【「東京-北京フォーラム」の中国側の生みの親である趙啓正氏が語る福田康夫・元総理】彼は心の底から、中日両国が平和友好の関係を保つことを願っていた

 10月22日に逝去された福田康夫元総理は、2010年から13回にわたり「東京-北京フォーラム」にて基調講演いただき、15年からは最高顧問としてフォーラムを支え続けていただきました。
 その福田元総理の逝去にあたり、 「東京-北京フォーラム」の中国側の生みの親の一人で、当時の中国国務院新聞弁公室主任の趙啓正氏の追悼記事が人民中国に掲載されました。福田元首相との20年以上前の出会いから、「東京-北京フォーラム」でのエピソード等が盛り込まれています。ぜひご一読ください。

※中国語の原文を言論NPOで翻訳したものとなります。原文はこちら
※写真は言論NPOで保管しているものに差し替えています


彼は心の底から、中日両国が平和友好の関係を保つことを願っていた——福田康夫先生を偲んで

趙啓正(元中国国務院新聞弁公室主任)

 10月26日、福田康夫先生が逝去されたとの知らせに接し、しばらく言葉を失いました。振り返れば、私が福田先生と知り合ってから、すでに20年以上になります。先生が内閣官房長官を務めておられた頃、また国会議員であられた頃に、すでにお会いしていました。この20年余り、両国関係が温暖な時期であれ、冷え込んだ時期であれ、先生が中日友好を推進するという基本方針を変えられることはありませんでした。

初めての出会い


 初めて接したとき、福田先生について、特に強く印象に残ったことがあります。それは、率直かつ真剣に、現実の問題に正面から向き合うことができるという点です。
 両国の複雑な背景のもとで、メディアが担うべき責任について話し合った際、先生も一部の日本メディアには問題があり、報道が正確ではないこと、改善したいと思っていても、それは容易ではないことを認めておられたと記憶しています。
 矛盾を避けず、問題に敢然と正面から向き合う政治家は、尊敬に値します。

「盆栽」と「呉越同舟」


 私はかつて、中日関係を一鉢の「盆栽」にたとえたことがあります。それは大地に植えられているわけではなく、双方が心を込めて水をやり、肥料を与え、日光に当てなければなりません。世話を怠れば、枯れてしまいます。
 このたとえは、福田先生に直接お話ししたことがあり、「北京—東京フォーラム」でも公に述べたことがあります。先生はこのたとえに賛同され、私にこうおっしゃいました。「中日関係はあまりにも脆弱です。私たちは共にこれを育てていかなければなりません」。
 2015年にお会いした際、先生は再び私にこうおっしゃいました。中日関係は「盆栽」の状態から抜け出し、世界全体の中で役割を果たし、よりたくましく、より大きな成果を生み出せる世界へと進むべきだ、と。
 私はまた、別の物語を用いて日本の友人たちと交流することもよくあります。中国の成語「呉越同舟」は、『孫子兵法』に由来します。呉と越は、もともと互いに敵視していた国でした。しかし、両国の人々が同じ船に乗っているときに風浪に遭遇すると、かつて互いに敵であったことを忘れ、力を合わせて困難を乗り越え、嵐に打ち勝つのです。私はかつて、中国の画家にこの故事を題材とした絵を描いてもらい、福田先生を含む数人の日本の友人に贈りました。
 2022年、感染症の流行中に行われたあるビデオ通話で、私たちは再びこの絵について話しました。先生は「あなたが私に贈ってくださった『呉越同舟』の絵は、私もずっと大切に保管しています」とおっしゃいました。
 私は先生にこうお伝えしました。中日両国の関係においても、私たちは当時の呉と越に学び、同じ船に乗って共に困難を乗り越える者にならなければなりません。風浪が押し寄せるときこそ、力を合わせて困難を乗り越えることが、より一層必要なのです。
 福田先生が生前、「北京—東京フォーラム」で繰り返し語られた「大局」や「協力」とは、まさにこの道理を指していたのです。

フォーラムを20年間守り続けて


 2005年、私は中国側の提唱者の一人として、「北京—東京フォーラム」の創設を推進しました。その後、福田先生は長年にわたり、フォーラムの日本側最高顧問を務められ、ほぼ毎回会場に足を運び、講演を行われました。
 フォーラムが創設されてからの20年間は、まさに両国関係が温まったり冷え込んだりを繰り返した20年間でした。福田先生がその中で最も誇りに思っておられたのは、フォーラムが一度も中断することなく続いてきたことでした。
 両国関係が低迷に陥った年月においても、フォーラムは常に両国のために、対話の窓を一つ残し続けてきました。
 フォーラムでは、誰もが非常に率直に話し、過度に婉曲な言い方をする必要はありませんでした。意見が一致しなければ、議論することも、論争することもできました。そして最後には、いくつかの共通認識を発表することもありました。
 私はよく考えます。このような対話は、必ずしも直ちに何かを変えられるとは限りません。しかし、少なくとも民間の意思疎通のルートを維持することはできました。私たちは中日関係の改善と向上のために、心を尽くし、力を尽くしてきたのです。
 フォーラムにおいて、先生は多くの明晰な言葉を残されました。
 2014年、先生は中日両国は「絶対に銃撃戦に発展するような事態を起こしてはならない」とおっしゃいました。
 2020年には、日本は米中間の「仲介役」を務めるべきだとおっしゃいました。
 2022年には、「一つの中国」の原則を明確に改めて表明され、「一つの問題によって日中関係の大局に影響を及ぼしてはならない」と警告されました。
 これらの言葉は、今日読み返しても、依然として重みをもって響いてきます。


二世代にわたる継承


 福田先生の父君である福田赳夫氏は、『中日平和友好条約』を締結されました。2008年には、福田先生自身が日本の首相として、中国の指導者とともに『「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明』に署名されました。
 父子二世代にわたる二つの政治文書は、両国関係の歴史において、前の世代を受け継ぎ、次の世代へとつなぐ重要な一筆を記しました。
 1978年の条約調印式では、先生は父君の首相秘書官として、その場に立ち会い、歴史的な瞬間を見届けられました。
 2023年、87歳というご高齢であった先生は、最後に現地でフォーラムに出席され、45年前に父君が条約に署名された一幕を感慨深く振り返り、条約締結当初の理念を改めて振り返るよう呼びかけられました。
 今振り返ると、それはまるで先生がフォーラムに託された最後の言葉のように思われます。

歴史観


 私が特に感服しているのは、先生が歴史に対して率直であられたことです。
 2007年に中国を訪問された際、先生は曲阜において、孔子の「温故知新」という言葉を「温故創新」へと言い換えられました。
 2018年には、南京を訪れ、侵華日本軍南京大虐殺遭難同胞紀念館に特別に足を運ばれ、「和平東亜(平和な東アジア)」と揮毫されました。
 まず過去を振り返ってこそ、どのように新たなものを生み出すべきかが分かります。歴史を忘れないでこそ、平和について語ることができるのです。
 このような明晰さと誠意は、同世代の日本の政治家の中でも、決して多く見られるものではありません。

(中略)

結び


 先生は今や世を去られましたが、「温故創新」という四文字は、今も残されています。
 日中両国の人々が、この『盆栽』を丹念に育み続け、いつの日か、それを大地に根づかせることができるよう願っています。

※原文はこちら