大の援助をしていた。なぜ中国政府は日本の常任理事国入りに反対するのか」と会場から質問をし、出席した中国側の政治家が答えに窮する場面があったのである。このやり取りはインターネットで中継されていた。
 日中の民間対話はまだ始まったばかりである。ただ私には一歩一歩ではあるが、確実に当初の目的に向かって動き出しているように思える。「喧嘩ができるほど仲がいい関係」は、本音の議論のこうした積み重ねからでしか生まれない、と思うからである。


日中両国のみならず、アジア、そして世界の課題解決に向けた議論の舞台をつくりたい

 ダイナミックに経済発展を続ける中国は、世界のパラダイムを変えるくらいの大きな影響力を持ち始めている。強大な国でしかも体制も異なる国との対話は国家だけが主導するのでなく、民間も担うべきものだと私は考えている。
 議論が国家の利益を代弁するだけのものなら、国家の競争でしかアジアの未来は描けないだろう。そうではなく、民や市民の強い関係がこれからのアジアには必要だし、日中やアジアの共通の利益や新しい価値観は、そうした強い民間の交流からこそ生まれると思うのである。
 日本も中国も国家としては大きな変化と試練の渦中にあるように私には思える。
 中国は急激な成長がもたらす多くの困難や先の大震災の復旧や救済のような様々な試練に直面している。公開された様々な本気の議論は、中国の変化を物語っているように私には思える。
 日本もまた体制自体は民主主義だが、同じように国依存の構造から、自立した民や市民社会の発展が問われている。
 私たちが進めた民間対話は、こうした変化や試練の中で生まれた試みであり、「民の対話」は国境を超えて繋がったのである。
 その試みを直接作り出したのは私や多くの中国の友人だったが、それを真剣な議論の舞台に発展させたのは、両国を代表する有識者である。1人ひとりが両国に 影響力を持つ多くの有識者がまさに手弁当で民間対話の舞台に参加し、さらに政府関係者も加わり、議論は国民に公開されるようになった。

 私が、中国との民間対話に取り組んだのは言論NPOを立ち上げて3年目のことである。開発援助の専門家のデビット・コーテンは著書「NGOとボランティ アの21世紀」の中で、非営利組織の成長段階を開発援助の課題に即して4つに区分している。非営利団体は人道援助から、自立支援、さらには地域の持続的な発展のための課題解決で地域や国境を越えて活動を進めるというものである。
 世界のNGOの調査から導かれたこの区分は、私たちのようなアドボカシー型(政策提案型)のNPOにも直接あてはまるように思える。
 有権者のための質の高い、参加型の議論の舞台を作るために始まった言論NPOの活動もまた、日本の課題解決のために国境を超え、中国との対話につながる必要があったのである。
 ただ、私の夢はこれで終わったわけではない。この日中対話の舞台で両国関係だけでなく、アジア、さらには世界の課題解決の議論が動き出し、その内容はアジアや世界にも発信される。さらに議論は1年に1回のフォーラムで閉じるのではなく、継続的に行われ、いずれはアジアの舞台に発展し、アジアの声が世界に広がる。そんな民間対話の舞台を私は作りたいのである。(了)

東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」中国編