東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」中国編
一非営利組織と中国4大メディアの1つの間で交わされた合意
その後、私は北京でチャイナディリーと交渉を重ね、日中対話の実現のためにいくつかの合意をしている。
まず名称だが、2つの国の都を結ぶ対話ということで、「東京-北京フォーラム」、あるいは「北京-東京フォーラム」とし、10年計画で原則として毎年8月に北京と東京で交互に開催することにした。
私が強く主張した日中の両国民の世論調査も、このフォーラムの開催前に毎年行うことになった。言論NPOと北京大学国際関係学院が共同で設問の作成と分析を行い、その内容は対外的にも公表する。
対話の運営は対等が原則で、議論の準備もお互いが話し合い、フォーラムの共通費用も言論NPO、チャイナディリーが折半して賄うことなども合意された。
対話の立ち上げには、中国側の受け入れ体制の整備がさらに求められた。国務院新聞弁公室と対外友好協会がその支援を行うことになり、立ち上げの日はようやく2005年8月23日と決まったのである。
中国の主要都市に反日デモが広がってから4カ月目の暑い夏の北京での開催となる。もはや4
カ月足らずしかない。全ての準備がこの夏に向かって慌しく動き始めた。
今から思えば中国での厳しい交渉も私自身そう苦には感じなかった。本当の苦労は、帰国後から始まったからである。
フォーラム開催まで4カ月、駆けずり回ったお金集めと難航するフォーラムの準備
私たちのNPOは特定の団体に支えられている組織ではなく、一般の寄付や助成財団の支援だけで活動を行っている。小さなNPOにはこうした大きな歴史的な国際会議を開催する体力が決定的に不足している。スタッフは十分ではなく、中国との費用折半とはいえ、世論調査の経費も含めると相応の寄付を集める必要がある。
それをこの4カ月間で全て実現する必要があった。
この民間対話の試みがメディアなどでも取り上げられると、大学生のインターンも含めて30人近いボランティアが集まった。言論NPOに参加する有識者には手弁当で議論づくりの準備作業にも加わっていただいた。
私も、世論調査の分析作業や資料作りで学生と徹夜の日々が続いたが、日が明けると背広に着替え、企業や財団への寄付集めなどで走り回った。
あっという間に3カ月が立ち、対話の舞台の立ち上げが目前に迫った。
困ったのは、北京に向かう日本側からの出席者がなかなか決まらないことだ。
日中間は緊張した関係をさらに強め、多くの交流事業は延期などに追い込まれている。反日デモを契機に日本のメディアも中国への批判を強め、中国との関係を重視する経済人の自宅に嫌がらせが始まるほどになった。
こうした状況で北京に乗り込むのは、それ自体、勇気が求められたのである。
「工藤君、君の熱意は分かるが、ここに至っては延期もやむを得ないのではないか」
私のNPOの支援者からもこんな助言がなされるようになった。
だが、ここで諦めたら、民間主導の対話を作り出すことはもうできないと考えた。こうなるともう志の勝負である。
しかも、フォーラムまで2週間となった8月8日、日本の政治に激震が走った。郵政民営化法案の参議院の否決で小泉首相(当時)は衆議院を解散し、総選挙が始まったからだ。
北京行きを決めていた政治家から私の携帯に電話が相次ぐようになった。参加辞退の通告だった。
今にして思えば、この時に北京に一緒に行っていただいた27人は日中関係やアジアの未来を民間の対話の力で切り拓こうとするリーダーだと私は思っている。
安斎隆セブン銀行社長、白石隆政策研究大学院大学副学長、横山禎徳元マッキンゼー東京支社長、小島明日経センター会長、国分良成慶應義塾大学教授、渡辺正太郎経済同友会副代表幹事、木村伊量朝日新聞編集局長、山田孝男毎日新聞編集局次長など。(肩書は全て当時)
企業経営者や学者やメディアの幹部など各界のオピニオンリーダーは、まさに手弁当で自ら北京に集まったのである。
ようやく実現にこぎ着けた「東京-北京フォーラム」
私がこの民間対話で特にこだわったのは、議論がお互い噛み合うように行われることと、その内容が両国民に広く公開されることである。
これまでの多くの日中の議論がそうであったように、表面的な友好を繕ったり、お互いの立場を言い合うだけの対話では意味が全くない。そのためには何か、問題意識をお互いに共有する契機が必要だと私は考えていた。
ある意味で相互不信の構造を対話の出席者が「共通の敵」として、克服しようと思うことができたら、本音でも噛み合う議論を行うことができるのではないか。そう思えたのである。そのためには今回初めて実現した共同世論調査の結果が、極めて重要だと私は思っていた。
実は最近になって、中国政府の外交部の関係者と意見交換をした際に、中国政府がこの対話の立ち上げ時に最も神経質になったのは、世論調査の公表だったという話を聞いた。
「内容によっては、中国の国民を刺激することになるかも知れない。でも、当面、様子を見ようというのが私たちの判断だった」
もうひとつ私がこだわったのは、対話の公開性である。この日中対話は専門家だけが、内密に議論し合うものであってもいけない。
発言者に過大なリスクを背負わせるわけにはいかないが、可能な限り公開し、日本の意見が中国国民にも幅広く伝わり、中国側の主張も日本国民に伝わる。そうした伝播のサイクルを対話から作り上げたかった。
私が中国の巨大メディアと提携を行った背景には、中国国民への強い発信力への期待もある。これは両国関係の改善や相互理解にとどまらず、日本のアジアや世界での発言力の高まりのためにも必要な課題だった。
8月23日。中国大飯店には日本側からのパネリストの他、中国側の政府関係者、歴代の駐日大使など外交幹部、メディア関係者など200人が集まった。その 議論の内容は中国語や日本語だけではなく、英語でも世界にインターネット中継され、CNNやBBCなど世界の主要メディアや中国の80を超すメディアにより詳細に報じられた。(「第1回 東京-北京フォーラム」の報告はこちら)
議論の公開と発信で、この対話は歴史的なスタートを切ることができたことになる。が、私が気になったのは、会議を終えた日本側のパネラーが「議論が中国側と噛み合った、こういう体験は始めてだった」と口を揃えたことだった。
ではなぜ議論が噛み合ったのか。その背景には世論調査の驚くべき結果があった。
東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」中国編
- 第1話:「プータロー」と「プワー」
- 第2話:NPOが中国の巨大メディアと提携
- 第3話:笑顔と握手
- 第4話:外交は政府だけが担うものなのか
- 第5話:相互尊重とケンカ
- 第6話:本当の困難
- 第7話:日本は今でも軍国主義か
- 第8話:ラストチャンス
- 第9話:公共外交
- 第10話:メディアの責任
- 第11話:喧嘩ができるほど仲がいい関係